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【主婦勉!】浮世絵を知りたい~東洲斎写楽&喜多川歌麿編~



さてここまで来たところでどうしようかと
迷ったんだけれど、
まだまだたくさん巨匠はいるので
全てを細かく調べるのも大変だ。

なのでここは一つ
完全素人の独断と偏見で
勝手に比較形式を取って、
4組を調べることにしようと思う。

・喜多川歌麿&東洲斎写楽
・歌川広重&葛飾北斎
・歌川国貞&歌川国芳
・河鍋暁斎&月岡芳年

いずれもドメジャーな人たちだけれど
なんとなくいつもツイにされてるような
気がするそんな人たちを比較することで、
その違いをなんとなく理解出来たらいいなと
思っているけど、
さてどうなることやら。

というわけで、早速、
喜多川歌麿と東洲斎写楽を調べてみる。

写楽は1794年に彗星の如く現れ、
瞬く間にスター絵師になったにも関わらず
たった10ヶ月ほどで姿を消した
謎多き人物である。
だった10ヶ月の活躍で
この名の残り方、どんだけ?!

一方歌麿も、
生年、出身地などは不明で、
1783年あたりが、
歌麿名義としての
最初期あたりと思われている。

時代背景として、
前回、田沼改革について少し触れたが、
この絵師2人が活躍する少し前の時代は、
その田沼時代にあたり、
空前の商業バブルに沸いていた。
というかその恩恵に与って
浮かれている人たちが少なからずいた。

一方でこのバブル時代、
とにかく全国各地、
旱魃による飢饉や疫病、噴火など
相次ぐ天災に見舞われた上に、
江戸の三大大火と言われる
"明和の大火"などもあり、

民衆の生活は荒れ、
各地で一揆や打ちこわしが多発するという、
浮かれてばっかりもいられない
かなり大変な状況でもあったようで、
バブルの恩恵に与っていたのは
ほんの一部の人だけだったのかしらね。

で、田沼の失脚後、
そんな状況を打破すべく
松平定信が"寛政の改革"を断行。
寛政の改革、昔勉強したなぁ...
懐かしいなぁ...

で、写楽と歌麿が活躍したのが
この寛政の改革が始まった
まさにこの時代だったのだ。
長らくお待たせしました!

寛政の改革はとにかく贅沢禁止。
倹約、倹約、とにかく倹約なわけです。

今までお金に糸目をつけず
贅沢三昧で作っていた錦絵超ピンチ!

…だが、しかしいつの世も
知恵というのは生まれるもので、
そんな中で民衆の熱い支持を得たのが
浮世絵の”大首絵”という様式。
※たぶん諸説あります。
※大首絵自体は寛政の改革よりもっと前に
    誕生してました。

大首絵とは、それまでの全身図ではなく、
顔面ドアップのあれですあれ。
あのタイプのやつです。

全身を描くと、
着物の細かい模様や背景やらで
やたら色数もいるし、
擦るにもそれだけ道具や手間がかかる。

その分、
バストアップの絵であれば、
そんなに多くの画材を使うこともなく
全身図に比べてはるかに早く安く
作ることができる。

時代的にも歌舞伎が大人気の頃で、
こういう"プロマイド"的な絵は
かなり需要があったし、
作る側としても、
安価に作れてとにかく売れる。
win=winってやつですね。たぶん。

こういう利点もあって
大首絵がもてはやされるようになり
その絵師として人気実力ともに
光り輝いたのが
この写楽と歌麿なのである。

この2人の大きな違いといえば
写楽は役者絵、
歌麿は美人画を得意とした、
ということだろう。

写楽は謎多き人物とされているが、
阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者、
斉藤十郎兵衛がその人であるというのが
現状一番有力な説とされている。

当時、歌舞伎より能の方が
格式が高いとされていた...というか、
能は上流階級の人が嗜むもので、
一方歌舞伎は庶民の娯楽であったことから、
少なくとも当事者、
特に能関係者は、
歌舞伎役者を"格下"として
見ていたきらいがある、
という話を聞いたことがある。
NHKのドキュメンタリーで見たのかな…

絵師は役者に嫌われたら
仕事にならないわけで、

写楽のように、
美しく描くことに全く拘らず、
むしろデフォルメなども加えて
勢いそのままの姿を映し出す大首絵は、
普通の絵師にはとても怖くて描けない、

つまり能役者のような、
歌舞伎を下に見ている人じゃないと
とてもあんな風に描けないのでは
みたいな説をその時合わせて聞いて、
妙に納得したのを覚えている。

写楽2

※品はあるけど、確かにこれ、
女装した男性感強めだよね…

東洲斎の、"とうしゅうさい"を
アナグラム的に読み変えれば、
「さいとうしゅう(ろべえ)」になるあたりも
芸名として使うにはあり得そうだし、

他にも決定打には欠けるけど、
斉藤氏である可能性を示すものは
いくつかあるそうで、
もう彼が写楽ってことでいいんじゃないかな笑

さて、鮮烈なデビューを果たした写楽だが、
あまりに真を描きすぎる画風が
やはり役者にも、次第にファンからも
いやがられるようになり、
そのうち精彩を欠き、
アッという間に画壇から姿を消した。

これも、絵師を本業としている人なら
絵が売れないとなると
生活に直結しちゃったりするから、
結局役者におもねって
結局カッコよく描いたりして
どうにか食い繋ぐことだって
これだけの画力と人気があれば
出来たんだろうけど、

本業が能役者だったと思えば、
特に絵師に固執する必要もないわけで、
じゃあいいですぅーって
エアペイの外人ばりにスッパリ諦めて
また能役者に戻るってことも
全然あり得そうだなと、
素人なんかは想像するわけで。

一方、歌麿。
彼はとにかく美人画だ。
彼は意外にも遅咲きで、
30代の頃、狂歌絵本の挿絵を
描くようになった頃から名が出始め、
春画でも知られる存在となり、
40代から一気に開花する。

30代の頃に出会った、
浮世絵の名プロデューサー、
蔦屋重三郎とともに、
美人大首絵を多数発表し、
一躍スター絵師になるのだ。
(写楽も蔦重と組んでいた)

その後寛政の改革により、
美人大首絵の制作が禁じられると
半身像や3人組の絵を描いたり、
書いちゃダメよと言われるものを、
暗号みたいに絵に潜り込ませたりと、
とにかく網の目を掻いくぐって
どんどんと新作を発表。
いたちごっこみたいなやつですね。

画像2

SHOW MUST GO ON じゃないけど、
もう止まらないんだろうな。
止められないというかね。天才は。
それくらい描くことへの情熱と
反骨精神を感じる。

しかしそのうち52歳の時に
本当に捕まってしまい、
手鎖50日と言う、
当時の52歳の絵師、にとっては
重たい刑を課されてしまう。

秀吉

そのきっかけになった絵がこれ。
「太閤五妻洛東遊観之図」。
当時、豊臣氏に関連する書籍は出版禁止
だったのにも関わらず、
太閤ってこれまんま秀吉やん!という絵を
出版してしまったのだ。

ダメだと言われている題材に、
これだけのパワーを注いで描くって、
よっぽど幕府に対して不満みたいなの
持ってたんだろうな… 
ある種の覚悟すら感じるというか…

そして逮捕されて以降、
体調を崩してしまったのか、
もうやる気を完全に失ってしまったのか、
捕まった2年後に亡くなるのだ。

改革を推進する幕府への反骨精神から
数々の名作を生み出し、
しかしそれ故に捕まり、
最終的に才能だけでなく
命をも失ってしまったのかと思うと
なんともやりきれない気もする。

けれど、この時代をとにかく懸命に、
面白がって生きた人なのかもと思うと、
後世にここまで名を轟かせるほど、
心震わす絵を描き続けられた理由も
なんとなくわかる気もする。

というわけで、
大首絵の、
役者絵の写楽、
美人絵の歌麿でした。

写楽はともかく、
歌麿はもちろん大首絵だけじゃなく、
肉筆画や絵本、春画なんかも
たくさん書いてます。