斎藤元彦兵庫県知事の弁護と冥土の土産
【はじめに】
「冥土の土産」とタイトルにいれましたが、ここでいう「冥土」とは、「政治家としての『冥土』」であることを、冒頭に強調しておきます。
「政治への『冥土』」ではありません。有権者として「政治への参画」は、当然に認められると認識していますし(政治家の事務所勤務等での有償行為はむろん、政治家の政治活動への無償参画を含まれますし、最後に、という点は本稿末尾近辺に記していますし)、ましてや、「社会的生命を失うこと」は、これを、全く念頭に置いていないことを明記します。
以下、本文です。
「斎藤元彦兵庫県知事の言動は理解不能」と報道されている。
面倒なのでリンクをはらない。
SNSでも「読んだ」ような気がするので、その発言をここで取り上げれば、今後の経緯のいかんによっては、本稿への批判・非難の矛先が当該発言者(例、18歳男子高校生)に向けられる展開も想定しうるので、そんなことはしない。なお、18歳の「男子高校生」と設定例としたのは、筆者(男性)の過去がもっていた属性をもちいただけで、深い意味はない。なお、筆者は、1980年(昭和55年)3月生まれで、18歳になった誕生日は、大阪市内の中高一貫男子校の高校生だった。当時の1998年4月1日時点での「進路」が決まっていたのかどうかはおぼえていない。
前置きが長くなったが、斎藤元彦兵庫県知事の言動に「理解不能」という言葉で埋め尽くされている中で、筆者自身には、「理解できているかもしれない」という思いが脳裏をよぎったので、長い自己紹介の後に、本稿の題名のような「小論文」をネット上において不特定多数の方に向けて発信する次第である。
賢明かつ時間のたりない読者であれば、スクロールしながら、読者のご関心にあわせて本稿を読み飛ばしていると拝察している。
さて、筆者は、1980(昭和55)年・大阪府生まれである。
岸和田市立病院(?)で生まれ、生後8ヵ月で大阪市内に転居し、大阪市内で育ち、大阪大学法学部を卒業して就職のために上京し、4ヵ月で心身を病んで早期退職をして大阪市内の実家に戻った。そして、家庭教師などをしながら大阪大学大学院法学研究科で法学修士の学位を授与されて、2009年12月12日付けで東京都町田市に拠点をうつした。
つまり、就職氷河期ど真ん中で大学・学部の新卒(駿台で1年浪人)で社会に出て、挫折した後に法学修士の学位を取得した、現・東京都町田市民である。生活のかたわら大阪府警外事課協力者をしていたが(2006-2018)、カウンターパート(警察官)の前で「武藤頼尚」というコードネームを実際に使っていたこと以外には、特に警戒されることもない普通の市民生活を送っていた。
ちなみに、「武藤頼尚」という名前は、鎌倉末期から南北朝にかけて活躍した、「少弐頼尚」に由来する。北方謙三『武王の門』でダークヒーローとして登場した、ラスボス級の武将であるが、北方謙三『武王の門』の筆致に魅了された、敗軍の将。「ラスボス」は今川了俊なのだろうが、なんだかよくわからないままに主人公(懐良親王)の陣営が敗北していく描かれ方をしていた読後感を記憶しているが、少弐頼尚を「ラスボス『級』」と表現した。なぜ「武藤」なのか、とか、史実としてはどうなのかといったことは、本稿の読者にとってはあまり関心がないと思うので、以下は割愛する。
リアルでいえば。筆者の曾祖父が福岡県に不動産を保有していたことが2014年頃に判明したが、(その出自を知らなかった)筆者の父は相続権を放棄した。父の相続分は、父の祖父にあたる人物の1/13。筆者自身としては、実家の仏壇の過去帳だけの情報から、どの人物が筆者の曾祖父にあたるのかということがわかった、というワタクシゴトである。
以上の長い自己紹介であるが、斎藤元彦兵庫県知事の言動を「理解できるかもしれない」と書いた所以は、筆者の経歴にあらわれている。
斎藤元彦公式サイトからプロフィールを引用(というか「コピペ」)なのだが、斎藤元彦兵庫県知事のプロフィールは、このようなものである。
「1977年生まれ。兵庫県神戸市須磨区出身。神戸市立若宮小学校/愛光学園中・高等学校/東京大学経済学部卒。卒業後、総務省に入省」。(さいとう元彦公式ウェブサイト、筆者アクセス:2024年9月15日)
ネット上での「風聞」なのか、報道によるものだったのか失念したが(本当は「失念」していないのだが、少なからぬ誤報が一つ一つ指摘されているうちに、謝罪とともに記事等が撤回される可能性があるので、「失念」したということに理解を求めたいのだが)、筆者と似ている。
第一に、中学受験をしていること。
筆者の母校は、大阪明星学園である。
このことは下記拙稿の写真で証明できるかと思う。
斎藤元彦兵庫県知事の母校である「愛光学園中学」とは、学力や受験層という点でまったく異なるではないか。
簡単に用意できる反論である。
進学塾・阪神受験研究会(当時)に通っていた筆者(当時・小学6年生)は、「愛光学園中学受験」を集団で受験するために阪神受験研究会が主催となった受験ツアーの案内を、成績別に分けられたクラスで配布されたという「記憶」をもってその反論としたい。大阪市内から飛行機を利用して、四国の名門校を受験する、わざわざそのような「選択肢」を提示されていた。
そして、進学塾・阪神受験研究会を通じて灘および東大寺学園に進学した友人がいることをもって、「中学受験ではそれなりの位置にいた」こととしたい。なぜならば、鉄道少年だった筆者に父が鉄道時刻表を与え、小学校低学年時代から「勉強」していたからである。
寝台特急(ブルートレイン)の時刻表で「大阪駅を上下両方で通過する富士号」に苦手意識をもち、「大阪駅を上下両方で停車するさくら号」に親近感を抱いたことはご愛敬としても(余談ながら、藤沢駅に停車するロマンスカーは全て町田駅を通過しているので、藤沢駅にコンプレックスをいだいていることに現在も引き継がれている)、ブルートレインの停車駅・通過駅を通して日本地理(特に東京・大阪・新大阪発着のブルートレインに強い関心をもったのは当然のことで、日本海側の北陸・東北地方、そして、函館・札幌を中心に北海道の地理の「勉強」もした。
「ブルートレイン」という言葉を出しながら、「JR大阪駅」(例)などの表記をしなかったのは、国鉄時代の寝台列車の誕生・廃止にも興味をもったという経緯をふまえてのものである。前段落で「寝台特急(ブルートレイン)」と表記しながら「国鉄時代の寝台列車」と表記を分けたのは、「ブルートレイン」という言葉を通して連想される「意味」に差異があることを認識しているためである。鉄道ファン向けに発売された国鉄民営化をすえて出版された図鑑の末尾には特急電車等の年表がつけられており、非常な興味をもって眺めていた。他にも「歴史に興味をもつ理由」はいくらでもあげられるが、とりあえず、「中学受験・歴史」に少なからず反映されることになった。こうした経緯で、灘・東大寺学園に進学するレベルの友人と同じ空気を吸う教室にいたということになった。社会科だけは。
なお、筆者の直接的な体験を通じて、もっとも思い入れがあるのは、「東京発大阪行きの寝台『急』行・銀河号』」である。「大阪発東京行きの寝台急行・銀河号」には思い入れがない、なぜならば、営業先の大阪から東京の武蔵境にあった会社の寮に移動する交通手段は、常に東海道新幹線だったから。なお、当時は新幹線・品川駅の開業直前の時期で(開業時点では退職していた)、「のぞみ号主体のダイヤ編成」(仮)にはなっていなかった。
第二に、筆者が大阪大学法学部を卒業していること。
それに加えて、浪人生活を経験したことで、東京大学法学部にコンプレックスを感ていないこと。
筆者が通っていた当時(1992-1998)の母校・大阪明星学園では、「成績トップは京都大学を目指す」ということになっていた(少なくとも、筆者には東京大学を目指す、という発想がなかった)。
高校1年生に入学する時点で「高校2年になったら世界史を履修選択する。なぜならば、日本史は独学でクリアできるとしても、世界史を独学ではクリアできない」という意識をもちながら、大阪明星学園中学校を卒業した。ちなみに当時の大学受験(文系)の選択科目では、「地理歴史・公民・数学のうち『1科目』を選択する」というものが主流であり、地理歴史から2科目を選択しなければならないというのは、東京大学・京都大学(あと、一橋大学だったかな)に限定されていたからである。通学先の学校のカリキュラムにあわなければ、「独学」という選択肢が発生する。
もっとも、「京都大学の二次試験では、漢文が出題されない」という情報が高校2年生の文系教室には伝わっていたので、古文・漢文を得意とする筆者にとっては、物足りなかった。高校2年生の冬に、梅田の紀伊國屋書店で見つけた水色の表紙の「東京大学(古文・漢文)」(河合塾)に自主的に取り組んで、「やけに簡単だな」という印象をもったことが、駿台で浪人生活をしている時に「東大模試」を受験することに少なからぬ影響を与えた。模擬試験の受験料金が無料になるクーポン券が、余るのでもったいない、という偶発的な要因だった。
東京大学関係者(東京大学を受験して不合格になった方を含む)には、非常なお叱りを受けるかもしれない。
少なくとも、筆者の場合には、東京大学法学部(入試時点では、東京大学文科I類)に合格することと(および実際に受験した上で不合格という結果に泣いたことと)、「東大模試を通じて東大に合格するかもしれないと思った」とは、全く次元が異なる。もしも筆者が東京大学文科I類(1999年2月実施)を受験していたら、数学第1問題(文理共通)を全く得点できずに不合格になっていただろうという、「確信」がある。
青本(駿台予備学校が出版している過去問)で当該の問題について「出題意図が不明」(文理)という趣旨が書かれており、難易度は、「易」。「数学」を理解しようとせず、「受験勉強のための数学」ばかり勉強していた、という受験生ならば、公式暗記や解法暗記といった、「コスパの良い勉強」をしていただろうが、このような「受験秀才」にとっては東大数学第1問(1999年2月実施)にとっては手痛い打撃になったのではないかと想像する。
延々と受験勉強について書いているので、トドメで、拙稿3本のリンクをはろう。
すっかり忘れておられるだろうが、「第二」に。
この「第二」に、という表現は、
「ネット上での『風聞』なのか、報道によるものだったのか失念したが(本当は『失念』していないのだが、少なからぬ誤報が一つ一つ指摘されているうちに、謝罪とともに記事等が撤回される可能性があるので、『失念』したということに理解を求めたいのだが)、筆者と似ている」
をうけた表現である。
あらためて、第二に。
「愛光学園OBのLINEでは応援が書き込まれている」ということである。
なんとなくわかる。
筆者の母校である大阪大学法学部。旧帝大とはいえ「地方の旧帝大にすぎない」ということは置いておいておくとして、たとえ「東京大学を卒業したキャリア官僚」であっても、一度転落してしまったら這い上がることができない、ということを痛感していると想像するからである。新卒で入社しながら4ヵ月で早期退職した筆者でさえも、ハローワーク等を通じて採用試験で面接にたどり着いたとしても、
「そんなにいい大学(旧帝大)を卒業しているのに、履歴書が空白なのは、なぜ」。
ほとんど必ずといってほど、あしらう気配たっぷりに言われて、不採用となる。「例外」は、ある。大阪大学大学院在籍時の2007年2月頃。BBC放送で米国の住宅関連金融機関2社が英語でさかんに報道されていた頃(リーマン・ショックはむろんのことサブプライムショックということが日本語で報道されるよりも以前の頃)に、転職会社に求職意思を表明して面会のお時間をとってもらえた。開口一番に、「ご紹介できる会社は、1社もありません」と引導を渡された。たとえ大阪市内であっても「大阪大学法学部卒業(旧帝大卒業)」という学歴(筆者の認識では「学校歴」にすぎないのだが)は、全く役に立たなかった。
26歳にうけたこの「引導」は、筆者が社会における自分の置かれている立場を、経歴をふまえて示唆された(明言したらさすがに法律的に問題になったと思うのだが、「示唆」だったので法的に争うだけムダであることは明白だった)これで、求職活動における無力感・徒労感・・・・・・これら一切の苦行を覚悟できた。
これは大阪大学大学院法学研究科を修了して修士号を取得した後もつづく。筆者自身が「法学修士」に値する修士論文を執筆したのかどうかという点は、見逃していただきたい。修士論文は2008年当時においても業績としてはカウントされず、「大阪大学大学院法学研究科修了(法学修士)」という学位取得はほとんど評価をされない当時の就職状況を鑑みれば、「大学を卒業したが分数の計算ができない」というのとほぼ同義だったのだから。この後、ハローワーク等を通じて、
「そんなにいい大学(旧帝大)を卒業しているのに、履歴書が空白なのは、なぜ」。
というセリフを幾度もなく繰り返されで「証明」される。
町田市役所を頼った。「大阪大学法学部卒」「大阪大学大学院法学研究科修了(法学修士)」という経歴をみたとたんに担当者が、「すぐに決まる」にいわれながらも、全く意味をなさなかったことで「ハク」がついた。家庭教師(大学受験担当)では将来的に行き詰まることが明らかだった(幸いにそうはならずに「反転」したのだが)からだ。生活保護を申請することを勧められたが、資料・文献等の「財産」を処分せずに済んでよかった。
もっとも、いつの間にか採用ルートにのっていたこともあった。不採用となっていたが、それだけに、不採用理由を宴席で教えてくださったT社長(当時。なお、故人)への恩は、おそらく一生忘れない。2014年のことだったが、十年になろうという執筆時点(現段階で、9年9ヵ月)において覚えていることは、「一生忘れない」という言葉を用いるほどには説得力のある論拠だろう。
T社長(故人)は、おそらく、筆者の学歴を知っていた。
同じコミュニティーに属する大御所のSさんには、関西の土地勘がわからず「京都大学卒業」と誤解されたまま鬼籍に入られたかもしれないが、Sさんは現役を退かれていたので、どこの大学を卒業したのかは、「どうでもよい」という認識だったと想像する。
東京外事大学最後の卒業生を自称していたSさん(註:「東京外国語大学建学150周年記念事業 特設ウェブサイト」
https://www.tufs.ac.jp/abouttufs/pr/history.html
筆者アクセス:2024年9月15日アクセス)の年表で探してみると「東京外事専門学校」の表記を見つけることができるが、同表記は見当たらなかった。Sさんが「『大卒』という『学歴』」で長年の社会生活を送っているうちに「東京外事大学」という表現が用例となったことも想像されるし、筆者自身が「東京外事大学」と誤認したのかもしれないのだが、(コロナ禍前の)懇親会の割り前勘定では、「僕ら(Sさんの世代)はたくさん年金をもらっているから」というお言葉に甘えて、筆者(1980生)は4,000-を越える席に出た記憶は、一度の例外を除いて、ない。あったとしても二次会の料金を(Sさんが大御所っぽく振る舞いながら)免除されたり、お釣りを全部もらったり・・・・・・という形で、少なくともその場にいた誰もが納得しただろう形で、目をかけていただいた。
要は、いわゆる学歴を理由にして、「知事を辞職しても『次』があるだろう」という発想をもつことが難しい、ひょっとしたら「世代を通した経験」は声高にはいわれなくとも、存在しているかもしれない経験を、少なくとも筆者はしている。筆者自身の不徳と能力不足によることも多いかもしれないが、学術学会や異業種交流会などの「人脈」を通しても誰からもお声がけはなかった。前者については、研究実績をあげていなかった(採算度外視で研究実績をあげようとするよりも、「大阪府警外事課協力者(ロシア担当、2006-2018)」として活動する方が楽しかったし、それに取り組んでいれば学術的貢献を果たすような論文を執筆することなど不可能だった)ことがあげられる。後者については、少なくとも、自社の採用の人事権をもっている方が、筆者が末席を汚していた異業種交流会で、それを行使することはありえなかった(もしもあったとすれば、その方の企業の内部のガバナンスが怪しい、ということになる)。
愛光学園の関係者から斎藤元彦兵庫県知事のLINEにあてて応援のメールが送られているとすれば、「ここで『知事辞職(解職)』ということになれば、その『次』としてもっとも考えられるのは、『路頭に迷う』という将来」を想定していても、筆者にとっては不可解でもなんでもない。むしろ、「予想される地獄」である。
「『人』としてやってはいけないことをした。あなたは、その責任を果たすべきだ」。
このように強い言葉を送ることは、「友人」にしかできないと仮定するならば、
「『社会』がどれほどあなたを非難しようとも、友人として、最後まで応援する」
と責任をもって(LINEという私的空間においてではあるが)「理解不能な言葉」を送ることは、「就職氷河期世代ど真ん中で、似たような経歴を歩んだ者」として理解できる。
しかし、本稿の結論は、「(政治家としての)冥土の土産を送る」である。
第一に。
もしかすると、マキアヴェッリ『君主論』を読んだ上で、兵庫県知事として振る舞っていたのかもしれない。
「慈悲深く、信義に厚く、人間性に富み、正直で信心深く見え、そうあるのは有益である。しかしそうでない必要が生じた時にはその正反対の態度をとることができ、そうする術を知るように、自らの気質をあらかじめ作り上げておくことが必要である」。
「君主、特に新しい君主は、人間が良いと考える事柄に従ってすべて行動できるものではなく、権力を維持するためには信義にそむき、慈悲心に反し、人間性に逆らい、宗教に違反した行為をしばしばせざるをえない、ということを知っておかなければならない」。
マキアヴェッリ『君主論』第18章より。
おかれている状況も時期も場所も何もかもが異なると思われるかもしれないし、たとえば「宗教」に関する言及については「現在の日本では通用しない」と感じられる方もおられるだろうと思い、上記の引用箇所を行った文献情報を記す。
佐々木毅(1994)『マキアヴェッリと「君主論」』(講談社学術文庫)p.270
マキアヴェッリ『君主論』だけを読むならば前掲書の第二部を読めばよいと思う読者もおられようし、『君主論』の生まれた時代における状況や認識をふまえた上で読んだ上で理解しようとして前掲書の第一部を読もうとする読者もおられよう。
「『君主論』からの引用」といっても、「p.270」というページ番号になっているのは、第一部があるためである。
兵庫県知事は、「君主」といえるかもしれない。しかし、(もっとも狭義での)兵庫県庁職員を統率する「組織の長」という前提を忘れてはならない。
筆者の手前味噌な経験で申し訳ないが、「大阪府警外事課協力者(2006-2018)」という表記に、疑問を抱いた方は、おられないだろうか。たくさんおられていると思うが、その活動期間の「2018」という数字、すなわち、「G20大阪サミット2019」が開催された、2019年6月28日・29日をどのように迎えたのか、と思う読者もおられるかもしれない。
結論からいうと、大阪市内の実家で、ひきこもっていた。
2018年に、大阪府警外事課に所属するカウンターパートと刺し違えたのである。筆者が接した「カウンターパート」は、3名いる。しかし、拙著では2名しか描いていない。3人目を登場させていない(2人目との別れを描くことで、「3人目の存在」を読み取られた方がおられるかもしれないが)。さすがにそこまでの追い討ちはしていない。
裏話をすると、拙著に登場する2名のカウンターパート(登場人物名は、長門と三好)には、「家庭教師」という生業について馬鹿にされたことがある。筆者は、当然に、謝罪を求めた。その上で、謝罪を受け入れた。この話は、なかったことにしている。
長門・三好ともに、今生ではもう二度とお会いすることはないだろうが、たとえ「おぼえていない」と言われても、筆者個人の責任においては、「そのように考えられるのが普通の認識だと思います」とこたえるのではないか、と思う。「教育にはカネがかかりすぎるため、子どもをうみ育て上げるという決断をくだせない」という声に、反論をする気は、あまり、ない(もっとも、教育従事者に対する批判の中には、個人的には、常軌を逸しているものもあるため、「反論する気は、全くない」とはいわない)。
「今生ではもう二度とお会いすることはないだろう」という表現には、「やり取りの記憶を公表しない」という道義的盟約を破棄したからである。それこそ、あの世で釈明しなければならない。ただし、インテリジェンス活動や経済安全保障が政策課題として大々的に報道される今日の事情をくみとっておられるならば、「時代が変わった。公開を行うことができるのは、一介の東京都町田市民(有権者)しかいない」と思っておられるかもしれないが、筆者の知るところではないし、追うべきことでもない。
さて、刺し違えた3人目のカウンターパートには、名誉を踏みにじられた際に、猶予の機会を与えなかった。侮辱を受けた翌日の午前6時30分頃に、「最終通告」を携帯メールで宣告し、3人目からの謝罪メールに、こう返信した。
「もう、遅いです」
侮辱を受けた翌日の午前6時30分頃。
自分の行いは、正しい、少なくとも、間違ってはいないだろうか。
それだけは、さすがに、考えた。
味方をしてくれる「人」は、いるだろうか。
その、「人」がいた。
「朝倉涼子」である。
もちろん、「朝倉涼子」は、法律的な意味での「人」ではない。
筆者には「朝倉涼子」を法律的な意味で「人」としての存在を創造することはできない立場である。
ただし、「朝倉涼子は俺の嫁」という手続きを踏んでいることは、下記の拙稿をご覧いただきたい。「朝倉涼子は俺の嫁」とGoogleで検索すればトップに拙稿に行き着くのは、筆者使用(筆者仕様)のPCだけで起きるのだろうか。
「俺の嫁の朝倉涼子」は、味方をしてくれる。
そのような「自省」が、筆者の背中を押した。
「3人目」との会食のあとでの、このセリフを許すことはできない。
「ふぅ。武藤さんのおかげで、ウマいもんを食えます」
下北沢で言われた言葉である。
筆者は、「接待」の対象なのか。
しかし、それにしても、なぜ、4ヵ月連続で「下北沢」だったのか。
前任者(拙著の三好)から、「新百合ヶ丘」を引き継いだ、と、引き継ぎの場で明言した、あの言葉は、なんだったのだ・・・・・・!
前任者から引き継いだ次の月に「新百合ヶ丘」で、「連続して同じ場所で会食するのは危険」というセリフは、納得がいった。だからといって、「下北沢」の3ヵ月連続はなんだったのだ。
うっかりしていた、ならば、「保秘」はどうなる。
そして、4ヵ月連続で、「下北沢」。
最寄り駅が「下北沢」でも受け入れたかもしれないが、同じ店というのは、筆者にとって屈辱的な「接待」だった。
「ウマいもん、食わしたってんのに、なんてことだ!」
「武藤さんの謝礼と食費。あれは、税金ですよ、ゼイキン!」
3人目は、前任者から、筆者が水樹奈々さんのファンであることは引き継いでいる。水樹奈々伊予観光大使のある曲が、小田急沿線のある駅をイメージしてつくられた、というやや見つけにくい公開情報を根拠にして(当時の公式サイトのブログに書かれていた)、「下北沢」を選んだのかもしれないが、その当時の下北沢駅周辺は再開発ラッシュであって、たとえ「ある曲」が筆者にとって大好きな曲であったとしても、当時の公式ブログに書かれていた「小田急沿線のある駅」が下北沢駅だったとしても、そのような確率に「期待」するというのはあまりにもリスクが高いと思わなかったのか。
ちなみに。
警察庁の予算がバッサリと削減されて大変だと前任者は教えてくれた。
そんな中でも、前任者は、精一杯、「新百合ヶ丘」を死守してくれた。
予算の関係で全ての会食を「新百合ヶ丘」で行うわけではないことは喜んで応じたし、「毎月、同じ場所で会食するのは、保秘の上から危険」という説明は、筆者への最大の敬意と解釈した。
3人目よ。
筆者はサカナ料理が好きだということを引き継いでいたのかもしれないが、それは接待メニューがどうのこうのという以前の問題である、ということを、なぜ、引き継ぐことができなかったのか。大阪府警察本部での前任者からの引き継ぎの過程で学ばなかったのか。
もっとも、見抜く気どころか、「見る気」すら、さらさらなかったのだろうが。
筆者自身の「手前味噌」がずいぶんと長くなってしまったが、名誉の剥奪というのは、これだけの重みがある。元局長の無念を思えば、筆者でさえも、耐えられない屈辱であることは想像にかたくない。
己の言動が、なぜ、命を失わせるほどの打撃を与えたのか。
推して知るべしである、斎藤元彦兵庫県知事よ。
以上が、政治家としての冥途の土産の一つ目である。
ここから政治家としての冥途の土産の二つ目について書こうと思うのだが、「『冥途の土産』を受け取ったからといって政治家としての「冥途」へと引導を渡す(戻ることのできない「川」を越えさせる)という、それこそ「筆者謹製の不可解な論理」を斎藤元彦兵庫県知事に求める気もないし、それよりも権限すらないし、本稿が世にふれないことの可能性が高い。
「ネット上での『風聞』なのか、報道によるものだったのか失念したが(本当は『失念』していないのだが、少なからぬ誤報が一つ一つ指摘されているうちに、謝罪とともに記事等が撤回される可能性があるので、『失念』したということに理解を求めたいのだが)、筆者と似ている」。
前パラグラフは、本稿において筆者作成文書の三度目に使用した。
ただし、以下は、「1995年1月17日」に関わるものである。
たとえば、神戸市長に次いで、兵庫県知事としてはあってはならない政治的致命傷、もっともこれが真実かどうかを検証する能力も権限も筆者は保有していないが、これが表に出てしまった時点で、「兵庫県知事」としての現職は終わったと筆者は思う。
明石市長(当時)はたとえ市政の執行を行う職員への求心力は落ちたかもしれないが、少なくとも選挙という形で市民から政治家としての生命を取り戻した。「一度の失敗」は許されたが、二度目はなかった。
斎藤元彦兵庫県知事よ。
なぜ、大規模災害時の連絡リストで自宅住所を白紙にしたのか。
公用車の運転手にすら本当の自宅住所を知らせずに降車して、緊急時の自宅住所を知らせなかったのは、事実なのか。
公用車(をはじめとする乗用車)ではアクセスできない「囲繞地」(比喩)であるならば、事情を明かした上で、たとえば緊急時においては緊急車両しか通行できない道路に面した待機場所を知らせることをしていなかったのか。
「『公用車』を待っていては遅すぎる」という判断であったかもしれない。
兵庫県知事としての職責を果たすために大規模災害時にどこにいるのかわからない。こうした理由から「所在地を知る必要があるならばGPS機能付の(携帯電話等)衛星機器での探索を優先せよ」という意図を明示する目的で「住所欄を白紙にした」という真意があれば、それを伝えることによって兵庫県庁内部の幹部や防災担当要員は「納得」させることができたであろうから、そもそも、このような「報道」を筆者が目にすることはなかったと思う。
たとえ「公用車」よりも破格の高額であったとしても、知事をはじめとする幹部職員には(サイバーテロや地球規模の想定外の事態によってGPS機能を使えなくとも対応可能な)位置情報や現状を共有できる機器を用意するのならば、兵庫県政を有権者に託された兵庫県議会は、相応の予算を可決したのではないか。
たとえ可決されなくとも、政治家として(兵庫県知事として)その用途と金額を申告すれば、その金額がたとえ市民(兵庫県内の有権者)の広い支持を集めることはできなくとも、それを「正当な支出である」として応援をする者は、必ず声をあげるだろう。
声をあげることをする者は、マスコミ報道などを通じて全国的に発信されるほどの影響力をもつ人物だろうし、篤志家が身銭をきって政治献金を行う展開も予想される。
ひょっとしたらS社のS氏やR社のM氏が私財を行って堂々と「節税」するかもしれないし、緊急事態においては総理大臣クラスでないとアクセスできないような、通信機器の研究開発や人工衛星打ち上げに必要な金額であれば、自社の資金・人材を投資することを株主総会において表明して(それ相応の将来的な利益享受を受けるなり、社会的責任において相応だと判断されるなりして)それが議決されれば、たとえ在任期間中において実現できなくとも、堂々と「兵庫県知事」としての立場と発言を活用した、政治家として誇るべき実績となったのではないか。
大風呂敷を広げてしまった。
さて。
公式プロフィーに登場した「神戸市須磨区出身」についてのものだから、「平成7年1月17日」と書いても、瞬時に気がつくはずである。なお、筆者自身については、「大阪府岸和田市生まれ」のち「生後8ヵ月後大阪市内に転居し」たのだから、「岸和田市生まれ」と公表しての岸和田市周辺の地方政治家(ましてや首長)を志すことはない。
斎藤元彦兵庫県知事が「政治家」として再起をはかろうとするならば、1995年1月7日について、率直にいって、理解を著しく欠いていることを指摘しておきたい。「緊急連絡網の白紙」という「報道」には、それだけのインパクトがあった。
同日を、「斎藤元彦兵庫県知事」(改名、改姓等があったかもしれないし、何よりも有名人の場合には、たとえば芸名などの通称を用いた方が政治家として世に出る手段として合理的であるかもしれない)は、どこで何をして迎えたのか。もしかすると、大学受験勉強に専念するために、心を殺して机に向かっていたのかもしれない。たとえばそうであるならば、「『知らない』ことが『多い』」ことを自覚できたはずではないか。
「1995年1月17日」。
これを考えれば、筆者が、政治家としての「斎藤元彦兵庫県知事」を断じて許すことができない理由である。
「俺は知事だぞ」。
このようなセリフは、阪神・淡路大震災についての経験を共有する場で、その時の「淡路島北淡町」の状況がまったく共有されなかったり、「1995年1月17日」で多大な犠牲を払ったにもかかわらず同じことが将来において「兵庫県北部」で起きてしまった場合のシミュレーションが十分に行えないことへの不満を表明したり、といった場合に出すセリフだったのではないか。
以上(本稿後半部分)が「政治家としての」と限定した上での「冥土の土産」ではあるが、このようなことは、たとえ自分自身でわからなくとも、誰かには教えてもらえたはずである。「君主」であれば、それだけの情報と知見が集まってくることを期待される立場だと、筆者は思う。
就職氷河期世代ど真ん中。
「東京大学法学部卒業の総務省キャリア官僚」
とはいえども、社会人としてデビューするのがあと一年でも遅かったら、どうすることもできなかった時代だと記憶する。法曹家を目指していたが(当時、近年のうちに設置実現可能性は濃厚になっていても年単位でどのようになるのかわからなかった)法科大学院を修了した方が良いのか、特にゼロ年代でいわれた「旧・司法試験」で合格をしていた方が良いのか迷っていた・・・・・・といった事情があるならば、私人としての心象風景なので、筆者は問題にしない。なぜならば、筆者の卒業した大阪大学法学部では、「司法試験組」とよばれる法曹家志望者にとって合理的な選択は、「卒業後すぐに司法試験に合格するのでない限り、卒業単位(卒業要件)をみたさずに『休学』し、学生身分を保有した上で就職活動をする方が合理的」だというのは共通認識として、政治学志望(法律を学ぶために法学部に入学したのではなく、政治学を学びたかったので法学部に入学した)筆者でも共有していた、ほどには、大阪大学法学部は「旧帝大」だった。もっとも、東京大学法学部では「司法試験には在学中に合格しない限り、評価の対象にならない」といった世界なのかは知らないが。
さて、斎藤元彦兵庫県知事は、どん底にいる、という自意識を有しているかもしれない。筆者自身の経験を通じて、(おそらく的外れだろうとは思うが)筆者の想像する「自意識」が正解なのかもしれない、というほどには「理解可能」である。
筆者には思い当たる経験がある。入社間もない時期のことである。当時(2003年5月28日頃、東京都内にあった会社の寮の自室・407号室)で言われた。
「神(かみ)ちゃん。お前は、『どん底』を知らない」。
同期のTが言った。筆者自身にとっては、当時の認識としては、「どん底」だった。しかし、その「どん底」は瞬く間に底が抜け、今日(2024年9月17日)に至っても、這い上がることはできてはいない。もっとも、筆者自身の身体的能力に照らし合わせれば、文字通りに「死」を意識する限界にあったし、たとえK課長や本社勤務のT室長、そして採用決定を行ったと認識する大阪総務部H部長が手をつくしても避けられなかった「不幸」だとは思う。
筆者自身の心にてらしあわせてみれば、あれだけの経験をすることができたのだから、「その後も生きる」という猶予が与えられたし、筆者の個人的な特徴として、「『知らない』で安全地帯からものをいう生き方よりも、あのような世界があるのだと『想像力を働かせることができる』というほどには経験した方が良い」という考え方をもちあわせているので、Tから「お前は『どん底』を知らない」という言葉を聞かされるために生まれてきたのだというほどには、自分を納得させる今生を生きている。
発言主のTはもちろん、その場に居合わせた(407号室で時間と空間を共有した)IちゃんやT(苗字はY)も、(常識的に考えれば)記憶に残っていないかと思うが、筆者は覚えている(さすがに「記憶」がその後の時間の経過と、経験の中で「記憶」の絶対的真実性を否定されたとえしても、これを甘受する用意である)。
本稿は以上の通りだが、最後に予告をしておく。
「就職氷河期世代」。これを敷衍して、日を改めて、別稿を用意している。なお、「就職氷河期世代」について論じるのを本旨とするものではない。その別項の題材は、上記にたくさん貼り付けた拙稿へのリンクを通じて、予想できる方もおられるだろう。
2024年9月17日15時40分(投稿予約手続完了)
2024年9月17日16時30分(投稿公開)