記事「最近のIUT界隈」(しぶんぎ社)に関するコメント

執筆者:立原 礼也

公開日:2024年6月8日
再公開日:2024年6月11日
記事の非公開に至った経緯については,別の 記事 「記事非公開の理由(特に,記事のある側面に関するお詫び)と今後の対応|Reiya Tachihara (note.com)」をご参照ください.
今後も記事を非公開にすることがあるかも知れませんが,予告なく記事が非公開になった場合には,編集ののち,予告なく記事は再公開される予定です.

編集履歴は記事の最後に移植しました.

日本語のわかる方はこの英語は読み飛ばしてください(すぐ下に日本語で同じことが書いてあります).

Note:

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  • In writing and releasing this article, no confirmation or permission has been obtained from Associate Professor Yuichiro Hoshi, the supervising professor of me at the graduate school (RIMS), or from Professor Shinichi Mochizuki, one of the co-supervisors of me, or any other university affiliates. This article has been written and released solely based on the personal will and responsibility of me, Reiya Tachihara.

概要

宇宙際タイヒミュラー理論=IUT理論に関する否定的な論調で注目を集めている,記事「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) , 」(しぶんぎ社,2024年6月8日アクセス),の内容に関してコメントを行う.一部には首肯できる/一理ある点も見受けられる一方,全体を通じて,疑義,および誤りと思われる点を多く見出したため,それらについても指摘を行う.長大な本記事を読み解く時間的余裕のない読者のために,「要約」節も設ける.しぶんぎ社の記事をお読みになり,それによってIUT理論を巡る現状を知ったという方は,是非,併せて本記事もお読みいただくことで,より適切な理解に到達して頂きたい.しぶんぎ社の記事を鵜呑みにするのではなく,また本記事を鵜呑みにするのでもなく,客観的根拠をきちんと検討した上で,ご自身の頭できちんと考えて判断して頂くよう,お願い申し上げる.

いくつかの注意

  • 本記事はインターネット上における誤解の拡散に歯止めをかけることを目的としたものであり,特定個人への攻撃等は決して意図しないものである.読者各位におかれても,「多人数で一人を責め立てる」といった不適切な構造を生じないようお願い申し上げる.

  • 悪意ある編集や切り取り等を避けるため,本記事の内容を共有する際は,必ず,当該webページのリンクを明示することによってそれを行っていただくよう,お願い申し上げる.

  • 悪意ある翻訳を避けるため,本記事の,人間の手による(=純粋な機械翻訳やAI翻訳ではない)日本語以外の言語への翻訳を禁止する.

  • 本記事の執筆・公開に際して,執筆者の所属大学院における指導教員である星裕一郎准教授,および副指導教員(のうちの1人)である望月新一教授,またその他大学関係者の確認・許可は一切得ていない.本記事は立原礼也本人の個人としての意思と責任に基づいて執筆・公開されている

  • 本記事の執筆者である立原 礼也(=以下,「私」)に「望月グループ」「IUT一派」等といった方向性のレッテルを貼ってくださっても一向にかまわないが,本記事の内容をきちんと読まずに頭ごなしに何かを判断することは控えて頂くよう,お願い申し上げる.

  • 丁寧に根拠を示しながら何かを論じていると,当然,その記述は長くなってしまいがちであり,伴って読者の負担も増えてしまうものである.本記事もその例外ではない.このような不可避の原理によって,表面的なインパクトのある,偏っていたり過度に単純化されていたりする粗雑な内容の記述ばかりがよく読まれ,そのような粗雑な理解ばかりが共有されてしまうとすれば,悲しいことである.これをなるべく回避するため,本記事では,実際のコメントは丁寧に根拠を示しながら行う一方,比較的手短な「要約」節も設ける.時間的余裕のない読者はまず「前提の共有と最初のコメント」節および「要約」節を参照して頂きたい.

  • 本記事最後の「感想」節の先取りになるが,本記事の執筆のような非数学的な「社会的活動」は,現時点での私にとっては様々な意味で「イレギュラー」な判断なのであり,本記事に寄せられる意見や感想に対しては,必ずしも更に時間を割いて対応できるとは限らない.しかし,本記事の内容を全て読み通した上での建設的な意見や感想は(たとえ否定的な方向性であっても)拒否されているものではなく,むしろ歓迎されているものである.なお,本質的な内容に無関連なもの(=漢字の間違いといった些細な誤植等)を含め,誤りがあれば是非ためらわずご指摘いただきたく,お願い申し上げる.

  • 宇宙際タイヒミュラー理論=IUT理論に関連のある数学的解説にご興味をお持ちの方は,修士課程レベル(?)の整数論(局所類体論)の知識で理解可能な解説をつけているので,コメントA-6の補足2をご参照頂きたい.ただし,私は,執筆時点ではIUT理論については勉強の途中であり,本記事は,IUT理論の数学的成否に関する主張を意図するものではない.(自身の確固たる数学的理解に基づくことなく,数学理論の数学的成否について肯定的または否定的の言及を(とりわけ,公然と,断定的に)行うことは,学問的に誠実な姿勢とは言えないように思われる.)

記事内容一覧

本記事は以下に示す通りにいくつかの節に分けられている.

  • 概要

  • いくつかの注意

  • 記事内容一覧

  • 記事「最近のIUT界隈」(しぶんぎ社)へのコメント
    はじめに
    前提の共有と最初のコメント
    コメント(A). 「数学としての問題」節に関して
    コメント(B). 「学問上の誠実性の問題」節に関して
    コメント(C). 「最近の動き」節,前半部に関して
    コメント(D). 「最近の動き」節,後半部に関して

  • 感想

  • 編集履歴


記事「最近のIUT界隈」(しぶんぎ社)へのコメント

はじめに

時間的余裕のない読者に関しては,最初の2節,つまり「前提の共有と最初のコメント」節および「要約」節をお読みいただくことで,本記事の大雑把な内容を把握して頂くことができる.その後の4節は実際に細かくコメントを行う部分である.

ただし,当たり前のことだが,本記事の全体に対して何か公然と意見を発せられる読者に関しては,この要約部分の内容のみに基づくのではなく,本記事の全体をきちんと読んで頂くよう,心よりお願い申し上げる.特に,本文中では詳細な根拠を示した部分を,要約部では単に主張だけを述べていたりもしているので,注意して頂きたい.逆に,一部しか読まずにコメントを行う際は,どの部分を読んだ上でのコメントであるか,はっきり明記して頂くよう,お願い申し上げる.

前提の共有と最初のコメント

まず,当該記事 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) (以下「記事R」)において IUT理論に関して否定的な立場が徹底されているのは,記事の内容から明らかである.(私個人としては,内容に関する数学的理解なくこの徹底的姿勢をとれることは,不思議だと感じる.しかし,本記事の執筆意図は,この姿勢そのものに文句をつけることではなく,あくまでも客観的な立場から様々なコメントを行い,特に,事実の誤認や歪曲を論じることである.)記事Rの実質的な内容の部分は次に引用する前置きから始まる.

IUTが著しく評判を落とし、見捨てられた理由は大きく2つある。数学としての問題と、望月氏及び周辺の人々の学問的誠実性の問題。数学コミュニティから見放された本質的理由は後者にあると自分は思うが、石倉記者をはじめ、IUTに大きな期待を寄せているらしいピュアな人たちは、前者の問題には言及しても、後者の問題にはなぜか全く触れない。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) , 」(2024年6月4日アクセス)より引用

(私としては,数学の理論が「見捨てられる」というのがどういう意味の言葉なのかについても疑問であるが)この前置きのあとで,記事RではIUT理論の現状に関して「数学としての問題」「学問上の誠実性の問題」「最近の動き」に分けて論じられている.そこで本記事も,これに即して節を分けてコメントを行う.ただし,記事Rにおける「最近の動き」節が2つの独立の内容を含むため,この部分はさらに2分割した上でコメントを行う.

その前に,「各節ごと」というよりは記事R全体に対して言えるコメントを提示しておきたい.

コメントZ-1:最も大切なコメントをしておくが,記事Rには,論理的一貫性のない,(おそらくは無自覚に?)混乱した記述が見受けられるところがある.例えば,一部では「理論の正しさに大きな疑問が投げかけられている」という(本当はこれにもツッコミどころはあるが(コメントB-9参照),一応,一見したところでは)中立的な表現を採用することで,まるで中立的な視点からの記事であるかのように演出しておきながら,肝心の「数学としての問題」の節ではまるで「数学的正しさの観点で問題があることが既に確定済み」であるようにしか読めない(実態と整合しない)書き方を採用し(A節参照),その後もそのバイアスを(おそらくは無自覚に?)引きずって議論をしている(B節以降参照).また,一部では望月氏が理論の説明のための努力をしていないかのような記述をとりながら(コメントC-7参照),別のある箇所ではまさに(IUT理論に対して否定的な人であっても普通に考えれば)そのような方向性の努力の賜物としか解釈できない解説文献を引用する,といった部分もある(コメントB-5参照).大切なことは,このような論理的一貫性のない混乱した記述に騙されず,つまり,記述の表面的な部分に騙されず,その実質的な意味内容を咀嚼し,その根拠を十分に調べたり考えたりすることである.(Z-1終わり)

コメントZ-2:一般論であるが,しばしば,物事は本質的に複雑であり,それを単純化して捉えたいという欲求を事実よりも優先させると,判断を間違える.人間の知性の重要な一側面は,本質的に複雑な物事を,複雑なまま捉えるということである.例えば,もし望月新一氏の振舞いに関する記事Rでの指摘に,明らかに妥当な部分が含まれているとしても,だからと言って,「だから望月氏はおかしな人,記事Rはまともな内容で,望月氏に対して強く否定的なこの記事の内容も,大体,または,全て正しいんだ」といった方向性の単純化された受け止め方がされてしまうとすれば,おかしく,また残念なことである.(Z-2終わり)

要約

ここでは,コメントを実際に行う前に,記事Rの内容がどのようなものであり,以下ではそれに対してどのようなコメントがつけられるのか,ということをまとめておく.普通ならコメントの後に置く「要約」を,ここでは(通読する余裕のない読者の便利のために)先に置いているとも考えられる.
コメントの本体の部分を通読する予定の読者は,この節は読み飛ばすことができる.

先に述べた「はじめに」節の2段落目の注意を守っていただくよう,改めてお願い申し上げた上で,内容に入ろう.

まず,記事Rでは,当該記事中の「数学としての問題」の節(A節参照)で,Scholze, Stix両氏の指摘(以下,当該文書をScholze-Stixレポートとも呼ぶ)を挙げて「数学的に致命的な問題がある」ことを確定的事実のように述べているが,この記述は端的に事実に反するものである.望月氏は反論を行っており,本文に詳細を述べる通り,それを無視して(反論せず)議論から一方的に離脱したのはScholze, Stix両氏の方である(詳しくはコメントA-3参照).なお,記事Rでは,ある論文内の表(Table1)を参照先として,IUT理論(のScholze, Stix両氏の指摘と同じ部分)の問題を指摘した数学者が数名いることを述べているが,その数学者の具体的な名前等は表から一切読み取ることができず,参照先として不適切である(コメントA-4).

記事Rにおける「IUT理論が海外で否定的に受け止められている」旨の指摘は,ある粗いレベルではその通りだが,結局その受け止められ方の数学的根拠としては(既に望月氏によって反論されている)Scholze, Stix両氏の指摘しか見当たらず,多くの「否定派」の人は単にそれに,また更には既存の否定的空気感に追従しているだけであるように見受けられる(コメントA-4,A-5,A-7).そのようにして連鎖的に増幅した否定的空気感を,その大元の震源地を超えて更なる「否定」の根拠とするような記事Rの論じ方は,ある種の循環論法のようなものに過ぎない(コメントA-7).なお,もともとは「否定派」だったが,その「否定派」としての根拠を数学的にきちんとした形で示そうとした結果,自身の誤解に気付き,「肯定派」へと立場を変えた例として,Lepage氏が挙げられる(詳しくはコメントA-4補足参照).一方,そもそもScholze, Stix両氏の指摘は,その根拠を数学的にきちんとした形で示したものですらなく,それは望月氏が指摘しているところである(詳しくはコメントA-6補足1参照).

ところで,私としても,(これは現時点で厳密な数学的理解を確立しきれていない以上,本来は書きたくなかったところであるが,)自身の数学的専門性に基づいた,一定の数学的根拠をもって,(IUT理論の数学的成否は別として)Scholze, Stix両氏の指摘は誤っているであろうという確信に近い感覚をもっている(詳しくはコメントA-6補足2,コメントA-6補足3参照).つまり,私としては,(理論を厳密に理解するまでは,理論が正しいのか間違っているのかはわからないのは大前提としても,)IUT理論を疑う積極的根拠は1つももっていない.特にコメントA-6補足2では比較的数学的な解説を行っているので,興味(と局所類体論の素養)をお持ちの方は参照されたい.なお,もし,「自分が理解していないことは断定しない」といった,数学的正しさに関する当然の良識を遵守している側の声が,それゆえに,そうでない側の声より届きづらくなっているような現状があるのだとすれば,それは(仮にIUT理論が間違っていたとしても,それとは独立に)非常に残念なことである.

記事Rでは,以上のような「数学としての問題」に関する指摘を前提に,「学問上の誠実性の問題」に論が進められる(B節参照).はじめに記事Rでは,Scholze, Stix両氏の指摘を「引用すらせず」,「なかったことにして」IUT論文の出版がなされたことについて,望月氏および査読チームを批判している.これに関して,私がまず指摘したいのは,ある指摘を引用すべきかどうかは,その指摘の数学的内容に依存するということである.従って内容に関する数学的な理解がなければ引用の有無の是非も評価できないのは当たり前であり,もし,偉い数学者が何か指摘しているのだから引用すべきに違いない,という解像度の主張なのであれば,それは学問的態度とはかけ離れたものである(コメントB-1).更に「なかったことにして」とは端的に間違いであり,上述の通り望月氏は指摘を受け止めて反論をしている(コメントB-2).

また記事Rでは,論文が出版されたのが望月氏が編集委員長を務めるPRIMS誌であることについて「実質的な自作自演」と厳しく批判し,望月氏が査読プロセスから外れている事実は認めつつも「忖度」の存在を強く疑っている.これに関しては,自身が編集委員長を務める雑誌に投稿するのは別に「通常時」であればおかしなことではないこと,そして(当たり前のことであるが)論文投稿時点では理論に関する論争もなく「通常時」であったことを指摘したい(コメントB-3).従ってこれを根拠に望月氏の「学問上の誠実性」を否定的に評価するのは全く的外れである.また,「忖度」に至っては,特別編集委員(その一員としては例えば,世界的に権威ある数学者である柏原正樹氏)に対する完全な侮辱・冒涜であり,また,端的に非現実的な想定でもある(詳しくはコメントB-4参照).

「望月氏はIUT理論の解説論文等において,Scholze, Stix両氏について,RCS(=redundant copies school)という嘲笑を込めた名前で呼んでいる」という趣旨の指摘もあるが,これも嘲笑の要素は見当たらず的外れに思われる.語彙``RCS''の使用意図は純粋に数学的な内容に集中することである(詳しくはコメントB-6参照).ところで,両氏の指摘を踏まえたこのような解説の活動の存在を知っていながら,一方で「数学上の問題」節においてはまるで望月氏が両氏の指摘を全く無視しているかのような書きぶりだったのは,矛盾的記述に感じられ,不思議である(コメントB-5).

この文脈における記事Rでの指摘のうち,唯一首肯しうる側面があるのは,「後世の人間のための歴史記録の観点からも,解説論文においてScholze-Stixレポートが引用されるべきであるが,実際にはそうなっていない」という点である(コメントB-8).一方,記事Rではこれを「適切に文献を引用しない」ことだとして学問上の誠実性の問題として批判しているが,文献の引用の適切性を(従ってそれに関連する学問上の誠実性を)判断する資格があるのは,内容に関する数学的理解のある人だけである(コメントB-7).私が首肯しているのは,「引用しないのが適切かそうでないかはともかく,確かに,歴史資料としては引用した方がよさそうだよね」という意味においてである.

記事Rでは「学問上の誠実性」節の最後に,2019年の「次世代幾何学研究センター」(現「次世代幾何学国際センター」,センター長は望月氏)の設立が「IUTの正しさに大きな疑問が投げかけられている状況を無視して」のものだとして批判される.しかし,ここまでに指摘したことを踏まえると,「大きな疑問」とは何のことで,それをきちんとした根拠を伴って「投げかけ」ているのが誰なのか,また,望月氏がそれを本当に「無視して」いるのかも含めて,全く疑問である(コメントB-9).(「要約」節なのに気が引けるが,念のため)繰り返すが,Scholze, Stix両氏によるIUT理論への疑義は根拠がきちんと示されておらず(コメントA-6),そもそもそういった不完全な批判ですら何かしら数学的な体裁で提示されているのは(私の知る限り)Scholze-Stixレポートのみであって多くの否定的な声はそれに追従しているだけであり(コメントA-4,A-5,A-7),更にScholze-Stixレポートに望月氏は反論していて,これに対し両氏は再反論せず議論から降りている(コメントA-3).なお,これだけ学問的誠実性を強調するからには,記事Rの公開元も,その学問的誠実性を問われることについては覚悟をすべきものである(コメントA-10, コメントB-9).

続いて記事Rで「最近の動き」として挙げられるのがZEN大学(設置認可申請中)宇宙際幾何学センターに関連する話題である(C節参照).研究所の事業の1つである IUT Innovator Prize の第1回は, IUT理論の改良版の論文 Explicit estimates in inter-universal Teichmüller theory (projecteuclid.org) に贈られ,著者のうち(受け取りを辞退したIvan Fesenko氏を除く)星裕一郎氏,望月新一氏,南出新氏,Wojciech Porowski氏の4名に,にあわせて10万ドルが贈られた(「第1回 IUT innovator賞」受賞論文決定 IUGC(宇宙際幾何学センター)より10万米ドルを贈呈 | IUGC (zen-univ.jp)).
こうした動きを指して記事Rでは「お手盛り」,「カワンゴから金を引っぱって自分たちの懐に入れるためのスキームにしか見えない」と厳しい批判がなされる(「カワンゴ」はIUGCの出資者である,ドワンゴ創業者,川上量生氏の愛称).まるで「川上氏が悪の数学者集団に言いくるめられて金銭をだまし取られている」かのような言い回しである(と読み取るのが自然に思える)が,これは川上氏に対する侮辱的発言と捉えられても仕方のないものであり,川上氏の冷静で合理的な態度とも整合しないものである(詳しくはコメントC-3.5参照).賞金に関しては,京都大学数理解析研究所への全額寄付が予定されていることも贈呈時点でアナウンスされていたものであり,私としては「懐に入れる」との表現には違和感を覚える(コメントC-5).
また,記事Rでは「この人たち、本当に研究者なんでしょうか?」と反語的表現の厳しいコメントがつけられており,まるで(記事Rでいうところの)「望月グループ」が詐欺師集団であるとでも言わんばかりであるが,全く実態と整合しない妄想のような指摘である.例えば望月新一氏と星裕一郎氏に関して言えば,IUT理論以外にも立派な研究業績があり,最近でも研究の成果の公開・出版が行われており,それが普通に(特に論争の種にもならず)海外でも受け入れられていることは,調べれば分かることである(詳しくはコメントC-4参照).なお,本当に詐欺師だというのなら詐欺の目的が全く見えてこないし(コメントC-4補足1),また,常識的に考えれば詐欺ならもっと「うまくやる」ものではないだろうか(コメントC-4補足2),という感想も芽生えてくる.

以上を踏まえ記事Rでは,望月氏(望月グループ?)が「学問上の誠実性の問題を無視して,生臭いことばかりやっている」,そして「海外の数学コミュニティはそれをちゃんと見ている」と述べられている.望月氏(望月グループ)の活動の実態が本当にそのようなものであるかは,ここまでの(本文では根拠も含めてより詳述している)コメントを踏まえて改めて考えていただきたいが(コメントC-7),少なくとも「海外の数学コミュニティ」に関して言えば,記事Rにおいてその「代表例」のように挙げられているのが,Peter Woit氏というIUT理論関連の文脈においては信頼すべき点の見当たらない人物(詳しくはコメントC-9参照)のブログ記事につけられた,日本で言えば「5ちゃんねる」のような匿名の有象無象のコメントである(コメントC-8)のは,粗末なことである.なお,Woit氏のブログの記述と,記事Rの記述は,よく似通っているように見受けられる(コメントC-10).

記事Rで最後に話題として挙がった「最近の動き」が,Joshi氏の連続論文(リンク先はその最後にあたる論文)と,それに対する望月氏の報告文書における否定的・批判的応答である(D節参照).なお,この節が記事中で本質的には唯一,私にとって首肯できる内容を含む部分である.それから,前提になるが,Joshi氏の連続論文に誤りがあるという点に対しては,Scholze氏も誤りを指摘している(ことは記事R中で引用されている)ため,記事Rでも,この誤りの存在を疑う立場はとられていないようである.(2024/6/11追記:なお,Scholze氏の指摘の数学的内容は,概ね,「望月氏の指摘の数学的内容が正しい」という意味である(追記コメントD-1a2参照).)

望月氏の報告文書に関して,特に記事Rで取り上げられたのは,(記事Rの表現をそのまま借りれば)「望月氏が太字と斜体を多用して相手を口汚くこき下ろしている」点,その中でも論文の内容に対する「ChatGPT のハルシネーションのよう」という望月氏の評価,そしてJoshi氏の論文のある重要な部分の定理番号が``9.11''だったことを受けての「偶然か,または私の理解を超えたレトリックかユーモアか」という望月氏のコメントである.

私としては,当たり前のことだが,一般論としては,学術的議論の場において「相手を口汚くこき下ろす」ような内容は適切ではないと考えている.一方,「太字と斜体を多用」しているかは趣味の問題であって,(個人的に不快に思う人がいることは想像がつくものの)文章がその内容上「相手を口汚くこき下ろす」ようなものだとみなされるべきかどうかとは全く無関係である.こういった体裁までも批判の対象とするのは非常に有害な論法であって,(私はこの語彙に関する専門的知見をもっていないが,素朴な感覚としては)「トーンポリシング」という語彙を連想させる(コメントD-2).(2024/6/9追記:この次に続く「ハルシネーション」に関する一文は私の認識に誤りがあったと思うので,軽率な記述を深くお詫びしたい.今は,「ハルシネーション」に関しては望月氏はもっとよい表現を模索すべきであった,と考え直しているので,ここに訂正したい.コメントD-2とD-3の間の追記コメントD-2a3を参照.)また,IUT理論に対して懐疑的な人であっても,是非,一旦は望月氏の立場に立って想像してみて頂きたいが,もし本当にJoshi氏の論文が「ChatGPTのハルシネーションのよう」な支離滅裂なものである場合,(特に様々な社会的状況に鑑みると,)それを明示的に指摘することが必要であることもあり得ることである(ぜひコメントD-3でのより詳細な記述をご確認いただきたい).(2024/6/9追記:この次に続く一文で述べる感想自体は今のところ変わらないが,「ハルシネーション」のくだりに対する批判は妥当であったと考え直し,反省している.コメントD-2とD-3の間の追記コメントD-2a3を参照.)記事Rに限ったことではないが,望月氏の当該報告文書に対する指摘には,「望月氏の報告書は,言い回しのレベルを超えて,内容上も言い過ぎに違いない」という(無自覚な)根拠の希薄な想像が背景にあるように思わされることが多い.(2024/6/9追記:この次に続く一文に関して,ハルシネーションのくだりに関してはそれが該当する可能性が高いと認識を改めたので訂正し,深くお詫びする.コメントD-2とD-3の間の追記コメントD-2a3を参照.)また,実際のところ,(特に上述のことを踏まえると)報告文書を通読した私から見て,どこに「相手を口汚くこき下ろす」ものと断定可能な内容があるのかも,全くの謎と言わざるを得ない.読者には,望月氏の報告文書が「相手を口汚くこき下ろす」不適切なものと断定可能かどうか,改めて自身の目で見て判断して頂きたい.

ただし,``9.11''のくだりに対する記事Rの批判に関して言えば,私としても首肯するところであり,こればかりは望月氏の記述に重大な問題があると言わざるを得ない(コメントD-4).

一方,望月氏の``9.11''に関する当該記述はおかしなものであり,私としては擁護する気は一切ないという大前提の上でのコメントになるが,ある人の様々な発信の中で「正しさ」が一様でないこと自体は,普通によくあることである.「上述の内容において望月氏の物言いが明らかにおかしく,記事Rでの指摘が明らかに妥当である」からと言って,「だから望月氏はおかしな人,記事Rはまともな内容の記事で,望月氏に対して強く否定的なこの記事の内容も,大体,または全て正しいんだ」といった方向性の単純化された受け止め方がされてしまうとすれば,実におかしく,残念なことである.とりわけ,ここで問題となっている記述は(それ自体は一切肯定できないことは大前提としても)IUT理論の数学的成否とは一切関係がないことにも(流石に多くの読者はそれは分かっているとは思うが念のため)改めて注意しておきたい.

さて,記事Rでは上述の``ハルシネーション''のくだりへの言及を含む(必ずしも妥当とはいえない)指摘と``9.11''のくだりを含む(妥当な)指摘ののち(2024/6/9追記:これは私の間違いで,記事Rで``ハルシネーション''のくだりが批判されたことは妥当だと思われる.追記コメントD-2a3参照),数学の議論に「平気でこういう物言いを混ぜ込む」望月氏の態度が「彼の仕事を真剣に評価する気持ちを萎えさせ、IUTが見捨てられる一因」であると批判的に指摘されている.この主張のある側面には,ある粗いレベルでは同意するところがあるが,一方で記事Rでの表現は非常にバイアスのかかったものであることも指摘したい.詳細はコメントD-5をご覧頂きたいが,この社会的状況にあってなぜ望月氏が「平気で」こういう物言いをしていると断言できるのか不思議であるし,また,「彼の仕事を真剣に評価」とは大変重い意味の言葉であって安易に用いるべきでない(こうした言葉の語義をはっきりしないで使うことも読者の(無意識の)混乱を招く).更に,「見捨てられる」とは,まるでIUT理論を無視している側が望月氏やIUT理論より「偉い」かのような言い回しで,不適切である.それから,人間心理のレベルでは,望月氏の過激な(?)物言いもIUT理論に対する否定的空気感の「一因」であるという面は否めないが,今回の特に過激な(?)物言いは,まず先に社会的状況が大変に悪化して,その後で生じているものである,という時系列にも注意してもらいたい.

以上を踏まえて記事Rでは,望月氏とその周辺の「誠実性」に問題があることを再び指摘しつつ,まとめに入っている.曰く,

本当に、望月氏とその取り巻きグループにはさまざまなレベルでの不誠実が多すぎる。そこから目をそらし、「IUT スゴイ! 日本スゴイ! 海外の連中には難解すぎて凄さが分からないんだって!」とか「無視せずもっと議論すべき」みたいな薄っぺらいことを取り巻きやファン連中が言ってもね、まともな人たちはもう見透かして冷めきってるわけですよ。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) 」(2024年6月8日アクセス)より引用

「誠実性」についてはこの「要約」部でも既に反論してきた通りである.唯一,望月氏にも問題がある部分も皆無とは言えない「物言い(言い回し)」の点については,軽視するつもりではないが,それを「誠実性」の問題に分類することには,語義上の違和感を覚えるところである(コメントD-6).
「日本スゴイ!海外の連中には難解すぎて凄さが分からないんだって!」に関しては,``ファン''の方々については私から特別に申し上げるべきところはないが,``取り巻き''がこのような方向性の(明らかに非数学的で,実態とも整合しない)主張を発信しているのは一度も聞いたことがない.むしろ望月氏としては「普通に健全な数学的議論を行えば,わかるはず」という方向性の考え方であるし,記事Rの意味での``取り巻き''には日本人以外も含まれる(詳しくはコメントD-7参照).
「無視せずもっと議論するべき」に関しては,実際に(ただ単に無視というレベルではなく,一旦数学の議論が始まったあとで,不適切な形で)無視されている以上,当たり前の主張である.一方,厳密な数学的理解を目指さない,単なる話のネタ(タネ?)のように消費されるくらいであれば,そういう態度/専門性の方々からは無視してもらっても別に構わない,というのは,(望月氏らの意見はわからないが,私の個人的見解としては)普通の考え方だと感じる.(これも私の個人的見解だが)記事Rのような粗雑な内容の記事が書かれるよりも,単に無視していただいた方が余程よかったように感じる(コメントD-8).(これはアウトリーチ活動の必要性や,一般の非数学者の方々も含め広く興味をもっていただくことの重要性を否定しているわけでは決してない.詳しくはコメントD-8補足参照.)

記事Rは「まともな人たちは見透かして冷め切っている」と締めくくられるが,普通の平均的な「まともな人」の感覚は,IUT理論が正しいかどうかは(自分の厳密な数学的理解に基づかない以上)分からない,ということである.もちろん,色々検討した上で最終的に否定的な印象を持つのも有り得ることなのかも知れないが,既に指摘してきた通り,記事Rの場合,論じ方に数多くの問題がある.そして,こういった根拠の希薄な既存の否定的論調を鵜呑みにして,「見透かして冷め切っている」人が増えてしまうのだとすれば,それは大変におかしく残念なことである(コメントD-9).

(「要約」終わり)

コメント(A). 「数学としての問題」節に関して

まずは次の箇所に関してコメントを行う.中略部については,後ほど引用し,別途,コメントする.

以下の点に尽きる。
・2018年、Peter Scholze(ボン大学), Jakob Stix(フランクフルト大学)という2人の数論幾何学の専門家によって、web で公開されていた望月論文の「系3.12」という核心部分に致命的な問題があることが指摘された。… (中略) …
・Scholze と Stix はわざわざ来日して京大の望月氏を訪れ、1週間にわたって直接議論したが、望月氏側は系3.12に問題があることを認めず、議論は平行線に終わった。

しぶんぎ社,記事「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) 」(2024年6月4日アクセス)より引用

コメントA-1:あまり本質的ではない(記事Rの誤りの指摘というつもりではない)ことだが,時系列としては,上記2点の並べ方は「順番が逆」であり,2点目で述べられている,京大数理研で2018年3月15日から20日までの(18日を除く)5日間に行われた議論をもとにして作成されたのが,1点目で引用されているScholze, Stix両氏の報告文書 WhyABCisStillaConjecture.pdf (uni-bonn.de) (以下,当該文書をScholze-Stixレポートとも呼ぶ)である.(A-1終わり)

コメントA-1補足:2024/6/8の20:36に再度当該記事にアクセスしたところ,上記引用箇所の前半部の表現に軽微な変更が加えられ,次のようになっていた.

2017年12月、Peter Scholze(ボン大学)という数論幾何学の専門家によって、2012年に望月氏の web サイト上で公開されていた望月論文の「系3.12」という核心部分に致命的な問題があることが指摘された

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) 」(2024年6月8日アクセス)より引用

一方,リンク先は該当するScholze氏のコメント(つまり,私の現時点での理解では, The ABC conjecture has (still) not been proved | Persiflage (galoisrepresentations.com における``PS''氏のコメント?)ではなく依然としてScholze-Stixレポートとなっており,噛み合っていない.(A-1補足終わり)

コメントA-2:京大数理研で行われた5日間の議論をもとにして,Scholze, Stix両氏だけでなく,望月氏も報告文書 2018-03-ss-report.pdf (kyoto-u.ac.jp) を公開している.ある特定の場での議論に関する,対立する立場に基づいた2篇の報告文書について,片方のみを紹介して,もう片方についてはその存在にすら言及しないことは,アンフェアだと感じられる.(A-2終わり)

コメントA-3:「尽きる」とあるが,状況を正確に反映していない.これでは「望月氏が指摘を無視して,そこで終わっている」というように読めるが,実際には望月氏は指摘の内容を検討した上で詳細な反論を行っているのであり,指摘を無視して議論を(事実上)拒否しているのは,望月氏ではなく,むしろScholze, Stix両氏の方である.(念のためだが,ここで私は,Scholze, Stix両氏が望月氏の反論を無視していることそのものの是非を論じたいわけではなく,単に,状況はそうだと言っている.)
以下にもう少し詳しく述べる.

中野太郎氏が引用したScholze, Stix両氏のWhyABCisStillaConjecture.pdf (uni-bonn.de) に関しては,2018年5月のヴァージョン SS2018-05.pdf (kyoto-u.ac.jp) が存在している.また,これに対する望月新一氏本人による反論文書 2018-05-comments-on-report-by-ss.pdf (kyoto-u.ac.jp) が存在している.この反論を受けてScholze, Stix両氏はアップデートされた2018年8月のヴァージョン SS2018-08.pdf (kyoto-u.ac.jp) を作成した.(URLが違っていて,私の技術力不足で確認の仕方がわからないけれども,大雑把に中身を見て確認したところでは,おそらくは)これが記事Rで引用したヴァージョンと同一である.このヴァージョンに対して望月新一氏は更に反論文書 2018-08-comments-on-report-by-ss.pdf (kyoto-u.ac.jp) を作成した.これに対して更なる返答が得られずに議論が停止している状況であることは,以下に示す通り,複数の公開情報から(間接的に,または直接的に)読み取れることである.

そのような公開情報の例としては,(これだけでは状況がはっきりしないものではあるが)まず第一には望月氏による,以上4編の文書がまとめられたページ March 2018 Discussions on IUTeich (kyoto-u.ac.jp) における

Moreover, it does not necessarily appear realistic to expect that
further substantial efforts of the sort just described will be made by the
authors of these files [SS2018-05], [SS2018-08] in the immediate future.

望月新一氏によるウェブページ, March 2018 Discussions on IUTeich (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月4日アクセス)より引用

という記述が挙げられる(ここで``the sort just described''とはScholze, Stix両氏の議論における,望月氏から見た問題点=数学的に詳細で厳密な記述を欠いていること,のことである).また,望月新一氏による2023年8月の報告文書 2023-08 Brief report on the current situation surrounding inter-universal Teichmuller theory (IUT).pdf (kyoto-u.ac.jp) 内のリンクから閲覧できるメール reopen-e-mail-2022-06-30.pdf (kyoto-u.ac.jp) の内容からも,(やや間接的にではあるが)2018年を最後に,Scholze, Stix両氏からの返答がないことによって議論が停止していることが見受けられる.例えば

Already four years have elapsed since our discussions in March 2018 and the subsequent release of your 10pp. manuscript in May/August 2018.

望月新一氏が送信したメール内容の本人による記録文書,reopen-e-mail-2022-06-30.pdf (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月4日アクセス)より引用

という記述や

In our final e-mail correspondence in August 2018, I took the position that I do not wish to exert pressure on you (or Peter Scholze) to continue discussions concerning IUT if you are not interested in doing so. On the other hand, the fact that your 10pp. manuscript does not contain detailed, rigorously formulated statements and proofs of the key assertions cannot be ignored and … (後略) …

望月新一氏が送信したメール内容の本人による記録文書, reopen-e-mail-2022-06-30.pdf (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月4日アクセス)より引用

という記述がある.

本人以外の発信で,かつ状況が直接読み取れる文書としては,加藤文元氏(東京工業大学名誉教授,IUGC所長)のTwitter(現X)がある.名前は伏せられているがリアルタイムの状況が反映された記述として

今私が憤っていること。 …(中略)… なぜS氏は望月さんと共同で公開することを目指して作成した文書群の公開を(当初の約束に反して)いまだに保留し続けるのか?

加藤文元氏のTwitter(現X)のポスト,https://x.com/FumiharuKato/status/1025582782754344960 (2024年6月4日アクセス)より引用

当初はすぐに発表したいからと散々急かして、いざ文書が揃ってみると、突然一方的に公開を禁じるという傍若無人ぶりに憤っているのです。

加藤文元氏のTwitter(現X)のポスト,https://x.com/FumiharuKato/status/1025882631462768640 (2024年6月4日アクセス)より引用

がある.また,より詳細な状況がわかるのは,https://x.com/FumiharuKato/status/1198512389357887488 から始まるリプライツリー,特に,連続する2つのポスト

この文章は2018年の初夏には出来上がっていましたが、Scholze-Stix側の要請で、9月まで公開を見送っていたものです(上記URLのものは、さらに修正を加えたものになっています)。しかし、これに対して、Scholze-Stix側はさらに回答を約束しておきながら、

加藤文元氏のTwitter(現X)のポスト,https://x.com/FumiharuKato/status/1198512622078808066 (2024年6月4日アクセス)より引用

昨年の9月に回答することなく一方的にこの件から離脱しました。その意味では回答をしていないのはScholze-Stixの側であり、望月さん側はきちんと回答をしています。(もちろんScholze-Stix側も離脱するにあたっては考えがあってのことだと思いますから、我々は特に避難しているわけではありません。)

加藤文元氏のTwitter(現X)のポスト,https://x.com/FumiharuKato/status/1198512770821439489 (2024年6月4日アクセス)より引用

である.いずれにせよ,これらの記述から,指摘を無視して議論を拒否しているのが望月氏ではなくScholze, Stix両氏の側であることは明白である.(A-3終わり)

コメントA-3に関する補足1:のちに見るように,記事Rでは,望月新一氏本人のみならず,加藤文元氏(の属する,いわば,記事中の言葉で言えば「望月グループ」?「IUT一派」?)に対しても,「信用ならない」といった方向性の判断を下しているようである.いかに「望月グループ」「IUT一派」に否定的な立場であったとしても,上述のような簡単に客観的に証明または反証可能な経緯についてすら歪曲や捏造を疑う理由は流石にないとは思うのだが,念のため,ここで次を指摘しておく:「議論から一方的に離脱した」ことは,意図的に隠しはしないまでも,Scholze, Stix両氏の側が積極的に宣伝するようなことではないため,この経緯についての情報源が「IUT一派」側に偏るのはそもそも当然のことである.(A-3補足1終わり)

コメントA-3に関する補足2:コメントA-6補足1に詳しく述べる通りのことをここで先取りしておくが,Scholze, Stix両氏の指摘の具体的な内容に関して言えば,それが数学的な詳細を欠いたものであることも,IUT理論に関する肯定・否定とは別にして,実際に見てみればわかることである.(A-3補足2終わり)

次に,先ほどの中略箇所へのコメントに移る.

同じ時期に、海外の数学者の web サイトやメールでの議論で、他にも数人の数学者が独立に、系3.12に論理のギャップがあることを指摘している (cf. Aberdein 2022, Table 1)。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) 」(2024年6月4日アクセス)より引用

コメントA-4:参照先のTableから私は「IUT理論の論理のギャップを指摘した数学者」の名前をScholze, Stix両氏を除いて読み取ることができなかった.(Brian Conrad氏が受け取ったe-mailのことを指しているのだろうか?であれば,不明確で不適切な参照先であるように思われる.)
もちろん,実際に他にも数多くの「否定派」が(少なくとも,海外のインターネット上に)いることは私としても承知している.しかし,現時点での主観的な印象になるが,そのような数多くの「否定派」のうち,真に数学的内容を検討した上で「否定派」に至り,その「否定派」としての数学的根拠を適切に提示することを試みた人は,(望月新一氏本人により反論され,それに応答していない)Scholze, Stix両氏を除けば,きわめて少数なのではないかと思われる.(というか,知らないし,既に反論されているScholze-Stixレポート以外のどの文献に,数学者による「「否定派」の数学的根拠」が書いてあるのか,本当に,あるなら是非教えてほしい.)(A-4終わり)

コメントA-4に関する補足:そのような数少ない「数学的根拠を適切に提示することを試みた否定派」の一例としては,のちに自身の誤解に気付き「肯定派」へと立場を変えたEmmanuel Lepage氏が挙げられる.Lepage氏に関する経緯については望月氏の2023年8月の報告書 2023-08 Brief report on the current situation surrounding inter-universal Teichmuller theory (IUT).pdf (kyoto-u.ac.jp) にも記述がある.

At the outset of these discussions (in the summer of 2017), Lepage took a deeply skeptical position with regard to the mathematical validity of IUT. On the other hand, it was precisely as a result of his sincere efforts during the period 2017 - 2021 to respond to repeated requests by the author of IUT to make his objections to the mathematical validity of IUT precise and explicit that Lepage was finally able to realize and acknowledge explicitly that his objections to IUT were purely psychological, that he had misunderstood IUT, and that he no longer had any mathematical reasons not to acknowledge the mathematical validity of IUT.

望月新一氏による報告文書, 2023-08 Brief report on the current situation surrounding inter-universal Teichmuller theory (IUT).pdf (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月4日アクセス) より引用

この記述に関しては特に,是非読み飛ばすことなく目を通して頂きたい.

(A-4補足終わり)

次の内容に移る.

欧州数学会他が運営する世界的な数学文献データベース「zbMATH Open」でも、望月論文にはScholzeによるレビューが付いており、ABC予想を証明したという論文の主張は明白に否定されている。これに代表されるように、望月グループの外では望月論文は否定的に受け止められている。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) 」(2024年6月4日アクセス)より引用

コメントA-5:1文目の実質的な内容は「Scholzeが否定している」ということなので,前段までの内容に含まれている(1文目には実質的な新しい内容が見出せない).なお,米国数学界運営の「Mathematical Reviews」では望月論文にはMohamed Saidi教授によるレビューがついており,論文の主張は明白に肯定されている.Saidi氏の肯定にせよScholze氏の否定にせよ,「~さんがそう言っている」というのは,高々,心証に影響を与える程度のものであり,数学の文脈において何かを断定する根拠にはならないのは,当たり前のことである.これは,今や誰からも疑われていない,DeligneらによるWeil予想の証明や,WilesらによるFermatの最終定理の証明等でも,同じことである.(A-5終わり)

コメントA-6(内容はA-5の続き):A-5への「想定反論」への「再反論」として,記事Rへのコメントという趣旨からは少し外れてしまうが,次のコメントを残しておきたい.もちろん,(実際にフォローした人はかなり少数であるはずの)DeligneらによるWeil予想の証明やWilesらによるFermatの最終定理の証明等が広く受け入れられている状況は,別に「ほとんどの人が全く無根拠にそれを信じている」ということではないことは,私も理解している.証明を完全に理解して絶対的な確信がある人は少数に留まるような状況にあって(まあ,それでもIUT理論よりはかなり多いのだと思うが),なお合意形成が得られるための重要な一側面として,「たとえ完全な理解には至っていなくても,大体,大雑把なレベルでは証明のストーリーや,その手法に至る動機については,数学的にきちんと理解している」といった,中間的な,グラデーション的な理解の段階があり,その中間領域に多くの人が参画している,ということが挙げられるように思う.

IUT理論は,遠アーベル幾何学(の中でも特に望月氏に流儀の近い領域)という,数論幾何学の中でも比較的ニッチな・独特な分野に立脚している.従って,(仮に理論が正しいとして,)この中間領域に参画するために,遠アーベル幾何学(の中でも特に望月氏に流儀の近い領域)の問題意識や手法をある程度よく理解している必要がある.そして実際,私自身を含め私が普段から個人的に関わる人々の間では,そのような理解に基づいて,仮にIUT理論の厳密な理解には到達していなくても,ストーリーや大体の論理構造を把握し,その結果,理論を肯定的に受け止める空気感が共有されている.また,そのような理解に基づいて,IUT理論に関するScholze-Stixレポートはおそらく間違っているだろう,という空気感が共有されている.
なお,仮にこのように一定の数学的根拠に基づく肯定的な心証をもっていても,(自身の数学的理解に基づく)決定的な確信がない限り,「IUT理論は正しいに違いない」「Scholze-Stixレポートは間違っているに違いない」といった断定的な言明を公に発信したりしないのは,数学関係者としての良識を遵守した姿勢であると考えている.私としても,いかなる留保付きの主張であったとしても,「Scholze-Stixレポートはおそらく間違っているだろう」という方向性の主張を現時点で公にすることすら,本来は避けたかったことである.もちろんこれは理論に対する肯定の立場でも否定の立場でも変わらないことであり,もし,当然の良識を遵守している側の声が,それゆえに,そうでない側の声より届きづらくなっているような現状があるのだとすれば,それは(仮にIUT理論が間違っていたとしても,それとは独立に)非常に残念なことである.(A-6終わり)

コメントA-6に関する補足1:記事Rへのコメントという趣旨からは引き続きやや外れてしまうのだが,ここで是非説明しておきたいことがある.
数学では,何かが正しいことを確認・指摘するのは難しくても,何かが間違っていることを確認・指摘するのは簡単だ,という(別に普遍的な原理ではないと思うが,経験的に認められる)傾向がある.この傾向ゆえに,「もしScholze-Stixレポートがおそらく間違っていると思うのであれば,きちんと読んで,本当に間違っているのか確認すればよいではないか.おそらく間違っているだろう,という曖昧な状態で放置しているのはおかしいではないか.」等と思われそうである.しかし,Scholze-Stixレポートに関してはこの指摘は当てはまらないことを,ここで説明しておきたい.それは以下の理由による.というのも,Scholze-Stixレポート WhyABCisStillaConjecture.pdf (uni-bonn.de) の記述

To facilitate the discussion, we will describe (only) the notions that are strictly relevant to explain what we regard as the error. This will involve certain radical simplifications, … (後略) …

Peter Scholze氏, Jacob Stix氏による報告文書, WhyABCisStillaConjecture.pdf (uni-bonn.de) (2024年6月4日アクセス) より引用

からも読み取れるように,Scholze-Stixレポートは,次のような論理構造になっている.(※上記引用の後略部以降には,大まかに言うと,そのような 簡略化=simplification に対して事前に想定しうる疑義と,それに対する``excuse''が書かれている.特に,望月と合意できた簡略化と,そうでない簡略化が,両方存在すること(を含意する内容)が述べられている.)

Scholze-Stixレポートの論理構造:

  • IUT理論に対する大幅な簡略化を行う.

  • その簡略化されたIUT理論(従って特に,主定理III.3.11の簡略化版)が,無意味なものであることを指摘する.

  • 系III.3.12の証明(主定理III.3.11から系III.3.12を導く議論)が誤っていることを説明する.

そして望月氏の反論の重要な側面は,(Scholze-Stixレポートにおいて「この簡略化については望月と合意した」と述べられた範疇に含まれる内容も含めて)その(上の箇条書きの一点目の)「簡略化」には合意できない/合意していない部分が多く含まれている,その「簡略化」は誤っている,ということである.2018年3月の議論に関する望月氏の報告文書 2018-03-ss-report.pdf (kyoto-u.ac.jp) には,次のような記述がある.

Indeed, at numerous points in the March discussions, I was often tempted to issue a response of the following form to various assertions of SS (but typically refrained from doing so!):
Yes! Yes! Of course, I completely agree that the theory that you are discussing is completely absurd and meaningless, but that theory is completely different from IUTch!

望月新一氏による報告文書,2018-03-ss-report.pdf (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月4日アクセス) より引用

もともとの「なぜ(例えば,私=本記事執筆者=立原礼也が)自分でScholze-Stixレポートが誤っているかどうか確認しないのか」という問題に戻るが,当たり前のことであるが,理論に対してある簡略化を行うことができるかどうかは,その理論の内容を十分に理解した上でないと判断することができない.従ってScholze-Stixレポートの内容を厳密に検証するためには,結局,まずはIUT理論の原論文の数学的内容の本格的な理解を目指すしかないのである.そしてそれはまさに(他の色々な数学的活動もあって,まだまだ長い時間がかかるが)現在私が取り組んでいることである.(A-6補足1終わり)

コメントA-6に関する補足2(3段落目以降は,修士課程レベル?の整数論の専門知識を知っている人向け):引き続き本記事の趣旨から逸れるが,では今度は,なぜ以上に述べたような「微妙さ」にも関わらず,「おそらく間違っているだろう」とまで思えるのか?という疑問について少し述べる.なお,そもそも先述の通り,私は(学問的誠実性の観点から!)現時点ではこの主張を公に述べることにすら気が引けているくらいなので,あまりこれを強調したくはないのだが,この文脈でこのような疑問/不信感が生じることは容易に想像がつくため,「泣く泣く」これを含めているのである.

非常に大雑把に非数学的に言えば,まさにコメントA-6に述べたような「たとえ完全な理解には至っていなくても,大体,大雑把なレベルでは証明のストーリーや,その手法に至る動機については,数学的にきちんと理解している」といった方向性の,IUT理論に関する中間的な理解を私がもっており,そしてその理解が全く以てScholze-Stixレポートの内容と整合しないから,Scholze-Stixのレポートがおそらく間違っているだろうという心証をもつのである.また,その観点から,望月氏のScholze-Stixレポートへの反論の内容も非常に妥当なものであろうと感じられる.

もう少し数学的な(しかし現実的な字数上の/時間的な制約によって,なお非常に大雑把な)レベルで,修士課程レベル(?)の整数論(局所類体論)の知識を仮定して,この「中間的な理解」を私自身の言葉で,私自身の責任に基づいて説明したい.念のため繰り返しておくが,本記事執筆時点では私は同理論に関して勉強の途中であり,1つの参考に過ぎないものとして捉えて頂きたい(ただし遠アーベル幾何学関連のgeneralな説明に関しては十分にconfidentである).
前提になるが,遠アーベル幾何学では「(位相)群論的」に数論幾何学を扱いたいため,通常「環論的」に定義される様々な対象を一旦忘却したり,また,それらの間の自然な同一視を一旦解除したりして扱う必要がある.
具体例で説明しよう.p進局所体kの絶対Galois群G_kは,その環論的出自により「惰性群」という(kの最大不分岐拡大,特にZhat拡大に対応する)自然な部分群I_kをもつが,このI_kの定義は位相群論的ではない.つまり,G_kに対してはI_kという部分群が定まるが,G_kと同型なただの位相群Gに対しては,I_kにあたる部分群の定義はア・プリオリ的には存在していない.(この非存在性により,例えば「G_k1とG_k2の間の位相群同型写像がI_k1とI_k2の間に同型を導くかどうか」という保存性の問題も明らかでない,ということになる.)この事態を無理矢理,短く標語的に表そうとしてみると,「G_kの環論的解釈を忘却しているので,伴ってI_kも忘却される」といった(一見奇妙な?)標語になると思う.(なお,この標語は望月氏等による言い回しではなく私が今書きながら考えた言い回しであるが,こういった感じの,流儀の近い遠アーベル幾何学を良く知っていれば特に問題なく飲み込める標語も,意味不明だなどとして批判の対象になっているのを,時々見かけるような印象がある.)もちろん「GとG_kの同型を1つ固定して,それによりI_kを移送する」という安直な方法があるが,それはkの取り方や同型の取り方に依存してしまうかもしれないので,Gだけから決まる適切な定義とは言えない(上述の保存性の問題を参照).多様体論において,(たとえユークリッド空間の開集合と同型な多様体を扱っているときであっても)概念の定義は座標に依存してはいけないのと,よく似ている.
そこで,「G_kより一般に,「あるp進局所体kが存在してG_kと同型」な位相群Gに対して,何らかの部分群I(G)をwell-definedかつ位相群同型不変に定義して,それが任意のp進局所体kに対してI(G_k)=I_kを満たしているようにする」といったことがもしできれば,(つまり多様体論の喩えで言えば「座標に依らない定義」が確立できれば)それはもちろん,(「定義しているだけ」にも関わらず)非自明な内容(例えば上述の保存性)を含む数学の定理となる.もちろん,その定義の仕方を発想することや,well-defined性,従来の定義との整合性の確認の中に,非自明さが詰め込まれているのである.これが遠アーベル幾何学の中心にある「復元」の考え方である.なお,実際に``I_k''は局所類体論の比較的簡単な応用として「復元」が可能である(つまり``I(G)''の適切な定義を発見可能である)ので,まずは以下の議論を読んでから考えてみられるとよい.

他にも,G_kは(そのG_kを定義するのに使った)固定されたkの代数閉包kbarへの自然な作用をもっているが,こういった作用も当然,G_kと同型な位相群Gに対しては,ア・プリオリ的に決まっているものではない.それどころかこのような抽象的な位相群Gに対しては,``kbar''が何を指しているのか自体が不明瞭である.また,(ここでは説明しないが)ある適切な解釈を与えたとしても,その解釈のもとではこれは「復元」することができないことが示せる.一方,kbarの乗法群という可換モノイド(※実際には群だが問題の様々なヴァリアントも踏まえてモノイドとしておく)であれば,以下で説明する,その「エタール版」を復元することが可能であり,Gからの作用も復元できる.これがkbar(へのG_kの作用)についての「エタール的表示の復元」である.
説明しよう.まず,I_kが復元できると,そのSylow p-部分群として(この特徴づけが位相群論的であることに注意!)暴惰性群P_kが復元できる(つまり先程の``I(G)''という記号法に合わせると``P(G)''が適切に定義できる).そこでG_k/I_kのI_k/P_kへの自然な作用を適切に観察することで,実はG_k/I_kの中のFrobeniusが位相群論的に復元できる.それで生成されるG_k/I_kの部分群(=いわばZhatの中のZにあたる部分,もともとは位相群論的ではないが,今や位相群論的!)を,G_kのアーベル化からG_k/I_kへの自然な全射(位相群論的!)を通じて引き戻すことで,「G_kのアーベル化に局所類体論の相互写像を通じて埋め込まれたkの乗法群」(もともとは明らかに環論的/非位相群論的!)が,今や位相群論的に復元できる.最後に,この位相群論的構成をG_kの様々な開正規部分群に対して適用して,開正規部分群を縮める(Transferによる)帰納極限をとり,G_kの共役作用を考えることで,kbarの乗法群と自然に同型な対象,およびその対象への(この自然な同型と両立的な)G_kの作用を復元できるのである.

(ものすごく細かい寄り道)もし,もともと素数pを1つ固定した上で「あるp進局所体kが存在して,G_kと同型」な位相群Gを出発点とする復元を考えるのであれば,上のP(G)の復元はそのまま適切だが,一方,もし「ある素数p,およびそのpに関するあるp進局所体kが存在して,G_kと同型」な位相群Gを出発点とする復元を考えているのならば,上のP(G)の復元は不完全である(``p''の選択が位相群論的でない!).このギャップは予め``p''も復元しておくことで解消できる(これには単にGのアーベル化の位相群論的構造を局所類体論で観察すればよい).

さて,復元の具体例の話題に戻ろう.「kbarの乗法群と自然に同型」と書いたが,この「自然な同型」は「環論的」なものである.どういうことか?上の復元の出力として得られるkbarの乗法群の同型物(kbarのエタール的表示)を,入力の位相群をGとして,MultGp_AlgClFld(G)と書くことにしよう.(Gの作用もAct(G)などと記号を与えておきたいところだが,今は省略する.)MultGp_AlgClFld(G_k)とkbarの乗法群の間には「自然な同型」があるわけだが,当然,これはkの環構造を用いて(局所類体論によって)定義されるものであり,その意味で環論的なのである.そこで今度は,これを「位相群論および乗法モノイド論的」に定義し直す,という新しい復元問題が生じるのである.その定式化は次の通りである.

問題:(G, M, rho)を位相群,可換モノイド,前者の後者への作用の組であって,「あるp進局所体kが存在して(G_k, kbarの乗法群, G_kの構成から生じる自然な作用)と,このような組として同型」なものだとしよう.このとき,この(G, M, rho)を出発点として,上述の「自然な同型」にあたる(したがってG作用と両立的な)MultGp_AlgClFld(G)とMの間の同型を復元できるだろうか?
(※実は,この場合「少なくとも,完璧には復元できない」ことは遠アーベル幾何学の専門知識等が一切なくてもごく初等的に示せるのだが,想像がつくだろうか?)

これが「Kummer同型の復元」の問題の典型的な古典的な例である.MultGp_AlgClFld(G)がエタール的対象と呼ばれるのに対して,MはFrobenius的対象と呼ばれる.これらの間の自然な(従来的には環論的に定義される)同型が,Kummer同型である.「もともと``実体的な''ものとして在る,原始的な興味の対象としてのFrobenius的対象」と,「もっと不思議で謎めいた``魔法のような''ものだが,純位相群論的で高い両立性をもつエタール的対象」を,環論的構造を忘却した設定においてなおカノニカルに結びつけてくれる「Kummer同型の復元」は,IUT理論において大変に重要な役割を果たす.「Kummer同型の復元」に関する上に挙げた問題例への解答や,そこから得られる非自明な帰結,その他関連事項の詳細な解説については,星裕一郎氏による大変に優れた解説論文 Introduction to Mono-anabelian Geometry (centre-mersenne.org)(特にSummary 7.5,ただし「群」と「位相群」のギャップについてはLemma 1.4)をご参照いただきたい.

ここで改めて強調したいのは,環構造を忘却した,位相群論的/モノイド論的設定で考えると,環論的には当たり前だった様々な対象の定義や同一視が,全く当たり前でなくなる(それゆえに「エタール的表示の復元」と「Kummer同型の復元」の非自明な問題が生じる)のだ,ということである.以上のような観点に立つと,IUT理論の主定理III.3.11も,(内容は遥かに複雑で,また,数学的に大事なこととしては以上のようなlocalな状況ではなく本質的にglobalな設定ではあるが)見るからにこのような形で書かれている.つまり,環構造を忘却したもっと弱い構造の設定から,本来は環構造に由来する対象にまつわる,(エタール的表示とKummer同型の)非自明な復元問題が解ける,という形で書かれている.定理のテータリンク両立性とは,そのような非環論的な(もっと弱い構造の,ガロア群や乗法モノイド的な)設定で復元問題を解いているからこそ,環構造からは生じえない「値群の変形」をもたらすような,「弱い構造」に関する非従来的な同型とも,様々な(本来は環論的な対象・概念等が)両立的になる,という方向性のものと理解できる.更に,エタール的表示とKummer同型の復元において,体積計算に関する両立性のような方向性の内容も考慮している記述が見受けられる.これにより,「本来区別するべき対象(!)であるテータリンクの左辺と右辺(特に,``テータ=q^N''と``q'')を,大変非自明な理由(!)によって,「体積計算」に関連する内容も含め整合的に``混乱''可能となり,(ここでは説明しない「不定性」の概念も考慮に入れると)そこから非自明な不等式的帰結が得られる」というストーリーも,全くおかしくない,という感覚になる.

一方,Scholze-Stixレポートは,主定理III.3.11が,彼らの主張する簡略化の下では「誤った主張になるというより,自明になる」と述べている:

We pause to observe that with the simplifications outlined above, such as identifying identical copies of objects along the identity, the critical [IUTT-3, Theorem 3.11] does not become false, but trivial.

Peter Scholze氏,Jacob Stix氏による報告文書, WhyABCisStillaConjecture.pdf (uni-bonn.de) (2024年6月5日アクセス) より引用

identifying identical copies of objects along the identityなどという操作は,それ自体は全く問題を生じるはずなどない,ごく自然で当たり前の考え方である.一方,しかしながら,ある操作がそれ自体は全く当たり前で何か矛盾をきたすはずがないものであっても,それと他の別の操作を同時的に行うことに問題がないかどうかは別問題であり,従って,その有害性/無害性は考察下の数学的文脈に依存することも,当たり前である.遠アーベル幾何学の文脈の場合,環構造より真に弱い構造を扱いたい文脈で(=上のような復元問題の文脈で),抽象的な位相群として扱いたいG_kを(環論的文脈下の)ガロア群G_kとみなす,といったことは,理論に本質的な悪影響をもたらす,不必要な混乱につながりうるものである.また,一見するともっと当たり前だが実際には関連したことなのだが,``id''ではない射による2つの対象の同一視/貼り合わせを考えたいときに,それと同時的にその2つの対象を``id''を通じて同一視することは,そもそも自己矛盾した考え方である.(望月氏による講演スライド IUT as an Anabelian Gateway (IUGC2024 version).pdf (kyoto-u.ac.jp) ,特に2節と3節をご参照頂きたい.また,山下剛氏による短く優れた解説 2018-09-03 山下氏のFAQ.pdf (kyoto-u.ac.jp) もご覧いただきたい.)

もしこういった方向性の不必要な混乱による主定理の内容の誤解ではないのだとすれば,あのような形の復元定理がどうして「自明」になるというのか,到底想像がつかない.(私の理解の全てをここでの記述に反映したわけでは全然ないが,概ね,基本的には)このような理由で,普通に常識的に考えると,定理III.3.11の主張をScholze-Stixが誤解していると考える方が整合性が高いというのが,私の現時点での考え(想像)である.

繰り返しになるが,この「普通に常識的に考えると,Scholze, Stix両氏が誤解していると考える方が整合性が高い」という(たとえ遠アーベル幾何学に関する自身の素養に基づいてはいても,原論文やレポートの内容に関する厳密な数学的理解に100%基づいているとは到底言えない)「暫定的理解」について公に述べるに至ったことは,私にとって大変不本意である.自分が100%厳密に理解しているわけではない数学的内容の数学的成否については,断定的に述べることは不適切であるため,注意して断定を避けてきたが,それでも,何かそういう成否に関する判断を示唆する主張を行うことさえ,本意ではないということである.(A-6補足2終わり)

A-6補足3:繰り返しになるが(コメントA-6の補足2参照),遠アーベル幾何学における復元的議論においては,「定理の証明は非常に短くても,(その定理に至るまでの様々な定義の中に非自明な内容が含まれているため)定理は大変に非自明なものとなる」というのは普通に原理としてあり得る話である.これに関して今度は「そんな簡単なことを,あのScholze氏がわからないはずがあろうか?」といった疑問を抱かれそうであるが,その疑問に関しては,私としても全く共感するところである.望月氏も,自身のブログの記事の中で

理論に対して懐疑的であった欧米の数学者も、普通に建設的な数学的な議論に応じされすれば、理論に対する誤解や疑念は、(19世紀の有名なリーマン・ワイエルシュトラスの解析接続を巡る論争とよく類似していて)現代数学の観点から見れば至って初等的かつ簡単に払拭できるものであり、… (後略) …​​

望月新一氏のブログ記事, キリスト教・ユダヤ教に基く欧米の神格化・選民思想と理性の弾圧 | 新一の「心の一票」 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) (2024年6月7日アクセス)より引用

と述べている.以上を踏まえて,有名な英語の記事 Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture | Quanta Magazine で説明されているScholze氏のIUT理論に対する理解・態度を見ると,大変に興味深い示唆がある.いずれにしても私には現時点で何かを断定的に述べる資格はないので,その「示唆」の中身をここに書くつもりはないが,読者のうち数学の専門知識をもつ方々は,以上の解説と下記引用を参考に,一体何が起こっているのか,各自でご想像頂きたい.

Scholze was one of the paper’s early readers. Known for his ability to absorb mathematics quickly and deeply, he got further than many number theorists, completing what he called a “rough reading” of the four main papers shortly after they came out. Scholze was bemused by the long theorems with their short proofs, which struck him as valid but insubstantial. In the two middle papers, he later wrote, “very little seems to happen.”

Titans of Mathematics Clash Over Epic Proof of ABC Conjecture | Quanta Magazine (2024年6月6日アクセス) より引用

なお,IUT理論の主定理III.3.11の主張は,単に出てくる用語や概念が複雑であるだけでなく,「~が復元できる」といった感じの,流儀の近い遠アーベル幾何学(特に,アルゴリズム的遠アーベル幾何学)の専門的学術的経験がなければその意味を正確にとることは困難と思われる表現を用いていること,もっと言えば,専門家でさえ,原論文の主定理以前の部分全体の精読によってしか,その意味を「真に正確にとる」ことはできないと思われること,そしてそれは理論の内容や立脚点から考えて著者の瑕疵とは言い難いと思われることを付言しておきたい.(A-6補足3終わり)

コメントが長くなりすぎてしまったので,改めて記事Rから再度同じ部分を引用しておく.

欧州数学会他が運営する世界的な数学文献データベース「zbMATH Open」でも、望月論文にはScholzeによるレビューが付いており、ABC予想を証明したという論文の主張は明白に否定されている。これに代表されるように、望月グループの外では望月論文は否定的に受け止められている。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) 」(2024年6月4日アクセス)より引用

コメントA-7:「望月グループ」という言葉の指す範囲が曖昧であり,特に意味の感じられない指摘である.
論文の内容が高度に専門的である場合,(IUT理論に限らず,誰も殊更に疑いを向けていない様々な理論についても同様のことであるが,)その分野の高度な専門知識をもっていなければ理解できないのは当たり前のことである.特にIUT理論は(望月氏と流儀の近い)遠アーベル幾何学という比較的ニッチな・独特な分野に立脚しているため,なおのことである.
もし「望月グループの外では」が「(望月氏と流儀の近い)遠アーベル幾何学の専門家以外からは」という意味なのであれば,彼らのうちのほとんどは(コメントA-6に記したような,「よくわかっていなければ何も断定できない」という当然の原理の観点から)「否定的」の立場を確信する数学的根拠をもたないわけだから,従って,彼らのうちのほとんどは,単に既にある否定的空気感/否定的言明に追従しているだけだということになる.それでは否定的空気感の「大元の震源地」(=私の理解では,その重要な1つはScholze-Stixレポート)を超えた更なる否定の根拠にはならない.否定的空気感そのものを,否定的空気感の「大元の震源地」を超えて更なる否定の根拠とみなすのは,ある種の循環論法のようなおかしな議論である.
あるいは,「IUT理論に肯定的な姿勢の(ごく少数の?)人々以外からは否定的に受け止められている」といった方向性の意味なのであれば,これもほとんど無意味な循環論法であるように見える.それとも(この解釈で,なおかつ「循環論法」を回避できるように好意的に受け止めるとすれば)「中立が少ない」という意味だろうか?本当に「中立が少ない」かどうかは私にはわからないが,もし「中立が少ない」のだとすれば,その「中立が少ない」理由まで踏まえると,それが本当にIUT理論の数学的成否と少しでも関係があることなのかどうか,改めてよく考えてみてはいかがだろうか.(A-7終わり)

コメントA-7に関する補足:「追従」のくだりについて,もちろん,現実問題として,各々に専門分野があって仕事があるのであり,IUT理論の勉強や検証に時間を割くことができる人は限られているのであるから,別に「追従」そのものを問題にするつもりはない.彼らがabc予想の証明に誤りがあると信じていることは,私がFermatの最終定理が証明されていると信じているのと,まあ,大体,同じことであると思う.一方,そのような追従者が,もしIUT理論の成否について否定的立場を公の場で断定的に表明しているようなことがあれば,それは数学者としての良識とはかけ離れており,学問的に誠実な姿勢とは言い難い.
また,(実際のところは私にはわからないけれども,1つの自然に想像される可能性として,)もし仮に(数論幾何学界のスーパースターである)Scholze氏の言ったことは「絶対的な正解扱い」になって,多くの人々はまともに検証せずに追従してしまうのだとすれば,そのような状況はScholze氏も望んでいないはずである.もし仮にそのような不健全な社会的状況があるのだとすれば,それについては,Scholze氏にも気の毒な被害者としての側面が大いにあるように感じられる.(A-7補足終わり)

コメントA-8(A節の終わりに):結局「数学としての問題」が何を指しているのか,以上のコメントを踏まえて,改めて教えていただきたい.できれば「数学としての問題を論じる以上,記事Rの著者の数学的理解に基づいて」とまで申し上げたいところだが,それが酷な要求なのはこちらとしても理解している.そこで,何か社会的な要素で判断が下されたにせよ(それ自体は仕方ないにせよ),その判断の由来をきちんとご説明頂きたい.また,当たり前のことだと思うのだが,以上のコメントを読んで考え方が変わった部分などがあるのであれば,それを適切に表明して頂きたい.(A-8終わり)

(A節終わり)

コメント(B). 「学問上の誠実性の問題」節に関して

記事Rにおいては「学問上の誠実性の問題」が箇条書き状に指摘されているため,そのそれぞれを引用して指摘を行う.

望月氏は Scholze, Stix の指摘を論文中で全く引用せず、査読チームも両氏の指摘を論文内で引用するよう求めることなく、完全に「なかったこと」にして2020年に論文を受理し、2021年に出版してしまった。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントB-1:そもそも,Scholze, Stix両氏の指摘を論文中で引用すべきなのか,それともそうでないのかは,理論の内容と指摘の内容に関する適切な数学的理解なくしては判断し得ないことである.もし,偉い数学者が何か指摘しているのだから引用すべきに違いない,という解像度の主張なのであれば,それは学問的態度とはかけ離れたものである.(B-1終わり)

コメントB-1に関する補足:なお,同じ土俵に立つようで嫌であるが,もし敢えて社会的評価の話に乗るのであれば,IUT理論が立脚している学術分野である遠アーベル幾何学においては,望月新一氏よりもっと「偉い」先生は一人も存在しないというのは,数学的実績に基づいた普通の客観的な社会的評価である.(B-1補足終わり)

コメントB-2:既にコメントA-3で詳しく指摘した通り,望月氏は両氏の指摘を「なかったこと」になどとはしておらず,むしろ,丁寧に対応した反論文書を作成しており,その反論をなかったことにしているのはScholze, Stix両氏の方である.(B-2終わり)

論文を出版した雑誌は、望月氏の所属機関である京大数理研の雑誌「PRIMS」であり、望月氏自身がこの雑誌の編集委員長に就いている。つまり、内輪の雑誌に投稿し、望月氏のお仲間が査読し、通すという実質的な自作自演になっている。(望月氏自身はこの論文に関しては編集の職務から外れているとのことだが、査読チームが忖度しないわけがないと考えるのが普通だろう。)

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log (4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントB-3:このように論争のある論文が,著者が編集委員長を務める雑誌で出版されることは心証が良くない,という感想については,私としても(本件はともかく一般論としては)理解でき,否定するつもりはない.一方,論文投稿時点では当然このような大論争にはなっていない普通の状況であったこと,そして,そのような普通の状況では特に,望月氏がPRIMSに投稿することはごく普通のことを考えると,これを望月氏の誠実性の問題とすることは全く的外れである.(B-3終わり)

コメントB-4:「望月氏のお仲間が査読し、通すという実質的な自作自演」「査読チームが忖度しないわけがないと考えるのが普通」とあるが,これは論文著者の望月氏のみならず,柏原正樹氏を含め,編集に携わった,IUT理論とは特に関係なく大変に優れた実績をお持ちの数学者たちに対する,根本的な侮辱的発言である.ご自覚はおありなのだろうか.これは(まさに,記事Rの項目分けからもわかる通り)数学的正しさに関する否定的言及とも全くレベルが違うものであり,非常に重大な冒涜である.(たとえIUT理論の成否に対して懐疑的な数学者であっても,このコメントには怒ってみても良いように思う.)

なお,仮に(仮に!)そのような「忖度」自体が多少あり得たとしよう.そうだとしても,「Scholze, Stixのレポートを反映せずに出版したこと」自体が「忖度」の帰結だとは考えにくいことを付言したい.というのも,既にコメントA-6に関する補足2の途中で示したように(※A-6の補足2には主観的な部分もあるがこの部分は客観的に判断可能である),もしScholze-Stixレポートの指摘が正しいのであれば,IUT理論は「全く無意味で実質的内容が皆無な理論」ということになってしまう.そして,たとえもし「忖度」のようなことが何かしらあったとしても,流石に「全く無意味で実質的内容が皆無な理論」が,その無意味性にも関わらず単純な忖度で出版の合意に至るとは,やはり常識的には到底考えにくいためである.(B-4終わり)

コメントB-4補足1:IUT理論のある側面の改良版に関する論文 Explicit estimates in inter-universal Teichmüller theory (projecteuclid.org) はKodai math journalから出版されているが,どのようにお考えだろうか.(やはり加藤文元氏に対する忖度だと言いたいのだろうか?)(B-4補足1終わり)

望月氏はメインのIUTの論文と併せて、IUT関連のレポート・論文などを随時自分のwebサイトで公開しているが、それらの文書の中で一貫して Scholze, Stix の名前を出さず、「RCS(redundant copies school; 冗長コピー学派)」という嘲笑を込めた呼び名で呼び続け、文献リストでも両氏のレポートを引用していない。例えばこれ。適切に文献を引用しないということは、そういう議論があったことを後世の人間が書誌情報から追えなくなるということである。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントB-5:最初にこの部分を見たとき大変驚いた.こういった内容をご存知でありながら,なぜコメントA-3で指摘した「望月氏は批判に対応しており,議論を拒否しているのはScholze, Stix両氏の方である」ということはご存知ないのか,矛盾的記述に感じられ,不思議に感じられる.
あるいは「Scholze, Stix両氏の指摘の内容は正しくて,望月氏の応答の内容はめちゃくちゃ」といった方向性の(偏った情報源を「結論ありき」的に信じる態度,または数学の厳密な専門知識の,少なくともどちらかがなければ,到達することが原理的に不可能な)解釈を採用して,「数学としての問題」節では意図的に望月氏の応答を無視していたのだろうか?(B-5終わり)

コメントB-6:RCS=redundant copies schoolという命名に,私は嘲笑の要素を見出すことができない.redundant copiesは単にScholze, Stix両氏がしているような方向性の数学的主張(誤解)に対する彼なりの要約的命名である(Scholze, Stix両氏が「IUT理論におけるcopiesの使用はredundantである」と主張してコメントA-6の補足1に述べたような「簡略化」を行っている).つまり``RC''の部分は純粋に数学的内容を表しているのだから,嘲笑の要素が見出されるはずがない.また,``S''のschoolも特に嘲笑的な雰囲気などはない単語であるように思われる(何かあるとしたらここが私の英語力不足とかなのでしょうか?).RCSが,純粋に誤解の数学的内容にのみ注力するために導入された語彙であることは,記事R中に「これ」として引用されている解説論文において,次のように明記されている通りである.

One fundamental reason for the use of this term “RCS” [i.e., “redundant copies school [of thought]”] in the present paper, as opposed to proper names of mathematicians, is to emphasize the importance of concentrating on mathematical content, as opposed to non-mathematical — i.e., such as social, political, or psychological — aspects or interpretations of the situation.

望月新一氏による解説論文, ess-lgc-iut-amstex.pdf (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月5日アクセス) より引用

また,(以上の指摘に比べると些細なことだが)これが「Scholze, Stix両氏に対する呼び名」ではなく,「Scholze, Stix両氏がしているような誤解(をしている人たち)に対する呼び名」であることも明らかであり(「数学的内容に集中する」とはそういうことである),その意味でも記事Rでの指摘は不正確である.(B-6終わり)

コメントB-7:「適切に文献を引用しないということは」とあるが,コメントB-1でも述べた通り,文献引用の有無の適切性を判断する資格があるのは,内容に関する十分な数学的理解がある人だけである.(B-7終わり)

コメントB-8:当該論文 ess-lgc-iut-amstex.pdf (kyoto-u.ac.jp) にScholze-Stixレポートを引用した方が 「後世の人間」にとって有難い可能性が高いことには,純粋な「歴史資料」としての観点からは,私としても同意できるところである.一方,記事Rでは「議論があったことを後世の人間が書誌情報から追えなくなる」ことが懸念されているが,望月氏は(コメントA-2でも言及した)自身のレポート 2018-03-ss-report.pdf (kyoto-u.ac.jp) を引用しているため,これは杞憂であるように思われる.また,この「後世の人間」という観点には望月氏も積極的な興味をもっていることは,当該論文の1.5節``The historical significance of detailed, explicit, accessible records''のタイトルや内容から明らかであることを付言しておきたい.(B-8終わり)

最後に次の箇所を引用しておく.

IUTの正しさに大きな疑問が投げかけられている状況を無視して、京都大学が2019年に数理研の下に「次世代幾何学研究センター」なる機関を設立し、望月氏をセンター長に据えた。(2022年に量子幾何学研究センターと統合して「次世代幾何学国際センター」に改組。センター長は変わらず望月氏。)

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントB-9(B節の終わりに):「大きな疑問が投げかけられている状況を無視して」とあるが,コメントA-3を始めとするここまでの多くのコメントを踏まえて,改めて,「大きな疑問」とはいったい何のことで,それをきちんとした根拠を伴って「投げかけ」ているのは誰で,そして望月氏がいったい何を「無視して」いるというのか,是非,教えて頂きたい.
ここで念のため繰り返すが,Scholze, Stix両氏によるIUT理論への疑義は根拠がきちんと示されておらず(コメントA-6参照),そもそもそういった不完全な批判ですら何かしら数学的な体裁で提示されているのは(私の知る限り)Scholze-Stixレポートのみであって多くの否定的な声はそれに追従しているだけであり(コメントA-4,A-5,A-7参照),更にScholze-Stixレポートに望月氏は反論していて両氏は既に議論から降りている(コメントA-3参照).
「学問上の誠実性」をこれだけ強調するからには,記事Rの公開元も,上記の疑問に誠実に対応してくださるべきである.また,当たり前のことだが,以上のコメントを読んで考え方が変わった部分などがあるのであれば,それを適切に表明して頂きたい.(B-9終わり)

コメントB-10(蛇足):「大きな疑問が投げかけられている状況を無視して」といった殊更に否定的なバイアスのかかった解釈が提示されるのであれば,私としては,ひとつの思考実験として,次のような,殊更に肯定的なバイアスのかかった解釈も提示してみたい:「IUTの正しさが複数の専門家により幾度となく検証され,後続研究も進んでいるにも関わらず,未だに理不尽で無意味な批判に晒されている現状に鑑みて,健全な形での理論の更なる発展と普及を支えるため,京都大学が2019年に数理研の下に「次世代幾何学研究センター」なる機関を設立し,望月氏をセンター長に据えた.」(B-10終わり)

(B節終わり)

コメント(C). 「最近の動き」節,前半部に関して

ここで記事Rでは Webページ IUGC(宇宙際幾何学センター) | ZEN大学(仮称・設置認可申請中) (zen-univ.jp) を参照して,「ZEN大学」における「IUGC(宇宙際幾何学センター)」設立について論じられている.

ZEN大学はドワンゴ創業者の川上量生氏が設立しようとしているオンライン大学。まだ存在しない大学に研究拠点の設置もクソもないのだが、所長が加藤文元(元東京工業大学)、副所長が Ivan Fesenko(西湖大学)。もちろん望月グループの人たちである。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントC-1:比較的どうでもよいことだが,「まだ存在しない大学に研究拠点の設置もクソもない」という,意図が不明瞭な,不要だと思われる言及には,筆者の悪意が感じられる.(C-1終わり)

コメントC-2:記事Rでは「望月グループ」の定義が述べられていないため,「望月グループの内輪になっている」といった方向性の指摘はあまり意味の感じられないものであることは,既にコメントA-7で指摘した通りである.一方,特に弟子筋などではない立派に独立した研究者である加藤文元氏とIvan Fesenko氏が「望月グループ」であるというのは,記事Rにおける「望月グループ」の定義を推し量る上で参考になりそうである.(C-2終わり)

併せて、IUTの発展に寄与した研究者に贈る賞を創設したとのこと。
ZEN大学(仮称・設置認可申請中) (zen-univ.jp)
IUT Innovator Prize と IUT Challenger Prize があり、第1回の Innovator Prize は望月など5名による2022年の論文に贈られた。一応、Fesenkoは賞金を辞退したので、4名に10万ドル贈られる(10万ドルずつではなく、10万ドルを4分割なのかな)。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントC-3:どちらでもよいことだが,賞の内容を確認すると,賞金は毎年一編の「論文に対して」贈られるものであり,従って10万ドルずつではなく,4人で10万ドルである(下記引用参照).

IUT理論とその関連分野における新しい重要な発展を含む最優秀論文1編に、賞金2万ドル〜10万ドルを贈呈するものです。
…(中略)…
受賞した論文を執筆した京都大学数理解析研究所の望月新一氏、星裕一郎氏、南出新氏、Wojciech Porowski氏には、賞金として10万米ドルがIUGCより贈呈されます(Ivan Fesenko氏は賞金の受け取りを辞退)。

「第1回 IUT innovator賞」受賞論文決定 IUGC(宇宙際幾何学センター)より10万米ドルを贈呈 | IUGC (zen-univ.jp) (2024年6月5日アクセス) より引用

(C-3終わり)

ZEN大学(仮称・設置認可申請中) (zen-univ.jp)
こういうのを普通は「お手盛り」というのだろう。IUT一派がカワンゴから金を引っぱって自分たちの懐に入れるためのスキームにしか見えない。この人たち、本当に研究者なんでしょうか?

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントC-3.5(編集上の都合(ミス)で変なナンバリングになっています):「IUT一派がカワンゴから金を引っ張って」とあるが,``カワンゴ''=川上量生氏(ドワンゴ創業者,IUGC出資者)が何か「悪の数学者集団に騙されて」いるといった方向性の主張(と読み取るのが自然に私には見える主張)をするのであれば,それは川上氏に対する侮辱的発言であるように思われる.IUGC設立と賞の創設に関する会見,特に 45:36 からの部分を見ればわかることだが,川上氏はIUT理論の正しさに対して期待感は見せつつも,その姿勢はいたって冷静で合理的である.また,会見 47:38 からの加藤文元氏のコメントからもうかがえる通り,IUGCの理念の核心は,A節で指摘したような異常な(=まともな数学的議論が全然行われないまま膠着した)状況を正常化し,健全な数学的議論による決着を目指すことにある.この他,IUT理論やIUGCに関する川上氏の姿勢については,氏のTwitter(現X)での発言,例えばこちらもご参照頂きたい.(C-3.5終わり)

コメントC-4:「この人たち,本当に研究者なんでしょうか?」等といった,まるで「IUT一派は詐欺師集団」とでも言わんばかりの物言いは,全く実態と整合しない妄想のようなものであり,私としては,到底受け入れがたいものである.

「IUT一派」が具体的に誰を指しているかわからないが,例えば(私の副指導教員と指導教員でもある)望月新一氏と星裕一郎氏は,IUT理論における実績を度外視しても立派な研究業績があり,また現在もIUT理論に必ずしも直接関連しない内容に関しても研究を続けている現役の数学者であることは,少し調べればわかることである.本人のサイト 望月新一の最新情報 (kyoto-u.ac.jp) 星裕一郎の論文 (kyoto-u.ac.jp) を見るだけでも確認できる通り,「論争」の始まった(?)2018年以降も彼らによる論文が公開・出版されており,それらは(場合によっては大変に非自明な数学的内容を含んでいながらも)普通に(=論争の種になったりはせず)海外を含む数学コミュニティに受け入れられている.例えば2023年の(ヨーロッパの,権威ある)研究集会(Oberwolfach)の報告文書 OWR-2023-42 (mfo.de) をご参照頂き,望月新一氏によるIUT理論関連の講演のみならず,辻村昇太氏による(特にIUT理論とは直接的な関係のない)望月新一氏・星裕一郎氏との共同研究の講演や,「IUT一派」に含まれるであろう山下剛氏による講演も,当該文書において報告されていることをご確認いただきたい.

IUT理論の創始者である望月氏に関して言えば,時々「IUT理論の一発屋」かのように語られているのを見かけるが,それは端的に事実に反している.これは業績を詳しく調べるまでもなく,IUT論文公開時点で数理解析研究所の教授であったことから(特にアカデミアの方にとっては)容易に想像可能であろうと思われるが,上述の通り,教授になって以降現在に至るまでのIUT理論以外の業績にも著しいものがある.(C-4終わり)

コメントC-4に関する補足1:記事Rにおいては,「IUT一派」が単に数学的真理を追究しているという(私から見ると最も素直な)解釈が拒否されていると見受けられるわけだが(私としてもそれ自体は別に構わない),そうだとして,一体「IUT一派」の目的が何だと考えているのか,記事からはその詳細が読み取れず,疑問である.
例えばもし彼らが「詐欺師」だとしたら,その狙いは何なのだろうか.地位や名誉だろうか?それとも金銭だろうか?私から見ると,いずれの理解も実態と整合しないことは,明らかであるように思われる.(C-4補足1終わり)

コメントC-4に関する補足2:D節において望月氏の「物言い/言い回し」に関する(インターネット上の,そして特に)記事Rでの批判を取り上げるが,こういう批判が沢山出てくる(ことが容易に想定可能である)ような文章を書いて公開してしまうことは,「詐欺師」的な思考とは正反対である,という(ある種,逆説的な)見方も可能ではないだろうか.(C-4補足2終わり)

コメントC-5:上述の「金銭狙いの詐欺師だとすれば実態と整合しない」という指摘に関連することだが,第1回 IUT Innovator Prizeの賞金は,贈呈の時点で,京都大学数理解析研究所に寄付される見込みであることが公言されていることを指摘しておきたい.記事Rの著者もご理解の上で広義に「懐に入れる」という言い回しを用いたのかも知れないが,私としてはそれには語義上の違和感を覚えるところである.

なお、望月氏ら4氏は、賞金を「宇宙際タイヒミュラー理論やその周辺にある遠アーベル幾何に関連する研究活動を支援するための資金として京都大学数理解析研究所に寄付する」ことを希望されています。

「第1回 IUT innovator賞」受賞論文決定 IUGC(宇宙際幾何学センター)より10万米ドルを贈呈 | IUGC (zen-univ.jp)(2024年6月5日アクセス) より引用

論文が、多種多様な専門性を有する共著者 5 人の共同研究から誕生した経緯が示している通り、宇宙際タイヒミューラー理論および関連した遠アーベル幾何学の発展は、多数の研究者が織り成す研究コミュニティによる協力体制によって支えられており、今後の発展を支 援することの重要性に対する認識から、賞金は、京都大学数理解析研究所への寄付という形で、宇宙際タイヒミューラー理論および関連した遠アーベル幾何学の今後の発展に役立て るために活用することを目指したいと考えております。

望月新一氏による声明文書, 2024-04 Announcement on the occasion of the awarding of the IUT Innovator Prize (Japanese).pdf (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月5日アクセス) より引用

(C-5終わり)

次の箇所に移る.

上で挙げた学問上の誠実性の問題を放置したまま、望月氏のグループがIUTのアウトリーチという名目でこういう生臭いことばかりやっているのを、海外の数学コミュニティの人々はちゃんと見ている。以下の Peter Woit 氏(コロンビア大学、数理物理学)のブログエントリのコメント欄には数学者や数学専攻の学生と思われる読者が常時多数のコメントを寄せており、このエントリにも望月や彼の仲間の言動に対する失望、悲しみ、怒り、憐れみなどが書き込まれている。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントC-6:詳しくは本記事B節をご参照頂きたいが,「上で挙げた学問上の誠実性の問題を放置したまま」とは具体的に何を指しているのか,疑問である.(C-6終わり)

コメントC-7:「こういう生臭いことばかりやっている」とあるが,金銭が絡む話題に「生臭い」と感じられる側面があることは一般的感覚として否定しないが,別に「生臭いことばかりやっている」わけではないことは客観的な事実である.「生臭い」要素が一切見当たらないアウトリーチ活動の一例としては解説論文 ess-lgc-iut-amstex.pdf (kyoto-u.ac.jp) の執筆や様々な(外部に対しても開かれた)研究集会の開催が挙げられる.このような普通のアウトリーチ活動に関しては無視したり歪曲したりしておきながら,一見「生臭い」部分を取り立てて「生臭いことばかりやっている」などと批判するのは,詐欺的な論法である.
また,そもそも,研究者,とりわけ望月氏や星氏のような(IUT理論を度外視しても)大変に優秀な研究者に関して言えば,人類への最大の貢献となる活動は,知の最先端を切り拓く研究活動ではないだろうか?そしてコメントC-4に述べた通り,普通に調べれば分かることだが,彼らの研究活動は活発かつ順調である.(C-7終わり)

コメントC-8:「海外の数学コミュニティの人々はちゃんと見ている。」とあるが,ここで「海外の数学コミュニティの人々」とは誰を指すのだろうか?直後に,「Peter Woit 氏(コロンビア大学、数理物理学)のブログエントリのコメント欄には」とあるが,まさか,Peter Woit氏や,そのブログエントリのコメント欄に集まる(ちょっと A Report From Mochizuki | Not Even Wrong (columbia.edu) をご覧いただければわかる通り,その多くが匿名の!)人々を指しているのだろうか?Peter Woit氏に関しては次に論じるとして,このような有象無象の匿名の声を根拠として「数学コミュニティの人々はちゃんと見ている」等と言うのは,日本で言えば「5ちゃんねる」における論調等を根拠とするのと変わらない,おかしなことである.(C-8終わり)

コメントC-9:Peter Woit氏がどの程度信用に足る人物であるかということに関しては読者各自にご判断いただきたいが,端的に私の立場を表明しておくと,IUT理論関連の文脈において,氏の主張を信頼する理由はないと判断している.その根拠として次が挙げられる:

  • そもそもPeter Woit氏の学問的専門性は数論幾何学ではないばかりか,整数論とも(場合によっては交流があるかもしれないが,基本的には)遠く離れた,数理物理や理論物理のような分野であるように見受けられる.Peter Woit氏が自身の数学的理解に基づいて否定の立場を確定することは,(もちろん原理的には大変な努力によって可能かも知れないし,だからこの点に関しては決めつけてはいけないが)現実的には困難だと想像される.実際,ブログ記事の膨大な内容の全てに目を通すことは現実的な時間的制約の中で大変困難であるものの,複数の記事に目を通した限りでは,Peter Woit氏のIUT理論に関する言明の中に,氏自身の厳密な数学的理解に基づいたものは一切見受けられない.

  • Peter Woit氏の記述にはしばしば,事実を意図的に歪曲しているのではないかと思わされる部分が含まれる.一例になるが,望月氏の解説論文 ess-lgc-iut-amstex.pdf (kyoto-u.ac.jp) の一部分に関する,Peter Woit氏による「まとめ」「感想」は次の通りである.

Essentially the claim Mochizuki is making in these first two sections is that the most accomplished and talented young mathematician in his field is an ignorant incompetent, and that everyone Mochizuki has consulted about this agrees with him.

Peter Woit氏のブログ記事, ABC is Still a Conjecture | Not Even Wrong (columbia.edu) (2024年6月5日アクセス) より引用

まず前提になるが,明らかに,``the most accomplished and talented young mathematician in his field''とはScholze氏のことを指している.一方,(私の英語力不足のためか``his''が誰を指すのか確信が持てないこともあり,)``in his field''が``数論幾何学において''なのか,``Scholze氏の専門分野において''なのか,``(望月氏と流儀の近い)遠アーベル幾何学において''なのか等は読み取れない.これは念のための注意だが,様々な風聞から考えてもScholze氏が大変優れた数学者であることは全く疑いようがないものの,彼が遠アーベル幾何学において特に高く評価される理由がないのは,同分野における研究実績がない以上,当たり前のことである.

この前提のもとでのコメントになるが,望月氏の当該解説論文は意図的に数学的内容にのみ注力したものであり,コメントB-6にも述べた通り,特定の数学者が ``ignorant incompetent'' であるといった指摘は当然含まれていない.``incompetent''という単語は用いられてすらいない.``ignorance''や``ignorant''という単語が何度か用いられているが,それらはIUT理論の文脈で言えば「IUT理論の内容に関するignorance」を指しているのであり,別にScholze氏が数論幾何学全般に対してignorant incompetentであるといった(Scholze氏の大変に優れた研究実績等の実態と整合しない,明らかにおかしな)主張を示唆するものでは一切ない.

(C-9終わり)

コメントC-10(C節の終わりに):C-4で述べた通りであるが,望月新一氏らが普通に数学者として現在も立派に仕事をしているのは,普通に調べればわかることであり,「本当に研究者なのか」といった反語的表現による侮辱は到底受け入れがたい.また何より,「学問上の誠実性」を散々強調している記事Rの内容が,Peter Woit氏の学問上の誠実性に対しては無頓着に見受けられたり,また,無責任な匿名の書き込みを議論の根拠としたりしていることは,大変に不思議なことである.なお,本記事作成にあたり,改めてPeter Woit氏のブログ記事を色々拝見したが,記事Rと驚くほど内容が似通っている,という感想をここに述べておきたい.(C-10終わり)

(C節終わり)

コメント(D). 「最近の動き」節,後半部に関して

記事Rの最後の部分では「独立の研究者による仕事」という題で特にJoshi氏の最近の(連続)論文に関して論じられている.

望月論文は無駄に長く、無駄に珍奇な概念ばかり振り回して読みづらいこと山の如しなので、もう少し既存の数学の言語で書き直してみよう、という試みをしている研究者が数人いる。

その一人である Kirti Joshi(アリゾナ大学)が3月末に、既存の数論幾何の枠組みを使い、望月の系3.12のギャップを埋めて改めてABC予想を証明したと主張する論文を発表した。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントD-1:「望月論文は無駄に長く、無駄に珍奇な概念ばかり振り回して読みづらいこと山の如しなので、もう少し既存の数学の言語で書き直してみよう」とある.これは(直接的には)「記事Rにおいてそれが事実だと断定されている」ということではないのは承知しているが,念のために改めて注意しておきたい.そのような取り組みをしている研究者を含め,「無駄」かどうか,「もう少し既存の数学の言語で書き直してみ」ることが有効かどうかは,理論の数学的内容の理解なくしては判断できないことであるのは,コメントA-6の補足1でも指摘した通りである.(D-1終わり)

記事Rでは当該論文が望月氏とScholze氏の両方から否定されていることの指摘ののち,望月氏の(報告文書 tilt-report-amstex.pdf (kyoto-u.ac.jp) における)書きぶりが批判される.

追記コメントD-1a2(2024/6/10):どの程度意味のある指摘かわからないが,書かないのも不自然だと思って追記しておく.記事Rでも引用されているページ nt.number theory - Global character of ABC/Szpiro inequalities - MathOverflow におけるScholze氏のコメント(の数学的な部分)の内容は,望月氏の当該報告文書での指摘と内容上独立したものではない.むしろ「Joshi氏の議論の数学的正当性を否定する,望月氏報告文書での数学的議論が,数学的に正しい内容である」ことを指摘したうえで,Scholze氏なりの整理を加えたものとなっている.(D-1a2終わり)

MO での Scholze の指摘は穏やかだが、望月の文章は相変わらず太字と斜体を多用して相手を口汚くこき下ろす文体。「Joshi論文はまるで ChatGPT のハルシネーションのようだ」とか何とか。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントD-2:「太字と斜体を多用して相手を口汚くこき下ろす文体」とあるが,一般論として,「太字と斜体を多用」していることは(個人的に不快に思う等の感想はあり得るかも知れないが)特に客観的な否定的評価につながるべきものではなく,それは文章が「相手を口汚くこき下ろす文体」かどうかという問題とは全く無関係である.こういった体裁の部分までも批判の対象とするのは,有害な論法であり,(私はこの語彙に関する専門的知見をもっていないが,素朴な感覚としては)「トーンポリシング」という語彙を連想させる.(D-2終わり)

追記コメントD-2a3(2024/6/9):以下のコメントD-3で触れられる「ハルシネーション」のくだりについては「罵倒」に該当し,それを擁護することは不適切である,とのご指摘を頂いた.私としてはそれが「罵倒」に該当するという認識をもっていなかった.軽率な記述であったことを反省し,ここに深くお詫び申し上げる.コメントD-3の主張の本質部分(最後の太字部分)に関しては同じ気持ちであるものの,ハルシネーションのくだりに関しては,記事Rの批判はもっともであり,望月氏はもっと適切な表現を模索した方がよかった,と訂正する.(D-2a3終わり)

コメントD-3:(2024/6/9追記:このコメントの内容のある重要な部分については私が間違っていたので,追記コメントD-2a3をご覧いただきたい.)一般論として,「相手を口汚くこき下ろす文体」は,決して肯定されるべきものではない.従って,多くの人にそのような印象を与えてしまうのであれば,「望月氏はもっとよい書き方を模索すべきであった」というのは,それ自体は,妥当な感想のようだと感じられる.一方,(実際にそうであるかは私には現時点では判断できないが,)もし本当にJoshi氏の論文の内容がChatGPTのハルシネーションのようであるならば,それを指摘することが「相手を口汚くこき下ろす」ことに当てはまるかどうかは,大いに疑問である.そしてこの観点も踏まえると,実際に報告文書を通読した私から見て,どこに「相手を口汚くこき下ろす」ものと断定可能な表現があるのか,全くの謎と言わざるを得ない.(「相手を口汚くこき下ろす」ものかどうかは別として問題を感じる記述はあるが,それについてはコメントD-4で論じる.)
数学者の読者は是非,(あなたがIUT理論の正しさに懐疑的な方であっても,いったん)望月氏の視点に立って想像してみていただきたいのだが,自身が長い時間と大変な労力をかけて築き上げた理論が,様々な理不尽により数学者社会に受容されていない状況にあったとしよう.そこで,まるで自身の理論の数少ない理解者の一人であるかのような顔をした数学者が,「当該理論を理解した上で誤りを修正した」等と主張して発表した内容がもし本当にChatGPTのハルシネーションのような全く支離滅裂なもので,それがまるでさも「混乱を救う救世主」であるかのように「まともに」受け止める向きまで生じてきていたとしたら,「全く支離滅裂」という方向性の主張は発信せざるを得ず,またそれがどのような意味でどの程度支離滅裂であるかの記述は,特に「無駄な攻撃」に類されるものでもないのではないだろうか?(2024/6/9追記:これは私が間違っていた.私は「ハルシネーション」のくだりが「罵倒」に該当するという認識をもっていなかった.深くお詫びして,「ハルシネーションのくだりに関しては,記事Rでの批判は適切であった」「望月氏はもっとよい表現を模索すべきだった」と訂正する.)
記事Rに限ったことではないが,望月氏の当該報告文書に対する指摘には,「望月氏の報告書は,言い回しのレベルを超えて,内容上も言い過ぎに違いない」という(無自覚な)思い込みが背景にあるように思わされることが多い.(2024/6/9追記:これは今もそう思っているが,ハルシネーションのくだりに関しては,確かに表現が不適切であると考え直して反省している.)読者には,望月氏の報告文書が「相手を口汚くこき下ろす」不適切なものと断定可能かどうか,改めて自身の目で見て判断して頂きたい(ただし,コメントD-4も参照).(D-3終わり)

コメントD-3の補足:感想になるが,中野太郎氏の当該記事に通底する,否定的なバイアスのかかった記述こそ,望月氏やその周辺の人物を不適切に「こき下ろす」ものであると感じている.同じ(実質的には偏った)意味内容を扱う記事を書くとしても,もっと見かけ上はまるで偏っていないかのような書き方をすることは可能だと思うのだが,そうしていない(見るからにバイアスがかかった書き方である)にも関わらず,当該記事を普通に公平なまとめ記事かのように受け止めていらっしゃる方がインターネット上に多数見受けられたことは,不思議で残念なことである.(D-3補足終わり)

Joshi の論文で重要な定理の番号がたまたま「定理 9.11.xx」となっていることを取り上げて、「”9.11″ なのは偶然なのか、それともある種のレトリックかユーモアなのか」などと心ないイジりをしている箇所もある。
… (中略,望月氏の報告書からの引用)…
逆のケースを考えてみれば分かるが、日本人が書いた論文への反論に、「ところで君のここの定理番号が 8.6 なのは原爆投下の日付と同じだけど、なんか意味があるのかな」みたいな冗談が混ざっていたら、果たしてどう思われるだろう。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

…(前略)…
[where we note that it is not clear whether or not the number “9.11...” assigned by the author to these key results in [CnstIII] was purely coincidental or a consequence of some sort of sense of rhetoric or humor that lies beyond my understanding].

望月新一氏の報告文書, tilt-report-amstex.pdf (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月6日アクセス) より引用

コメントD-4:完全に妥当な指摘である(2024/6/11追記:追記コメントD-4a5もご参照ください).望月氏のこの部分のコメントは,文脈上も不要かつ内容としても大変不適切に見えるものであり,私としても強く否定的な感想を抱いているものである.(D-4終わり)

コメントD-4補足:望月氏の``9.11''当該記述はおかしなものであり,私としては擁護する気は一切ないという大前提の上でのコメントになるが,一人の人の発信の内容の中に,場合によっておかしいところがあったり,また別の箇所,別の場面では全く正しかったりする等,その「正しさ」が一様でないことは,普通によくあることである.「上述の内容において望月氏の物言いが明らかにおかしく,記事Rの指摘が明らかに妥当である」からと言って,「だから望月氏はおかしな人,記事Rの内容はまともなもので,望月氏に対して強く否定的なこの記事の内容も,大体,または,全て正しいんだ」といった方向性の単純化された受け止め方がされてしまうとすれば,おかしく,また残念なことである.なお,問題の記述は(一切肯定できないことは大前提としても)IUT理論の数学的成否とは一切関係がないことにも(流石に多くの読者はそれは分かっているとは思うが念のため)改めて注意しておきたい.(D-4補足終わり)

追記コメントD-4a5(2024/6/11):コメントD-4で扱った記述に関する望月氏の擁護派(?)の読者から「``9.11''に関する言及の不適切性を表すたとえとして,``8.6''を持ち出すのは不適切なのでは」といった方向性のご指摘を頂いた.
一般論として,比況的記述においては,それが「疑いの余地なく100%適切」というのはおそらく論理的に不可能で,物事をある粗いレベルで考えて同一性を見出す必要がある.私は(もともと``9.11''の望月氏の記述に関しては否定的な感想をもっていたこともあってか)きわめて粗いレベルでその同一性(比況の妥当性)を判断して,深く考えずに記事Rの指摘における``8.6''を持ち出した比況的記述が妥当だと判断してしまっていた.現時点では(そしておそらく,向こうしばらくの間は)またこれらの歴史についてきちんとした勉強を深めることができず,従ってその妥当性は総合的には私の能力では判断しきれないと感じているので,何かここで意味のあることは申し上げられないが,私の浅慮に対して不快な思いを抱かれた方にはお詫び申し上げたい.
一方,しかしながら,仮に記事Rにおいて``8.6''を持ち出していたことが妥当でない比況であったとしても,望月氏の``9.11''の記述が適切とは言えないのはそれとは独立した話である.(D-4a5終わり)

まあ望月氏はこういう人なのだと言えばそれまでだが、科学的議論の場に平気でこういう物言いを混ぜ込む態度が、彼の仕事を真剣に評価する気持ちを萎えさせ、IUTが見捨てられる一因になっている。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントD-5:コメントD-4に述べた通り``9.11''のくだりに関しては決して肯定できるものではない.また,一般論としては,たとえ何か内容上は「対立」のような構造があるとしても,「喧嘩」のような雰囲気ではなく友好的で穏和な空気感の下での対話が望ましいのも,当たり前のことである.

一方,記事Rの論じ方には(無意識の?)バイアスが複数見られることも指摘しておきたい.
まず,「平気でこういう物言いを混ぜ込む態度」とあるが,これだけ(ここまで指摘してきたように,多くが理不尽で無意味な)批判に長い間晒され続けている現状にあって(※「理不尽で無意味」かどうかは別にしてその状況自体は記事R著者のような「否定的」側でもよくわかっているはずのことである),なぜ「平気で」の所業だと断定できるのか不思議である.
また,「彼の仕事を真剣に評価する気を萎えさせ」とあるが,「仕事を真剣に評価」というのは非常に重い言葉であり,これは「元々は,IUT理論の原論文を精読して,数学的に正確な理解を目指し,真剣にその成否を評価しようと本気で思っていたけど,でも,彼がこういう物言いをするから,萎えて,やめた」という方向性に読める.つまり「彼を(陰ながら)応援する気持ちを萎えさせ」等とは全くレベルの違う言葉なのであって,根拠を示さずに使ってよい表現ではないように思われる.「揚げ足取り」のように思われるかもしれないが,こうした言葉を曖昧に使うことも,読者の(無意識の)混乱を招きうる部分であると考えている.
更に,「IUTが見捨てられる」とあるが,数学の理論が「見捨てられる」とはどういう意味の言葉なのか,疑問である.この言葉のニュアンスから考えると,まるでIUT理論を無視している側の数学者がIUT理論や望月氏より「偉い」かのようであるが,(もしそのようなつもりであれば)そのような上下関係は記事R著者が勝手に見出したものである.いずれにしても,不適切な言い回しである.
最後に,「一因となっている」とあるが,確かに,(数学理論の正しさと著者の人格や挙動は無関係なので,その意味ではおかしな話だという面もあるものの,人間心理としては)望月氏の物言いが理論への否定的印象を加速させている面は否めないと感じる.一方,読者には,望月氏の今回の特に過激な(?)物言いは,まず先に社会的状況が大変に悪化して,その後で生じているものである,という時系列にも注意してもらいたい.また,改めて,コメントD-3の内容にも注意してもらいたい.(D-5終わり)

IUTを救いたいのなら(今から救えるとも思えないが)、いい加減気づいた方が良いのではないか。本当に、望月氏とその取り巻きグループにはさまざまなレベルでの不誠実が多すぎる。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントD-6:(2024/6/9追記:追記コメントD-2a3に関連して,このコメントにおける「コメントD-4」は「コメントD-3やD-4」に置換してお読みください.)これまでの色々な指摘を踏まえて改めて考えて頂きたいが,記事Rで言及される「不誠実」に,コメントD-4の箇所以外にどのような実質的内容が残っているのか,疑問である.なお,コメントD-4の箇所に関しては,決して軽視するつもりではないが,IUT理論の数学的正しさとは全く関係がないことは当たり前のことである.それから,単なる整理の仕方の問題であって本質的な指摘・反論ではないという意見もあるかも知れないが,(コメントD-3や)コメントD-4のような「物言い(言い回し)」の問題に関しては,それを「誠実性」の問題にカテゴライズすることには,語義上の違和感を覚えるところである.(D-6終わり)

そこから目をそらし、「IUT スゴイ! 日本スゴイ! 海外の連中には難解すぎて凄さが分からないんだって!」とか「無視せずもっと議論すべき」みたいな薄っぺらいことを取り巻きやファン連中が言ってもね、まともな人たちはもう見透かして冷めきってるわけですよ。

しぶんぎ社,「 最近の IUT 界隈 - tar0log(4bungi.jp) 」(2024年6月5日アクセス)より引用

コメントD-7:まず,念のためだが,日本人である望月氏の研究活動が30年以上日本で行われてきたことや,また,ブログ記事 「心ある壁」を構築し、維持することの重要性 | 新一の「心の一票」 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) から読み取れるような氏の個人的事情から考えても,氏の研究の「スゴイ」側面が「日本」と完全に無関係であると即時に断じるのはかえって不適切である.また,これに関しては別に私は肯定も否定もしないが,例えばスポーツの世界大会で日本のチームが優勝したりすると喜ぶ人が多いことなどを念頭におくと,それと同様に,日本から大きく優れた数学理論が出た場合にも(数学の中身が分からなくても)喜ぶのは普通のよくある国民感情だと思われる.数学の研究には税金が使われてもいるので,なおさらである.
一方,一般論としては,数学理論を国家と安易に結び付けることに大きな違和感を覚えることには,賛同するところである.数学的正しさそのものは,国家を超えて万人に対して開かれたものであるし,また,もし「IUTスゴイ」場合,それに伴って「スゴイ」のは日本ではなくて(まず第一には)創始者の望月新一氏なのは,当たり前のことである.

「取り巻き」とは記事Rにおける「IUT一派」「望月グループ」の同義語または類義語であろうと推察されるが,そこに属する人は確かに(そして,ある意味では,当然)「IUTスゴイ!」といった方向性の主張は発信しているかもしれないが,IUT理論に関して「日本スゴイ! 海外の連中には難解すぎて凄さが分からないんだって!」という方向性の(明らかに非数学的で,実態とも整合しない)主張を発信しているのは一度も聞いたことがない.むしろ望月氏としては「普通に健全な数学的議論を行えば,わかるはず」という方向性の考え方であることは,既に指摘した通りである(コメントA-6補足3参照).
念のためだが,「IUT一派」には,関連論文著者だけに限定してもFesenko氏,Porowski氏という2名の外国人研究者が含まれている.(D-7終わり)

コメントD-8:「無視せずもっと議論するべき」に関しては,そもそもコメントA-3に述べたScholze, Stix両氏が一方的に議論から離脱した経緯を考えても,当たり前のことだと思われる.一方,この「無視せず」とは「厳密な数学的理解に基づいた数学的議論に参加し」という意味である.肯定にせよ否定にせよ,厳密な数学的理解を目指さない,単なる話のネタ(タネ?)のように消費されるくらいであれば,そういう態度/専門性の方々からは無視してもらっても別に構わない,というのは,(別にみんなが必ずそう思うというわけではないし,例えば望月氏らがどう思っているのかも私は知らないが,少なくとも)それなりに普通の数学者の態度だと思われる(ただし,下記補足参照).例えば,記事Rは,根拠の希薄な記述で,殊更にIUT理論に関して否定的な内容となっているが,そのような記事を書く方は,その代わり単に無視してくれた方が余程よかったように感じる(※私自身は論文著者等の狭義の「IUT一派」ではないので,本来この文脈では意見を表明する立場にはないが).(D-8終わり)

コメントD-8補足:上述のコメントD-8の最後から2番目の一文は決して非専門家/非数学者の一般の方々を軽視しているわけではなく,むしろ私は個人的には(特に国立大学の大学院に在籍している身分としては),非専門家の方々にも広く研究の価値等についてご理解頂くことは本質的に大切なことだと考えている.また,専門家/数学者についても,まずは(「話のネタ(タネ?)」レベルであっても)少しでも興味をもっていただくことが入り口として大切であるのも,当然である.上述のコメントD-8は,記事R中の「無視せずもっと議論するべき」がどういう文脈の主張として想定されているか,を念頭に置いてのものである.(D-8補足終わり)

コメントD-9(D節の終わりに):「まともな人たちは見透かして冷め切っている」とあるが,普通の平均的な「まともな人」の感覚は,IUT理論が正しいかどうかは(自分の厳密な数学的理解に基づかない以上)分からない,ということである.もちろん,色々検討した上で最終的に否定的な印象を持つのも有り得ることなのかも知れないが,既に指摘してきた通り,記事Rの場合,論じ方に数多くの問題がある.そして,こういった根拠の希薄な既存の否定的論調を鵜呑みにして,「見透かして冷め切っている」人が増えてしまうのだとすれば,それは大変におかしく残念なことである.(D-9終わり)

(D節終わり)

ここまでお読みになった読者は,ここで「要約」節に改めて目を通して頂くと,整理の役に立つかもしれない.

感想

私自身,IUT理論に関する不幸な現状の改善のために多少なりとも役に立ちたいと願って,理論の勉強(に向けた,準備論文や解説論文の勉強)等にも,その他の通常的な大学院生としての活動に並行して時間を割いているところである.本来ならば,こうした数学的活動のみに時間を割いていたいところを,大変に偏った内容の記事Rが「バズって」しまい,比較的アカデミアに近い方々にまで,まるでそれが「まとも」な記事であるかのように受け取られているのを観測してしまったがゆえに,このような(「数学的」というよりは「社会的」という意味合いの大きい)反論記事(?)の作成に時間を使うという(愚かな?)選択を動機づけられてしまったことは,大変残念なことである.(いざ書き出してみると,記事Rには「ツッコミどころ」が多過ぎて,本記事の執筆は,執筆開始時点での想定を大幅に超える,まことに骨の折れる作業となった.)

また,単に時間的コストの問題だけではなく理念としても,私は,IUT理論に関して自身の詳細な理解が確定するまでは,関連する自身の活動も純粋に数学的な側面にのみ注力したいと思っていた.その意味でも,この記事の執筆に至ったことは,大変にイレギュラーなことである.

私の記事にそんなに大きな影響力があるとはとても思えないので,今後もIUT理論に関する,根拠の希薄な,粗雑な否定的論調の記述はインターネット上に無数に生じると想定される.それに対していちいち反応していては,肝心の数学の方が進まなくなってしまうため,私としては,こうした「社会的活動」は向こうしばらくは控えておきたいと考えている.

とはいえ,本記事に関して言えば,書いてしまった以上,多少の反応(意見や感想)は頂くことを想定している.(様々な「想定」のうちで最も望ましいのは,記事Rの発行元が,記事を撤回または修正しその旨の声明をお出しになる等,適切に反応・対応してくださることである.)上記の理由から,そうした意見や感想等に対する対応に多く時間を割くことは適切ではないと考えているが,これは批判を一切受け付けないといった方向性の主張のつもりでは全くなく,むしろ,私の書いた記事におかしなところがあれば,是非,それを教えていただきたい.
時間的制約等の現実的な問題によりその完遂が叶わないこともあるかもしれないが,理想/原則としては,(まさにコメントA-4補足のLepage氏の例のように)意見の対立する者同士でも,友好的で穏和な空気感で,丁寧な姿勢で,互いに建設的な議論を目指すことが,大切なことだと考えている.

Nevertheless, despite his initially quite skeptical/negative position, I think that it is also important for you to know that our discussions (between the summer of 2017 and the fall of 2021) were carried out in a completely **orderly**, **rational**, and **friendly* atmosphere.

望月新一氏が送信したメール内容の本人による記録文書, reopen-e-mail-2022-06-30.pdf (kyoto-u.ac.jp) (2024年6月7日アクセス) より引用

2024/6/11追記:詳しくは 別の記事 「記事非公開の理由(特に,記事のある側面に関するお詫び)と今後の対応|Reiya Tachihara (note.com)」をご参照いただきたいが,(規模こそ小さかったとはいえ)図らずも「インターネットリンチ」的構造の扇動者・加害者になりかけたことは私にとって非常に心苦しい経験であった.また,私自身,いわゆる「実名・顔出し」(?)の状況で,当初の予想より遥かに早く・広く注目を浴びてしまった.幸い私に対しては「暴言」「誹謗中傷」等の強烈な否定的反応はほとんどなかったものの,ただ注目を浴びるというだけでも(「覚悟の上」であったにも関わらず)想像よりもしんどい思いをしたことであった.
海外を中心とするインターネット上の無根拠で理不尽な批判に晒され続けてきた望月新一氏の気苦労は計り知れるものではない,とは以前から感じていたが,特に上述のようなここ2日間の自身の経験からは,より一層それを実感することとなった.(氏を副指導教員とする学生の身で大変僭越な物言いであるが)同情を禁じ得ないものであり,一方でまた,そのような状況下でも立派に研究者として数学的真理の探究を続ける氏の姿勢については,深く尊敬してやまないものである.

編集履歴

2024年6月9日
・自明な誤植修正.
・コメントD-2とコメントD-3の間に追記D-2a3を追加(私が間違えていた部分に対する訂正とお詫び).
・上述の変更を「要約」節等に反映.
(私自身の間違いを明示的に記録に残すため,この点に関してもとの記述の削除はいたしません.)

2024年6月11日
・本記事の記述から,言及下の記事の著者名を削除.それに伴う様々な表現上の軽微な変更.
・誤植修正や説明の明瞭化等の軽微な変更.
・「追記D-2a3」の名称を「追記コメントD-2a3」に変更.
・コメントD-1とコメントD-2の間に追記コメントD-1a2を追加(Scholze氏のJoshi氏への指摘の内容について).
・コメントD-4とコメントD-5の間に追記コメントD-4a5を追加(「比況の妥当性」の一般論と,私がある比況の妥当性について浅慮であったことに対するお詫び).
・追記コメントに伴う変更を「要約」節等に反映.
・「感想」節に最後の段落を追記.

2024年6月17日
・表現の軽微な変更.

2024年6月23日
・自明な誤植修正.

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