思想強いよなお前

 私が何かものを話していると度々言われる言葉「思想が強い」。
 おそらく言っている本人は少なくともそれをプラスの言葉としては発していないと思う。日本人という控えめな性格の民族観にも由来すると思うのだが、周りと比べて尖っている。それは良くないことだと。そう言いたいのであろう。しかし、私はこの言葉は褒め言葉として受け取ることにしている。
 ロシアはウクライナへの侵攻をやめないし、台湾は中国の危機に瀕している。欧米諸国では移民問題により政策の転換もしている。きな臭い世の中だ。第三次世界大戦もあと一歩。いや、水面下ではもう始まっているのかもしれない。そんな混沌とした世の中で自己を守っていくのに弱い思想のままで大丈夫だろうか。他の国から言われたことを言われたとおりにこなし、他の国からの移民を素直に受け入れ、中国が侵略戦争を仕掛けてきたとしても「人を殺すのは駄目だ」と従順に土地を譲る。思想が弱いとはこういう受け身で、利用されることを拒まない状態であると考える。
 何も政治の話だけではない。大学受験においては、女子枠という性差別的な政策が推し進められ、指定校推薦という出来レースも繰り広げられている。まともに勉強し、愚直に突き進んで一般受験を乗り越え、難関大を目指そうとしている人の努力を真っ向から否定する行為だ。東大、京大、早慶等と並べられるが、どう考えても東大、京大と早慶の間に高くそびえ建つ鋼鉄の壁があるのは明らかだろう。そして東大と京大の間にも同じような壁がある。だが、世間はそれを是とする。早慶生が頭のいい存在であることは疑いようのない事実だ。しかし、そこに入るために必要な努力の差を考えれば、同列に並べて語るなど畏れ多い行為なのである。しかし、こういうことを言うと思想が強いとか、学歴厨とか言われるのだ。否、決して思想は強くない。むしろ当然の捉え方をしているだけであり、よく考えず、「(漠然と)頭が良い」という印象だけで同じ括りにしてしまう世間が間違っているのだ。よく自分の頭で考え、正しく評価をした結論。それが強い思想といわれる。
 別の例も出そう。「勉強ができないなら芸術やスポーツなどの道を目指すべきだ。勉強なんて二の次でいい。最悪やらなくていい」と言おう。間違いなく、思想が強いと言われるだろう。しかし、よく考えてみてほしい。特に公立中学を経験した者ならわかると思うが、本当に勉強ができない人は存在する。九九がギリギリわかるぐらいで、いや、わかっていないのかもしれないが。移行や簡単な足し引き算。英語のbe動詞や社会の暗記。どれも絶望的にできない人がいたであろう。そういう人に日本は大卒じゃないとまともな職に就けないからと言って、Fランクだろうと大学まで無理して通わせるのはどう考えても生産的でないことはわかるだろう。その本人が理解不能な勉強に費やした時間を他に使えば何ができたかを考えてほしい。もしかしたらピアノのセンスが抜群にあり、プロのピアニストになれたかもしれない。もしかしたら走る才能があり、100m9秒台に到達したかもしれない。勉強に確実に才能がないのに、大卒でないと、少なくとも高卒じゃないと。と言って才能がない分野を走らせるのは酷い話だろう。そういうことをすると、勉強ができない。僕は才能がない。僕は何もできない。と尊厳が失われ、本来開花するはずだった他の才能の芽を枯らしてしまうかもしれない。そうなってしまうくらいなら勉強なんかさせずに、他の才能を見つけようとさせるのが一番いいはずなのだ。だが、現実はそうではない。それゆえ「勉強ができないなら芸術やスポーツなどの道を目指すべきだ。勉強なんて二の次でいい。最悪やらなくていい」という言葉が出てくるのだ。私個人的には論理に矛盾のない真っ当な意見のつもりだ。しかし、これは思想が強いと言われる。
 「思想が強い」という言葉は、現実を正しく直視せず、現実を疑うことを放棄し、現実から逃げた人から出てくる言葉なのだ。だからこそ「思想が強い」と言われることは褒め言葉として受け取るようにしている。少なくとも私は現実を観て、自分なりに答えを出し、それを説明しただけだからだ。むしろ「思想が弱い人間というのは、現実を直視せず、考えることなく周りの常識を受け入れた、ただ流されるだけの受動的な人間。若しくは、現実を観て考えた結果、どこにも疑問を抱かなかった問題意識の低い、危機管理能力のない人間なのだ」と。こういうことを言ったらまた、「思想強いよなお前」と言われそうなものだ。

いいなと思ったら応援しよう!