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「れいわ新選組」埼玉戦記

「れいわ新選組」を支援して戦い、
今はその「れいわ新選組」と戦う、
埼玉の或るボランティアたちの記録


序章 その1 ~#ポス活してますか?~

2019年
れいわ新選組結党後初の参議院選挙をボランティアとして少しだけ手伝った私(仮名アン)は、なんとかこの熱狂的なムーブメントを広げたい思いで次の活動方法を考えていた。

私自身は子どもの頃から政治には関心があり、投票権を得てからどんな小さな選挙も一度も棄権せず、その都度候補者を自分なりに吟味して投票してきた。
そのせいなのか、山本太郎代表の街宣動画を見て涙することはなかったのだが、ひとりまたひとりと発表される参院選の個性的な候補者を見ているうちに、閉鎖的なこれまでの政党政治を打ち破る、まるで水滸伝の「梁山泊」のような存在だと勝手に思ってワクワクしてしまったのだ。

そんな時、Twitterで見つけたのが「れいわ埼玉ポスターチーム」のボランティア募集だった。
当日、川口市の指定された場所に行くと、そこにはこのチームのリーダーのSさんと東京から来たFさん、私と同じさいたま市のIさんが居た。女性ばかり4人で2組に分かれてのポス活は、まるでサークル活動のようで楽しかった。

その後は主に同じさいたま市に住むIさんと行動を共にして市内を中心にポス活を続けた。

「埼玉ポスターチーム」の仲間はどんどん増えて、最盛期には30人を超えていただろうか。
埼玉南部だけでなく、北部や西部にも広がって、それぞれが週に1〜3回の頻度で活動していた。

2020年
年初には大宮のカラオケ店のパーティールームを貸し切り、埼玉中のポスボラが集まって新年会を開くなど楽しかった。

ポスター貼りは飛び込み営業と同じで、辛い修行のように思われがちだが、たとえほとんどポスターは貼れなくても、同じ「れいわ」を応援する仲間との活動は楽しかった。
このポスターチームで、ダイアナさんやキャサリンさんとも出会った。
(これらの仲間は後に2022年の参院選で「れいわ」の埼玉の候補者から一緒に被害を受けることとなる)。

ポスター活動の際に、時には
「山本太郎⁉︎天皇陛下にお手紙を渡すとは何ごとか〜!💢」とお爺さんに追いかけられたり、
「あなた分かっているの?💢斉藤まさしが〜!北朝鮮が〜!」と立派なお宅のマダムに追いかけられたり、いろいろ面白い体験もした。

しかし決してネガティブな気持ちにはならず、少しずつ世の中を変革しているような、そんな気持ちに酔っていたのだと思う。

ただ、ポスター貼りの活動を繰り返していくうち疑問に思うことも出てきた。
それは、最初に「れいわ」でポスター貼りを始めた人たちのメソッド通りに〈ゼンリンの住宅地図をコピーしてすべての戸建ての呼び鈴を一軒一軒押していくやり方〉だった。

メンバーの都合で平日の昼に活動することが多かったが、訪ねても訪ねてもほとんどが留守か居留守で、せっかく返事があってもインターホン越しに「結構です!」の一言で断られてしまう。
いくら「ポスター貼りの本当の目的はポスターを貼ることではなく、住民と話して「れいわ」を印象付けること」と言われても、9割以上はまったく会話もできない。

100軒に1軒くらいは貼らせてくれることがあるのだが、そのほとんどはインターホンのないお年寄りのお宅で、玄関を開けてくれたり、たまたま庭先に居るのを見つけて話しかけた結果だった。
時にはこちらの言っている内容を本当に理解されているかわからないような状況(お耳が遠かったり話が噛み合わなかったり)でも、簡単に「貼っていいよ」と言ってくださるので貼るのだが、後でその家族から苦情が来て剥がしに行くケースも多かった。

ある程度支持してくれているお宅にめぐり逢って貼らせてもらえたのは、私の場合は500軒に1軒以下だったと思う。
中には「YouTube見てる。応援してるけどポスターは貼れない」などと断られるケースももちろんあった。

その上、2~3人で1回に訪問できるのは私たちの場合、100~150軒が限度だった。
党本部に頼めばポスターはいくらでも無料でくれたが、チラシは少ない数しかもらえないため、ピンポンした家に入れるだけで終わってしまうので、活動のついでにその近所の集合住宅にポスティングをすることもできない。

経験を重ねるうちに、これではいくらやっても「れいわ」が広がる効果があるとは感じられず「全部の家ではなく表通りの目立つところで、貼らせてもらえそうな家(経験でなんとなくわかるようになっていた)だけに声をかけて、また次の駅に移るのはどうか?」と提案したこともあったが、その当時の先輩ボランティアにその意見が受け入れられることはなかった。

ポスター貼りの辛さではなく、やり方の効率の悪さが虚しくなって「仕事が忙しいのを理由に少し距離をおこうかな」と考えていたとき、新型コロナの流行が始まった。
衆院選の候補者が少しずつ発表されている頃だった。
コロナの影響がどんどん広がって、ポスター貼りや街宣活動は自粛されていった。


序章 その2 ~波乱の東京都知事選~

そんな頃、山本太郎代表が都知事選に立候補すると発表された。
ほとんどのボランティアは山本代表の決断を歓迎しているようだったが、元から宇都宮氏や共産党も支持していた人たちは納得が行かず、れいわのボランティアを辞めていった。活動歴が長いリーダー的なボランティアにもそういう人はいた。
私たちの埼玉ポスターチームのリーダーだったSさんもそのひとり。
私たちに「辞めます」と宣言した。波紋はあったが引継ぎなどは丁寧にしてくれる方だった。(現在は共産党の市議をされている)。

私はコロナのせいで仕事が無くなり、時間がたっぷりできたこともあり、ダイアナさん、Iさんら埼玉の一部のボランティアと共に、東京のボランティアセンターや代表の街宣を手伝いに通った。
開票当日はボランティアセンターで迎え、20時にゼロ打ちの厳しさを味わった。

序章 その3 ~O氏の除籍問題とTさんとの出会い~

都知事選が終わってすぐ後、参院選の候補者であり衆院選にもれいわから立候補する予定だったO氏が、自身の動画で語った内容が問題になり、れいわ新選組としてどう対処するのか、党員(この場合、代表と議員と衆院選の予定候補者)で話し合いがもたれることが発表された。
この問題の詳細については、とても長くなってしまうのでここで説明することは避けるが、最終的にYさんとTさんの二人は反対したが、それ以外のすべての党員の賛成によって、O氏を除籍とすることが決定した。

この決定はボランティアの間に大変な波紋を呼んだ。
埼玉ポスターチームでもLINEの通話機能を使っての話し合いなどがもたれたが(当時ZOOMはまだ使えない人が多かった)大多数はこの決定に納得していなかった。
元々O氏の支持者でもあったIさんは、悩みに悩んだようだったが、ボランティア活動を辞めてしまった。
特にO氏を支持していない人でも、除籍決定のプロセスなどに問題があると考える人は多かった。
結果として、ポスターチームで動いていたボランティアの3分の2が、完全にれいわ支持をやめるか、消極的に支持はしても活動しない状態になってしまった。

私自身も除籍の決定には反対の立場だったが、れいわの政策や理念にはまだ期待を持っている状態だった。
この決定に反対した二人の党員のうちのひとりが埼玉2区(川口市)で立候補する予定のTさんだったことで「Tさんだったら応援できるかも」と思った私は、TさんとボランティアとのZOOM会議に参加することにした。

画面越しに話したTさんの第一印象は「非常に頭はいいが、お世辞などまったく言えない、嘘がつけない人」というものだった。
また、何らかのボランティアとして協力したいと言っても「その対価を払えないから」という理由で遠慮をするような人だった。

そこで「私たちがれいわを応援したいから、自分のために手伝うんです。何をしたら一番いいですか?」とTさんを説得した。
「だったらポスティングをお願いしたいんです」とTさんが言った。
ポスター貼りばかりしていた私たちには意外な答えだったが、その場でポスティングを引き受けることを約束して、私たちの活動の舞台は川口に移った。


序章 その4 ~衆院選の戦い~

真夏の暑い時期に私たちのポスティングは始まった。
実は「私たち」と言ってもその数はとても減っていた上に、川口は遠くて来られない人もいて、一番最初から私と一緒にポスティングをしてくれたのはダイアナさんひとりだけだった。
そして、コロナ禍ということもあり、集合せず単独で自転車で川口まで行ってポスティングすると言ってくれたのがNさん、ほぼ3人でスタートした活動だった。

ダイアナさんと私は東川口から活動開始。
住宅密集地ではあるが、一度にひとり700枚程度配ると頭の先からつま先まで汗でビショビショになる。
そこで切り上げて、また2~3日置いて次の区画をポスティングする繰り返し。
その活動をLINEなどで報告するうちに、徐々に協力してくれる人が増えてきた。
3人、4人、5人…。
この頃に田島さんの事務所を訪問してくれたヴィクトリアさんも、積極的にポスティングしてくれるようになった。
ついには川口市内だけで23万枚程のポスティングを終えていた。

2021年
衆議院は参議院と違って、いつ選挙があるかわからない。
予測したより長い準備期間が続き、私たちのポスティング枚数はどんどん増えていった。
れいわ新選組が小選挙区で勝ち上がるのは難しいということはTさんも私たちも十分わかっていたので、ポスティングしてもらう範囲を比例の北関東ブロック全体に広げることにした。
ポスターチームに入っていた遠くに住むボランティアも、その地元のポスティングに協力してもらえるようになり、ポスティングの枚数はどんどん増えていった。
最終的には衆院選までに北関東ブロック全体で約100万枚のポスティングを達成することができた。

この間、党本部が推奨していたのは、ポスティングではなくポスター貼りだった。「ポスティングは選挙直前でないと効果がない」と主張する幹部もいたので、疑うことなくそれを信じている人も多かった。
「Tさんのチームはポスターを貼っていない」
こういう理由で批判されることも多かったため、私たちはポスティングしながら『貼れそうなお宅を見つけたら声をかける』作戦で、ピンポンした20軒に1軒くらいの割合でポスターが貼れるようになり、その成果をわざとTwitterにアップしたりした。

私たちがポスティングをしている間、Tさんはどうしていたのかというと、時間があれば徹底して辻立ち街宣をしていた。それは駅頭に限らず、ショッピングセンターやスーパーマーケットの近くなど、その時間帯に一番人が多そうなところを狙って、Tさんひとり、または手伝ってくれる20歳のWくんと二人で身軽に動き、約1,000回以上もの街宣を繰り返していた。
あるボランティアさんがポスティングしてるとき、偶然会った中学生に「このTさんって知ってる?」と聞いたら「あ、アリオ(川口のショッピングセンター)に居る人だ」と答えが返ってきたほどだった。
最後の方には、Tさんと一緒に車で遠くの団地に行き、Tさんが街宣している間にボランティア3人でポスティングをすることを繰り返した。

Tさんは当初は埼玉2区と北関東比例ブロックの重複立候補者だった。
選挙が近くなり、党の方針で小選挙区は撤退し、比例のみの候補者にする決定がなされた。
山本代表は私たちボランティアがそのことに反対するのではないかと恐れていたようで、説得のため埼玉での街宣の後、Tさんの事務所を秘書と一緒に訪問すると連絡、Tさんとダイアナさんと私が会うことになった。
実は私たちは当選する可能性があるのは比例だけとわかっていたので、反対どころか早くその決定が出るのを待っていた。
そして拍子抜けした山本代表に「代表こそ東京の比例単独一位で出るべきです」と上申した。
「大将が負けたら終わるんです。絶対に負けたらダメなんです」
私たちの言ったことをそのまま聞いてくれたとは思わないが、その少し後に、代表が東京比例単独一位で立候補することが発表された。

比例単独となってからは川口にこだわる必要がなくなったので、街宣範囲をさらに広げて北関東全域で街宣を増やしたかったが、選挙まであまり時間がなく思ったほど遠出ができなかった。
また、小選挙区ということで川口に事務所を借りていて、その経費が必要なため、街宣車を作る余裕がなかった。
もしももっと早く比例単独の決定がされていれば、事務所よりも街宣車に費用をかけて、北関東全体の票を底上げできただろうというのが、選挙後の私たちの分析だった。

衆院選告示から投票前日までの11日間は、8時から20時までほとんどずっと街宣車で移動しながら街宣に同行し、投開票日を迎えた。
239,592票を獲得したが、公明党が獲得した最後の一議席より約35,000票少なく、当選することはできなかった。
しかし、北関東ブロックは前回の参院選よりも獲得票数を増やした。
同じ首都圏の東京ブロックと南関東ブロックは、参院選の時よりも票を減らしたが、元々の基礎票が多いため一議席ずつ当選者を出した。
「勝負には勝ったけど、選挙には負けた」
「次は絶対に当選させる」
私たちボランティアはそう誓っていた。

「れいわ新選組」埼玉戦記2 へ続く


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