人生を資本家の「養分」として捧げないために否定すべきこと
現代の木造建築の何が問題かといえば25年で不動産価値がなくなることもそうですが再利用が難しいということも挙げられるでしょう。というのも木材は天然素材ということもあり、建築用材は丸太から切り出されますが、その切り出される部位によって縮み方とか反り方は千差万別で、もちろん建築用には十分に乾燥してから使われますがそれでも長い時間の経過とともに経年変化します。なので解体した家の柱や梁をそのままの配置で利用するならともかく一般的な建築用材に再利用することは普通はしません。仮にしようとしても経年で微妙に反ったり捻じれたりしていて現場で「現物合わせ」をすることになりとても手間がかかるでしょう。それに再利用にあたり致命的なのはほぞ穴などの切り欠きがあることで強度が保てないことです。大抵は木材チップになってボイラーや発電に使われるようです。
ということで建築用材としては鉄材が向いているのではないかと思いますし、車なども鉄で作っても木で作ることはしませんし、長い間使われた蒸気機関車などが整備次第で今でも稼働させられる理由は鉄材の特性が優れていることにあります。地震や水害の多い日本なら尚更です。しかし鉄材の生産はCO2を多く出すことで使い捨てにされている現状は変わるべきですし、そのためにはパーツごとに規格が定められて然るべきですが、車にはこれだけ使い捨てにしても何故か住宅用建築材は未だに木材が圧倒的多数となってます。その木材も輸入材が大半を占めてきており、近年では建築用材の4~5割くらいは国産材で賄われるようになりましたが2000年頃には自給率18.8%で推移していました。つまり日本人は金利を支払って家を買い、その家も大半が輸入された木材で作られたものに住むということは、日本人は何かの「養分」にされているのではないかという疑いを抱かざるを得ません。その家も子や孫に引き継がせる頃にはだいぶ陳腐化しており、それを我慢するとか大幅に手を加えるなどが必要になるでしょう。しかし鉄材で作って内外装をユニット化すればいつでも新しい状態を保つことが出来ます。もちろん費用は掛かりますが現状のように一から立て直すよりは各段に安価でしょう。なんなら骨組みがあればDIYでも出来そうです。しかし建築をそのように規格化しようとしたり鉄材で賄おうという試みはなく、その状況でもし鉄骨建築が木造よりも法外に高い費用がかかるような状況なら我々は本当に日本国全体で何らかの詐欺に遭っているくらいの疑いを持った方がいいかもしれません。日本の現代建築は2×4工法とは違うものですが、最近のものは本当にプレカットされていたり金具を多用したりして2×4に近いものとなっており、これは当面の強度は割とあるようですがやっぱり数十年経つと不動産価値も再利用価値も無くなってしまいます。2×4工法はアメリカ発のものですが、そのアメリカは大量生産大量消費、使い捨ての本家本元であり、世界でも最も多くCO2を排出するのみならず人口一人あたりの排出も世界一です。そういった使い捨ては我々を経済的に疲弊させ、そして子や孫に受け継がせるものも相続税によってがばっと取られるわけですが、その税率は戦後GHQ支配下にあった頃にかなり上げられたようで、その後幾度かの改正で現在の率に落ち着いているようです。
私は子ができる理由は不可抗力に近いものがあると常々主張しているわけですが、それでも我々はこの歳になってみると経済的にどれだけ苦労するかということを嫌ほど知ることになり、子をこの世に送り出すための条件として我々は最低でも住む場所に困らないようにということを考えるべきなのではないかと最近は思うようになってます。若い間は男女が同じ屋根の下で暮らせば子は自然にできてしまう不可抗力に近いか不可抗力そのものですが、であるからこそ我々は生きていくために必要な能力を伴っているのでしょう。しかしそれがこの歳になってみると私だけなのかもしれませんし他の人はもっとそうだと思うかもしれませんが、生きていくことの苛酷さを身に染みて感じるところはあります。私は白髪が目立ち始めたのは40代前半で、もうすぐ50になりますが当初の増え方からするとあまり増えているようでもなく、白髪は弱くて抜けやすいのかどういう理由かは分かりませんがまだあまり老け込んだようにはなっていません。
ということで資本主義社会における一般庶民は資本家の「養分」にされているのではないかということを強調しておきます。新しい外観、憧れるような内装に惹かれて家を買うことは一つの家族の幸せなのだとしても、それが使い捨てでしかも建築材の半分は北米、EU(集成材)という現実を共有しましょう。
このように考えると日本人は戦後に経済的発展を果たし、小金持ちになって物質的には豊かになりましたが、精神的なものを随分と捨ててきたのではないでしょうか。外見の優れたものを志向し、生涯賃金の何割もの額で中身の伴わない家を持つ。その伴っていない中身も2000年初頭には8割が外国産材で、2023年度には6割程度ですが、我々は一体誰の養分になり続けているかということです。我々は経済発展をしアメリカに自動車を輸出してきましたが、そのアメリカは我々に使い捨ての家を買わせ、しかも我々がそれを望んでいる形になっていることに絶望感さえ禁じ得ない。アメリカは言わば日本に対して肉を切らせて骨を断つ戦略を取った。車程度ならただのモので済むが(それでも高価なことに変わりはないが)家となるとどれくらい人生と深く関わるものとなるかということです。我々は「養分」とならないためには木材輸入をストップし、林業を再生させ、まずは「営利追求」のための貸し金を否定しなければならなくなるでしょう。金利を取ることで誰が潤うかといえば、最終的には「ネイサンの空売り」に象徴されるように博打で世界最大の財をなしたユダヤ人ということになるでしょう。または白人のユダヤ教徒とも言えます。