「言い分け」はいいわけ?
皆さま、こんにちは。
さて、先日noteにてお知り合いになりました方から「ラッセル幸福論」に係る書籍をご紹介いただきました。近くの図書館では残念ながらその書籍の取り扱いはなかったのですが、他の「ラッセル幸福論」を予約いたしました。貴重な情報をご提供くださり感謝しております。
さも「読書」に針路を向けて出港するのかと思いきや、今回はいましばし停泊したいと思います。進むまえに皆さまに言い分けをさせて頂こうという訳です。
なぜならば私の行動を「失礼だ」と感じる方がおられるとすれば、その理由の大半は私がSNSもしくはnoteのシステムを良く理解していないためであろうことを知っておいて頂きたいからです。(私自身が原因であろうこともあるのかも。)
システムがわかり始めてきたら、逆に「分かっていない」ことを自覚し始めたのです。
SNS、はじめてなのです
私は、つい最近noteに綴らさせていただくようになるまで、「SNSと呼ばれているソーシャルネットワークサービスに繋がる」という行為をしたことがありません。
noteの「操作方法」も「暗黙の取り決めなるもの」も良く分かっていないのです。
noteはSNSと呼ばれているものと違うの?
noteに薦められるままにツイッターにアカウントを設けたくらいなのです。
noteのヒントの中に「記事が書けたら、記事をSNSでシェアする」という項目があります。
この記述から解釈するに、noteはSNSとは異なるのでしょうか。それともここでは「他の」SNSを指しているのでしょうか?
ハッシュタグがなんとなく分かった段階
ハッシュタグと呼ばれるものが、何なのか、今やっと理解し始めたくらいです。
当初は、本文中の「鍵となる言葉」に「#記号」を入力するものと勘違いをしておりましたがちがうのですよね?
投稿する際に、「ハッシュタグ」なるものを選択するのですね。
noteでのお勧めは「ハッシュタグ」を2~4個とのことですが、なぜその数なのかもよく理解していないまま、薦めを忠実に守っております。
しかしながら、「記事が書けたら、記事をSNSでシェアする」の項目では3~5個をお勧めしている様です。
これらのことから「(何らかの理由により)noteよりもSNSの方は1つくらいおおめにハッシュタグを付けておいた方が良いですよ。」と言っていると解釈いたしました。
感じたところ、noteに文章を綴る方は、まず先にツイッターなどのSNSを先に理解していることが前提、暗黙の掟の様です。
既に入門から掟破りを犯してしまったのかといささか心配ではあります。
noteではハッシュタグを公開設定時にタグとして設定しますよね?
それをSNSでシェアしただけでは、ツイッターの方ではハッシュタグとして認識されないのでしょうか?
改めてツイッターの方でハッシュタグをつけ直すという作業が必要という様に受け取れます。
今はnoteの操作、仕組みを理解するので精一杯ですので、ツイッターの操作、仕組みを理解している余裕がありません。後回しです。
ここからが本当に言い分け
ここまでの綴りに目を通して頂けたなら、私に呆れるとともに、ご自身の優位性を認識されていることでしょう。
「人である限り得手不得手はあるものです。」
呆れられても仕方のない側からの言葉としては開き直りのようでもありますね。
言い分けが良いわけ(理由)
私としては皆さまが「私に対して呆れる」よりも「ご自身の優位性に対して自信を持つ」ほうが皆さまにとって有益だと思うとともに、私にとっても都合がよいのです。
「相手の悪いところではなく良いところを見つけましょう」という言葉を耳にしたこともありますし。
この綴りを残すということは、未来の私がこの綴りを読み「過去の私よりも優位にある自分に気付く」という足掛かりを残すということなのです。
例えるならアンジェラ・アキ氏の 「手紙~拝啓 十五の君へ~」
アンジェラ・アキ氏の 「手紙~拝啓 十五の君へ~」は「過去の自分からメッセージが届き、未来(今)の自分から過去へ応援メッセージを返信をした。」と解釈いたしました。
これに照らし合わせれば、未来の私にとって、この綴りは「過去の自分からのメッセージ」ということになりましょうか。
アンジェラ・アキ氏の芸術作と私の綴りごときを同列に比較してしまいました。なんと恐れ多い大胆な行いでしょう。
「未来の自分へ読み解きやすいように」という未来の私への配慮であり、あくまで私の中での比喩という位置づけとしてアンジェラ・アキ氏のファンの方には許容いただけますようお願いします。
「手紙~拝啓 十五の君へ~」は過去の自分には届かないが意味がある
しかしながら「手紙~拝啓 十五の君へ~」は、かなりの高い確率で過去のご自身に届くことは無い様に思います。
少なくとも、ワームホールが存在し、手紙が安定して通過できるように孔を維持し続け、その出口を光速で動かし、これまた安全に手紙を受け取るということを要するのではないでしょうか。
若者にとって「手紙~拝啓 十五の君へ~」とは、あたかも未来の自分が応援している姿を想像させ、頑張ろうという気持ちにさせてくれるのでしょう。
青春時代を過ぎた者にとっては、今思えば何でもないことに苦悩していた若かりし頃を甘酸っぱい思い出として懐かしく感じさせてくれるのでしょう。
そもそも青春だったなーと思うのは青春が過ぎたからなのだと思います。「今が青春だ」と思える方は、もうそのことだけで、とても幸せだと言えます。
ところで、「手紙~拝啓 十五の君へ~」は見方によっては、酷な手紙の内容であるようにも感じます。その点に関しましては、また次回以降にでも綴ってみたいと思います。
(アンジェラ・アキ氏のファンの皆さま、この名曲を陥れたまま終わることは致しませんのでご安心してください。)
私のメッセージは未来の自分に届く
「手紙~拝啓 十五の君へ~」も15歳の自分から未来の自分への手紙ならば届く可能性が高いと言えます。
「未来の私へのメッセージ」もかなりの高確率で未来の私に届くはずです。
残念なことは、アンジェラ・アキ氏の 「手紙~拝啓 十五の君へ~」と違い、私のメッセージは多くの方には意味がないことです。
次回も停泊したまま、言い訳がましく、私の今の現状を綴ってみたいと思います。
「未来の自分に書く手紙なら、きっと素直に打ち明けられるだろう」ことと思います。
これを投稿して数分後に「2030年夢中の旅」から返信が届いたとしたら、何と書いてあるのでしょうか。
では、また。