「箱」なんてなかった ―—にじさんじのレッテルをはがし、Virtualの世界へ
今日、力一さんが大好きな、平沢進さんが次のようなツイートをされていた。
ふと平沢師匠のこの言葉を見た時、この「レッテル」がにじさんじの場合なんだろうと考えた。数秒して、私の頭の中に、銀河の果てから閃きが到来した。(師匠ありがとう)
「箱推し」という言葉がある。
特定の誰かではなく、あるアイドルグループ全体を応援する言葉である。この箱推しという言葉の由来は、AKB48がある劇場で常に定期的に公演を行っていることから、その「箱」(ライブハウスや劇場)まるごとを愛するところから始まった言葉だった。
しかし、果たしてこの言葉通りに、にじさんじは活動できるだろうか?にじさんじは性別、個性、ありとあらゆる人材を取り込んでいった。しかし、そもそもYouTubeという舞台は、箱のように場所、時間、出演する人間、演出方法を固定して集合するのに向いていない。あるいは、それではYouTube特有の、時間と空間を超えたやり取りの良さがつぶれてしまう。生配信主体の活動だからこうなった、という部分はあるかもしれない。
ましてもや、妻子持ち(グウェルさん)、医療従事者(健屋さん)、本業の関係でFes.に出れなくなった郡道先生のように、配信できる時間軸も混沌としている。
私は、そもそもにじさんじを見る時も①「面白いおっさん」「ぶっとんだ女の子」を見る(舞元啓介さん、月ノ美兎委員長)②アーティストとして、自分のやりたいことを突き詰めるのに刺激を受ける(樋口楓さん、健屋さん)ことが多い。これは、今にじさんじに多い、人と人の関係性を見る「関係性オタク」とは逆だ。つまり、わたしはかなり例外的に「初期のバーチャルユーチューバーの見方」を続けていたのだ。
・3年前に投稿されていた、怪しげなおっさんが一人で突然現れて、何故か悲劇的な最期をいつも遂げるげんげんさんの動画
・2011年から動画投稿を始めていた世界で最初のバーチャルユーチューバーと言われるAmi Yamatoさん。ご自身が3Dアニメ制作者で、その技術を遺憾なく発揮している。
慎重に言わなくてはいけないが、「関係性オタク」がいけないわけでは当然ない。しかし、それならば、YouTubeを舞台にして、今の関係性の外へ飛び出して新しい関係性を見出すような活動を応援してもいいはずなのだ。例えば、何故か物まねして勝手に歌をパクっていたら、本物にその曲を歌ってもらえてしまったジャルジャルのように。
私が、黛君の活動にかなり注目していたのは、こう考えると彼が声優業界などの橋渡しをしつつ、自らの「作品」をまっすぐ作り続ける、昔のバーチャルユーチューバーのスタイルを貫き通していたからかもしれない。音楽業界に例えていうなら、売れても先鋭的な音楽を作り続けるKing Gnuのようなものである。
「箱」という言葉は、YouTubeで活動する上では、もしかするとこだわりすぎると、従来の方法論(つまり「アイドル売り」など)に引っ張られてしまうかもしれない。そしてそれが悪いわけでもない。
しかし、もしも新鮮さを保った活動を続けたいのならば、飛び出して新しいことを始めるのが、全然悪いことでもないことは、誰かが言っておくべきなのだろう。どんな人に会いに行ってもいい。どんなチャレンジをしてもいい。
彼らの周りに「箱」はなかった。ただ、人と人の繋がりがあった。それだけである。