1000日分の112稲垣吾郎。映画『ばるぼら』感想(ネタバレあり)。
小学3~4年生の頃、私につけられたあだ名のひとつは「魔女」だった。
同級生たちよりも背が高く、腰近くまで長い髪をたらした目がギョロギョロした女。だから、だったと思う。多分。
そして大学生の頃、授業でやったミュージカルの役は、「大魔女レイーナ様」だった…。
そんな私が、『ばるぼら』を嫌いなはずがない。
映画化の話をきっかけに原作を初めて読んだのだけれど、かなり好きな世界観だったし、儀式やラストの部分はどんな風に映像化されるのか、どこまで踏み込むのか、かなり期待して、昨日は自分の中では『ばるぼら』の世界観のイメージの服装をして、テラッテラの赤いグロスを塗って(マスクの下だけど)映画館に向かった。
うん。
ほんとに。
堕ちていく男の姿って、最高。
お酒を飲んで、家の中もぐちゃぐちゃで…とかそういう表面的な堕ち方ではなくて。
「愛の逃避行」の後半の美倉の堕ちていく様が、たまらなく好き。
愛する女の匂いのする下着を食み、死姦という禁断の行為の中で、落ちる涙のなんと美しく切ないことか。
あれは、たまらない。
公開前から話題になっていた二人の全裸のシーンも、それはそれは美しくて。
確かにエロスはある。けど、エロくはない。
”芸術と猥褻”は今も尚議論の対象になるものだし、個人によってかなり差があるものだとは思うのだけれど。
私にとっては、じわっと心の奥に火種が残るような映像だった。
そして、とにかく、ばるぼら以外の登場人物の描写が、最高にいやらしい。
下衆い感じがどろどろに出ていて、吐き気がする場面もたっぷり。
特に、加奈子の女のいやらしさは、ぞっとする極み。
体調を気遣う仕草の馴れ馴れしさ、世間に見放された美倉にかける言葉、エプロン姿とふるまうメニューのチョイス、微妙に変化する言葉遣い、そして漏れる「あなたのためにしてあげている」という恩着せがましさ。
すべてがべっとりと重くて、嫌悪感が増した。
このいやらしさを、異性である監督が撮っていることが素晴らしい。
はっきりわかりやすい志賀子お嬢様のほうが、100倍可愛げがあったし、四谷の男の嫉妬加減もよかった…
原作とは異なるシーンも多々あれど違和感はなく。ラストも好き。
「愛の話」として楽しめた。
この日は、午前中の上映後と、午後の上映前の2回にわたって、手塚眞監督、吾郎さん、二階堂ふみさんによる舞台挨拶の全国中継があって。
インタビュアーの方も、東京国際映画祭プログラミング・ディレクターを務める矢田部吉彦氏という、映画にしっかり携わっている方だったからか、しょーもない芸能的な質問はなく、映画に添った内容でたっぷりお三方のお話を聞けてよかった。
↓インタビューの様子はコチラ。
しかし、個人的には二階堂ふみさんの発言で吾郎さんを「モンスター」と記載してあるが、ただ「スター」とおっしゃったように私には聞こえました。
そして。上記の舞台挨拶は午後の部の内容ですが、午前スタートの部での監督のお話の中で、「僕もクリストファー・ドイルも、撮ればきれいな映像になる。そして、美しい2人を撮るから、きれいな映像になるのは当然だ。けれど、それだけの映像にはしたくなかった」とおっしゃっていて。
自分たちが撮れば絶対に美しい画になる、とおっしゃる言葉の力強さにも凄みを感じたし、「きれいなだけにしたくない」とおっしゃっていた言葉通りの力強さも、映像に感じられてぞくぞくした。
美倉とばるぼらの愛のシーンは、本当に美しかった。
息をつめ、じっと見ていられる美しさ。
けれど、確かに「美しいだけ」じゃないんだよなぁ。エロスも、肉欲も、快楽もあって、それでいて尚美しいの。震える。
現場での「バランス」の話もとても興味深かった。
仕事に対する信頼のある人と作り上げていくものって本当に面白い。
業界もレベルももちろん全く違えども、最近、またチームで何か仕事をしてみたいな…という気持ちが出てきていたので、自分の中でもすごく響いた言葉でした。
手塚治虫の漫画が好きだから。手塚眞監督の映画が好きだから。
クリストファー・ドイルが好きだから。稲垣吾郎が好きだから。
二階堂ふみが好きだから。原作の「ばるぼら」が好きだから。
なんとなく興味があるから。
きっかけは何でもいいし、受け止め方も人それぞれで、好き嫌いとか、興味があるとかないとか、分かれる作品ではあるとは思うのだけれど。
私は好き。とても好き。ああこの映画を観られてよかった。
これは映画館で観るほうがいい。
映画を観終わって、劇場が明るくなって、ふわふわと劇場を後にして、町に出て、夢うつつ、という感覚がきっと似合う。
みんな、『ばるぼら』に酔うといい。