物事の捉え方の違い
「Twitterのニーズとnoteのニーズが想像以上に違っていたことを知る」とツイートしたところ、そこそこの反応がありました。
これは「別れさせ屋」についての情報をどこまで欲しているのか、どのような情報が好まれるのかの違いについて、なんとなくわかってきたのでツイートしました。
もともと知っていた人には当たり前のことかもしれませんが、はじめて両方を2ヶ月くらい経験してみた自分にとっては新鮮でした。
2つのプラットフォームにおけるニーズの違いは、下記のような印象です。
Twitter → 依頼に近い人が生の情報を知りたい
note → 情報を得たい人もいるが、単純に「別れさせ屋」という
仕事について知りたい、エンタメ的に知りたい。
またTwitterとnoteを行き来する人は極端に少ないことから、2つのプラットフォームの間には見えない壁があると考えました。
この壁はニーズの違いではなく、140字以上の文字を読むのか無意識に流してしまうのか、文章での論理展開を受け入れられるかで考えていただいたほうが理解しやすいと思います。
noteの読者はゲストもいますが、本当の意味で読むという領域まで入ってくるのはnoteというプラットフォームで活動している人がほとんどです。
そのような人は自分が記事を執筆するするという経験を積んでいるので、文章を論理的に展開しても問題なく受け入れられます。また物事を点で捉えるのではなく線で捉えるので、筆者の言いたいことがきちんと伝わるんですね。
ここでギャップが生まれます。見えない壁の手前側と向こう側にわかれてしまうわけです。
この壁は論理的展開を受け入れられる人には見えても、受け入れられない人には見えないんですよ。
これが余計にややこしくなる原因です。
論理展開できる人の話を理屈で考えない人がきくと、どこかで話が伝わらなくなります。理屈で考えない人にとっては「急にわけがわからないことを言いだした」「当たり前のことを言っている」「なんで同じことを言っているのかな」と感じます。
また理屈で考えない人は、論理的に判断できることと、そうでないことの違いが区別がつかないので、論理的な思考をする人からすると理解できない質問をすることがあります。
たとえば、私が骨董品の鑑定士だったとします。(骨董品を買ったことがないので、骨董品と鑑定書について誤った認識をしている可能性があります。ご了承ください)
骨董品の壺を買おうとする人からチャットで質問されました。
「☆☆作の壺を買おうと考えていますが、文様に●●のような特徴があります。本物でしょうか」
「☆☆作の壺の文様にはたしかに、●●のような特徴があります。ですが、それだけでは判断できかねますので、きちんとした鑑定書があるのか確認してください」
「●●の文様は▲▲の線も入っていて、■■の特徴もありますがどうですか」
「文様の特徴を説明されただけでは真贋の判断はできません。まずは鑑定書をご確認ください」
論理的に考える人からすると「質問しても答えがでない内容をなぜきくのだろうか」と感じ、理屈で考えない人は「専門家なのになんでわからないのかな、なんで同じ説明をするんだろう」と感じます。
これはとても困った問題だなと思いました。どっちが良い悪いと言う話ではなくて。
きっと壁の両側にいる人の思考と気持ちを理解して、両方の人にとって納得がいく説明を使い分けることできる人が、優秀な詐欺師とか情報商材屋になるんでしょうね。