夢の傷口に問う:

あれから十余年経ってもまだ、と書きはじめて、まだ、なんだろうとわからなくなった。

アンネフランクの日記を読んだ晩のことを、遠い被災の記憶みたいに溜め込んでいるじぶんがいる。内実はふやけて夢のようなのに(というか実際のところ夢だったのだが)、その恐怖から逃避しようとして逆になんども反芻するうち、記憶という箱の輪郭ばかりが濃くなってきたことはたしかに否めない。

戦争の夢を幼少期からよく見る。戦争物を観たり読んだりした日に関係なく、突発的に、定期的に見る。起きた瞬間、身体がこわばっていて頭の上に両手が縛り付けられるように寝ていることもあるし、寝る前より明らかにぐったりしているし、起きてからしばらく現実との境目がわからなくて軽いパニックを起こす。できることなら見たくない、けれど意志に関係なく見てしまう。夢とはそういうものだろう。

それで、じぶんの記憶にまつわるアウシュビッツについて書こうと思った。けれどどれもほんとうらしくて立派で、どこまでも嘘だった。事実関係のことを言っているのではない。たとえ事実にふれていなくとも、反していても、これはほんとうを言っていると直感する語りや言葉がある。それ以外のすべては、ノイズでしかない。

切実さという語は簡潔できらいだ。きらいなのによく使ってしまう。感情を言葉で飼い慣らして、なんかそういう芸みたいなのばかり発達する。
夢からさめておそろしくって生きた心地がしなくて、ぼうっと天井みて、そのうち、背中に張り付いた冷汗が引いていく→忘れる、をなんどもなんども繰り返して、二十余年生きてきている。
私が歴史そのものかもしれない。

私はいま、この文章を、自室でマニキュアを乾かしながら書いている。映画の『関心領域』とは私のことである。だからきっと、観たあとも新たな発見が無かった。あの作品は、予告編のイメージと観た後に大きな差異が無かったという声がネット上でいくつか拾えたが、それはそうなのだと思う。差異が無いということの意味を、本を閉じてスマホを裏返して目を瞑って、じぶんに確と問うてみなければ。そう思ってから何週間が経過しただろう。

半月ほど前に一つのフィクションを書いた。
厳密には、フィクションというジャンルに振り分けられるノンフィクションかもしれない。じぶんでもわからない。ある週末、空白のノートを前に見切り発車した文章が、書き連ねるうちにじぶんでも制御できない何かしらの意志を帯びはじめ、書き切ったころには、あの日の悪夢の襞に接続するような、奇妙なものがたりが立ち上がっていた。とにかくそうして書くことで、私は、飼い慣らした言葉を一旦棄てようと試みる。身体のもっと遠い根源からじりじりと鳴って、梅雨みたいに薄く鳴り止まない何かを、まいにちまいにち、浅い呼吸に筆跡ばかり連ね、拾おうとしている。

私がじぶんとじぶんのまわりの世界に向き合うのは、よし向き合おうという決意や日課みたいなものからはほど遠い。どちらかと言うと、堕ちそうな崖っ淵に引っ張られてどうしようも無いじぶんを、上のほうから捉えるような感覚に近い。捉えるには捉えようというアクションが必要だが、生身のじぶんから振動となって流れ込んでくるものありきなので、私のばあい書くという行為は究極まで受動的である。じぶんの身体性に最も近くて最も遠い、ふるえのようなものと言えばよいか。だから翻せば、書きたくても書けないし、書きたくなくても書いてしまう。

その半月前に書き上げた文章を、どこにどうやって出そうかは未だ決めていない。しばらく頭を冷やしてじぶんの執着がなくなった頃に、どこかしらに晒してみようとだけ決めている。そうやってしか生きられない。私は不器用で狡猾である。

それだけのことを、ふと伝えてみたくなった。




p.s. 3週間前に公開したこの文章を、特に予定したわけではないが終戦の日のきょう、ふたたび読み返した。(p.s.付けるならきょう中にと思ったが、7分過ぎてしまった。)

いまでもわからない、わからないと思うまま死んでいくんだろうと思うと
凄絶と書き表すことしかできない79年前と、これを打ち込んでいる現在、自分だったかもしれないだれかの命が抉り取られていくのをわたしは知っていて、それでいてなにも知らない
そのことがくるしくて虚しくて、やりきれなくてしかたがない
毎晩書いて書いて、それはとてつもなく孤独なことで、でもわたしは何のために書いているんだろう
いつものループに入って、8月15日に送ろうと思っていた原稿をまた先延ばしにしてしまった












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