手繋ぎってシンプルにエロくないですか?
本当に。この一言に尽きる。露出がエロいだの、セックスがエロいだの、服がエロいだの、日常的にエロと結びつけられることは世の中にごまんとあるけれども、その中でもやっぱり手を繋ぐことは、計り知れないエロスを含んでいると断言できる。他がエロくない、という話ではなくね。
「エロ」=「つながり」?
「エロ」の一つの基準として、私は「つながり」があると思う。例えば、たまたまお互いに同じことを言った瞬間。思考回路が繋がっていることを感じて、たまらなく相手のことを好きになったりする。セックスだって一つの「つながり」だろう。そのちょうど間に存在するのが「手繋ぎ」だ。特に示し合わせたわけでもなく、約束があるわけでもなく、いつの間にか触れ合っていつの間にか二人の手が絡み合っている、みたいなところにたまらないものがあると思う。
手は外でもつなげる。セックスは外ではできない。手は会話がなくてもつなげる。言葉がつながり合うのは会話をするときだけだ。外でできる。言葉がいらない。それでいて、お互いの感情が一致した時でないと手はつなげない。その「つながり」に極限のエロスがあると思う。
要するに、手繋ぎには、「外でどこまで脱げるか?」という永遠の問いが含まれていると思うのだ。外で手を繋ぐのは、渋谷なんかを歩いていればよく見る光景だ。それでも、その中に自分が飛び込むこと自体には大きな差がある。「手を繋ぐ」というのは間違いなく外で人とつながり合う行為であり、他者に相手との関係性を示す行為でもある。「私はこの人と手を繋ぐ距離感を作ることができています」ということだ。それは、関係性を誇示することにも繋がりかねないし、また自分の私的な側面をわざわざパブリックに見せているということにもなるだろう。その私的な部分をどこまで見せられるか?という問いが「外でどこまで脱げるか?」という問いだと私は感じている。
それでも触れ合いたい、見られても手だけはつながり合っていたい、という感情の表出が「手繋ぎ」という行為に見られる一つ目のエロスである。
手繋ぎのはじまりからおわりまでに存在するエロスについて
しかし、手繋ぎはここでは終わらない。なぜならば、互いに手が触れ合った瞬間から、手繋ぎは「はじまる」からである。「付き合う」「結婚する」「大学に入学する」「就職する」このどれもがゴールではなくはじまりであるのと同様に、手繋ぎも、やはり「はじまる」ものなのである。
①手の繋ぎ始め
最初爪の先が触れ合って、顔が見られなくなる。丸めた指先を広げると、相手の皮膚の柔らかさが指の隙間を通ってくる。相手も指先を広げれば、指同士が少しずつ絡み合う。手の甲の感触を感じながら、少しだけ手をずらす。相手の手が少しずる自分の手を捉え、自分の手の汗ばむのを感じる。それでもまだ躊躇っている相手の手を食べるように握ると、相手もゆっくり握り返してくる。目線を上げる・下げると、ちょっとだけ相手がはにかむのが見える。
これだけでも十分な競技である。あるいは、
「自分、手冷たいんだよね」と手を差し出すと「わ、ほんとだー」と手をぎゅっと握り込まれる。そのままなんとなく名残惜しくて手を握ったまま時が過ぎる、みたいな。
好きなシチュエーションを羅列したやつみたいになってしまった。とにかく、こうやって始まる手繋ぎは、まるで繋いだ瞬間がゴールみたいな顔をして語られてしまうことも多い。しかし違う。遠足は帰るまでが遠足なのと同様、手繋ぎは離すまでが手つなぎなのだ。
ここでは、手を繋いでいる間と手を離すまで、の二つに分けて話を進めよう。
②手を繋いでいる間
「手を繋いでいる間」、お互いの手同士は明らかにプライベートな空間に入り込む。つまりパブリックな空間の中に、私的な空間が出来上がるのだ。手が触れ合っている間は、手同士は何をしても許される。握り直したり、片方の指が片方の手をなぞったり、爪同士をはじき合わせて遊んだり、少し離すそぶりを見せたり、誰一人として邪魔のできない私的な空間がそこには出来上がる。それがどれほどエロいことかわかるだろうか。衆人環視の中、ただ手を絡ませ合うという選択を取るだけで、二人の人間は完全な共犯者になることができるのだ。
この共犯関係のエロさは秘密の共有のエロさだ。「みんなが知らない面を知っている」という一種の優越感が基軸となる。それは例えば「みんなの前では見せない顔を見ることができた」「こんな喋り方をするところを初めて見た」的な優越感にも近い。エロスの一側面には「秘密の優越感」も存在するのかもしれない。
③手を離す時
最後に「手を離す時」。ここには新しい読み合いが生まれる。その読み合いも非常に瞬間的なものである。繋ぐ時も、繋いでいる間も、離す時も互いの合意が見えることが重要、というのはある種人間関係の最も原始的で本質的な部分を手繋ぎが握っているということなのかもしれない。手を離すきっかけ自体は外部要因が多いだろう。例えば別れ際。例えばお店に入る瞬間。例えば改札を通り抜ける時。必要に応じて、人間には手を離さなければならない時がやってくる。しかしここでも、そのきっかけから離すまでの間の時間に絶妙な関係性の機微がある。その機微こそがエロスの大半を担うのだ。
「離すまでの時間」はお互いの関係性を表す。する、と簡単に乾いたまま離れていく指先は、「次も当たり前に手を繋ぐ」という信頼感を表す。繋ぐ時も繋いでいる間も、まるで息をするかのように自然な手繋ぎが行われたであろうことが予想される。ここにあるエロスは、私的空間と公的空間の行き来をこの二人が恐らくは何度も超えてきたのだろうという予想ができる点にある。無数の行き来が、彼ら彼女らの信頼関係を形作ってきたのだ。
一方で、きっかけがやってきてもいつまでももたもたと離し合わない場合もある。改札で、あるいはどこかの入り口で、少しもたついている二人はそんな二人なのかもしれない。ここには「寂しさ」「あと少しだけでいいから一緒にいたい」的な感覚の共有、だけではなく私的空間と公的空間のちょうど間に二人が身を置いていることが示される。「(公的な空間に)戻らなければいけないが、戻れない」という状態にギリギリまで身を置くことによって、彼らは私的空間を延長しているのである。逆にそれを見ることでその二人に苛立つ人たちがいるのもわからないではない。公的な空間に私を持ち込むことは基本的にタブーだからだ。私たちの社会においては、「私」の空間が靴を脱ぐことによって縁取られることが多い。靴を履いている間は、基本的には「公」の自分でいなければならない。そのルールを守らない人たちに、苛立つ人は苛立つだろう。しかしその「公」に混ざってくる「私」にエロを感じてしまうからこそ、手繋ぎのエロスから目をそらせないのである。
最後に、手を繋ぐところから始まるSaucy Dogの「結」を聴いてまるでさもエモい文章を書いたかのような顔をしてこの考察を終わりにしようと思う。
書いているうちに何度も熱が上がったことが見て取れる文章を書いてしまった。最後まで読んでくれた物好きの皆さんに、少しでも手繋ぎのエロスが伝わりますように。