好き、好き、同じ言葉なのにこんなにも違う

好きな人がいる。画面の向こうに。

最近、その人に対する好きの熱量が大きすぎて自分でもやや持て余し気味である。何をしている姿を見ても可愛い。友達に動画をお勧めして見せながら「うっ…可愛い…」と一人で悶えて瀕死状態になっている。(彼はYouTuberなので、全身タイツに白塗りだったりもするがそれでも可愛い。誰か助けて)

久しぶりに手の届かない誰かにここまで惚れ込んだ。これは惚れ込んだと言って間違いないだろう。

自分でも本当に気持ちが悪いなと思うレベルで好きなので、「久しぶりにガチ恋厄介ヲタクになってしまった…」と自分一人で落ち込んでみたりもした。が、妙な違和感がある。本当か?私はガチ恋厄介ヲタクになってしまったのか?

そういえば。彼のことを可愛い、愛おしい、素敵だ、面白い、才能がある、魅力的だ、かっこいい、などとは思いつつ、一度も「関係性を築きたい」「友達になりたい」「付き合いたい」などと思うことはなかった。「会いたい」と思うことすらなく、何ならファンの人が偶然渋谷で彼らに会っているのを見ても、いいなぁ、と思ったことすらない。

もう一度断っておくが、私は彼のことが死ぬほど好きだ。一人で動画を見ているのに「え?…可愛い…」と部屋の中で頭を抱えているレベルには好きだ。気に入った写真は全部保存しているし、気に入ってない写真も保存している。質問箱に答えているツイートを見て、脳内で音声を再生して勝手に悶えているくらい好きだ。気持ち悪いな!!

コメント欄には「〇〇くんと付き合いたい!」というコメントが溢れかえっていて、見るたびに「あぁ、まぁそういう視点もあるよな。」と思う。お気づきの通り少しテンションが下がる。どうやら現実の関係に落とし込みたくないようである。めちゃめちゃに好きだが、これはガチ恋とは言えない気がする。どうしてそうなのか全く理解できなくていくつか理由を考えてみた。

①あくまでも彼は人気YouTuberなわけで、手が届く存在ではないというベースが自分の中にあるから

逆にガチ恋勢は手が届くと思っているのか謎だが、自分は特に「あっ、住む世界違うな」と思うと初めから恋愛対象として切り捨てる面がある気がする。こうやって書くともったいないことしてるな。人類70億の中で、自分の周りにいる人たちなんて1パーセントにも満たないレベルなのに、そんな少ない中から切り捨てていくなんて、しかも住む世界が同じ人間なんて一人も存在しないのにな。自分と付き合う気なんかな。まぁ、彼の場合は「自分の周りにいる人」の扱いの中には入らないが。

②その集団の中にいる時の彼が好きだから

最近気づいた。この理由、非常に強い。私の大好きな彼の笑顔や面白い所、好きな発言、すべてあのメンバーと一緒にいるから生まれるものなのだ。想像したくもないが、仮に自分と二人きりの状態で、彼がそんなに生き生きすると思えない。だから、自分との関係性の中に彼を置きたくないのだ。メンバーとだったら付き合っててほしい。(腐女子並感)メンバーに愛されているところを見るとすごくうれしくなるし、いじられキャラすぎてたまにとんでもない扱いを受けていたりすると悲しくなる。他のメンバーに対してたまに見せる愛おしそうな表情に胸が苦しくなったりする。

ここまで来て本格的に気づいた。推すことと、恋愛感情を向けることは違う。同じ「好き」という言葉を用いるのに全然違う。想いの強さは、時に同じくらいだったりすることもあるのに、本当に、まったく、違う。推すことは、ただひたすらに、見返りを求めず、その代わりに関係性を気にする必要もなく、好きという感情を向けることだ。責任を伴わない好きという感情。彼の人生についてどれだけ考えようと、どれだけコメントを向けようと、一切彼の人生に対して与える影響がないという圧倒的な安心感。「推す」という感情はそういうものの上に立っている。

一方で、恋愛感情は違う。責任を伴う思いだ。自分の思いがいつ相手に影響を与えるかわからない。自分は、相手の人生のレギュラーメンバーになることはないかもしれないけれど、いつでも脇役にはなりうるし、多くの場合は既に脇役として登場してすらいる。どれほど好きでも、好きという感情を何も考えずにぶつけまくっていいものではない。そこには相互関係があり、相手の思いがあるからだ。そして、確かに存在するはずの相手の思いは、自分には見えない。多少予想できるところはあるにせよ、完全にわかることはできない。だからこそ、自分の感情をどう表明すればいいのか、正解は一応存在するのに、永遠にその正解を知ることができない。相手の口からでたもの、相手の行動からきっと正解だった、不正解だったと信じることしかできないのだ。それゆえに恋愛感情を持つと、その表明自体がいつも不安定なものになってしまう(気がする)。正解を見つけられない人間関係の、足場の不安定なぬかるみに立たされているみたいな気分になる。

何の考察なのかよくわからなくなってしまったが、思うに推しへの感情を爆発させやすいのは、足場が安定しているからな気がする。人間関係を発展させるようなものではないからこそ、ある意味そこどまりともいえるし、絶対的安全地帯ともいえる。

一つだけ、思い出したエピソードがある。高3の時に世界で一番好きだったお笑いコンビの握手会に初めて行った。その握手会で、ボケの方の人と話した時に緊張しすぎて「手があったかいですね…」という謎の話しかけをしたら、ものすごく不思議そうな顔で「へ?」と言われてしまった。あれは永遠のトラウマになるレベルで恥ずかしい出来事だったのだが、あれは確かに、「生成されるはずのない人間関係(本来なら「応援してます!」「ありがとうございます」で終わるはずの関係)が私の謎の一言により、生成されてしまった」ことによる恐怖だったのだ。いや、別に生成されてないけどね。人間関係。でも、想定と違う会話が生成されたことは確かだ。この恐怖感、伝わるかな。未だに心臓バクバクしてる。

交わりあうはずのない世界(と少なくとも私は考えている世界)、相手を確かに人間だと認識しているはずなのに、どこか別物のように考えている感覚、そういうのが、必要以上に執拗に芸能人に絡むアンチとかを生んでいるのかもね。勿論それを生んでいるのは倫理観の欠如でもあるわけだけど。相手が本当に傷つくことのある人間だと思っていないからそういう行動ができるんだろうなってこと、特にYouTuberとか絶妙に消費者との距離が近くて遠い職業のコメント欄では非常によく見る。動画で全部笑ってるからって本当にいつも笑ってるわけじゃないんだってば。と思いつつ、私自身も本当にそれを心の奥底から理解しているのは怪しいところではある。とはいえ、相手も人間なんだっていう想像力、たとえ心の底から理解していなくとも、持ってるのと持ってないのとでは全然違うぞ、大切にねっていう。







ちなみに、私が推してる彼っていうのは、アバンティーズのリクヲくんです。らぶ。みんなも見てみて。


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