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遠くへ行きたい

夕方五時、夕飯の支度にとりかかる。
米を研いでいると、携帯電話の着信音が鳴り響き、体をびくりと震わせた。
早くなる心臓の動悸を抑えつつ、発信先を見ると小学校。
喉の奥が息苦しくなるのをようやく押さえつけ、電話に出る。

長男についての電話だ。

クラス全体に言ったことを、自分が悪いと言い出して。
全部悪いからもう自分なんかいらないと言い出して。
体を傷つけ、ノートをぐちゃぐちゃにして、僕は迷惑なんだと言い放つ。

ご迷惑をおかけします。
肯定を5、否定を1言ったとして、伝わるのは否定の1だけです。
前提も肯定も、否定1の前になくなるのです。
申し訳ないのですけれど、彼と1対1で話す際、否定の言葉を抑え込んでいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。

電話を切る。
動悸は収まらない。
息苦しい。
目の奥が熱い。

ああ、遠くへ行きたい。

□ □ □ □ □

今年に入って、上記の出来事は格段に減った。
担任教師が変わったからかもしれない。
薬が効いているのかもしれない。
本人が頑張っているのかもしれない。
それでも、ゼロになることはない。

次男についての電話は、一年に一度あるかないかくらい、かかってこない。
担任教師も、きっと私の顔をおぼえていないだろうし、特別話したいこともないだろう。
心配事はゼロではないけれど、とりたてて言うこともない。
親にとってはたった一人の可愛い子どもだけど、教師にとってはクラスのうちの一人だから。

長男は、そうはいかない。
担任教師は「通級に通う自閉症の子」として認識しており、何かあれば親に連絡をする。
一週間、電話が鳴らなければ御の字。
多い時は、二日連続。
夕方の携帯電話の着信メロディは、私の心臓を撥ねさせ、見えざる手で首を絞めてくる。

□ □ □ □ □

「子ども本人が一番しんどい思いをしていると思うんです」

担任教師がいうたび、疑問が溢れる。
しんどい思いをしているのは、自分でしょう?
担任であるあなた、そして親である私。
子どももしんどい思いをしているかもしれないけれど、一番を決める必要なんてない。
それに、子どもがしんどい思いをしているから、何だというんだろう。
無理矢理そうやって思い込み、押さえつけた感情はいつしか噴き出し溢れ出る。
子どもを理由にしないでほしい。
しんどい思いをしているのは自分なのだと、認めた方がいい。

私もしんどい思いをしている。
子どものしんどさが、担任教師に、学校に、私に、しんどさを起こさせる。

□ □ □ □ □

行きたい場所なんてない。
行ってやりたいこともない。
本当に、今この場所から物理的に離れたいわけではない。
それでも、つい口からぽろりと言葉がこぼれる。

遠くへ行きたい。

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