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忘れぬように

「見て見てっ! この魚めっちゃ大きくない?」

 屈託のない綺麗な目で話す子どもを前にして、自分の硬い表情が自然と緩まってくるのがわかった。

 保育園や幼稚園には通わず、母親同士が子どもの成長を見守る「自主保育風の子」という団体のお手伝いをしている。

 風の子の出会いは当時東市さんという保護者の女性と近所のコミュニティカフェで会ったのがきっかけ。互いにフットワークが軽くて「めちゃ面白そうなシステムですね」「でしょ~遊びにおいでよ。いつでも大歓迎」なんてやりとりであっさりと関わることになった。

 風の子の拠点は多摩川の河川敷。朝の通勤ラッシュが落ち着いた時間帯に多摩川を走るバスに乗車する。ゆったりと走るバスに揺られながら目的地を目指す。

 拠点には既に参加している家族たちがレジャーシートを広げて、子ども達と一緒にのどかに遊ぶ姿があった。ここではかけっこや木登り、川遊びなど自然あそびを大切にしていた。

「きみだれ? 名前なんて言うの?」

 突然現れた母親とも父親とも違う存在に、子ども達は興味津々な様子で近づいてきた。

みんな裸足で若干の汗を掻いていた。

「ちょっとこっちに来てよ~」

 鬼ごっこをしたいたところだったようで、僕の手を引いて遊びの和に招き入れてくれた。同じ背丈の子より大きな鬼から逃げる方がスリルがあって面白いのか「君が鬼」と指名された。

 子供たちは鬼から逃げるのが大好きだった。「きゃー!」と楽しそうな声が河川敷に響き渡る。このひとはきっと悪いひとではないだろう、と思われたのか「ねぇ〜肩車してよ」「私はおんぶが良い」「川に魚がいるから見せてあげる」などのリクエストが次から次へと休む暇もなくやってきて時間が過ぎていった。

「どうだった自主保育? 最初から全力出し過ぎると大変だよ。あの子たち相手だと体力持たないよ」

 保育時間が終わって東市さんに笑いながら言われて、自分の洋服を見ると見事に土や草で汚れていた。嫌だという気持ちはなくて、自然の香りが全身を癒しスッキリとした気分になった。

 このときは独立したてで仕事もあんまりなくて、この先どうなってしまうのかという不安や緊張「とにかく何かをしなければ」というエネルギーが最高潮に達していた時期で余裕が無かったのだと思う。

遊んで汗をかくことが遠い記憶にしかなくて、運動して出る汗とはまた違う。がむしゃらに、ただ目の前にいる子たちと遊ぶ。余計なことを考えず、素足で草や水に触れて、笑顔で過ごせることに自分が満たされていった。

「ここはね、おれたちの秘密基地なんだ仲間にいれてあげるよ」

「俺はいま鬼ごっこがしたいんだ」

「もっとゆっくり歩いてっ さかなが逃げちゃうでしょ」

 子どもたちは好き嫌いもはっきりしていて、感情が素直。過度な利害を考えるわけでもない。純粋に目の前のことに夢中になる姿にはっとさせられた。 

 風の子と出会ってもう7年になる。子供たちと無性に遊びたくなるとき、仕事で行き詰ったときは必ず風の子へ足を運ぶようにしている。 

 小さかった子ども達は卒業して段々と大きくなっていく。久しぶりに会えば大人びた様子でそっけない態度を取られる。「昔はさぁ肩車して~とか甘えてたじゃん?」なんてからかうと、少し恥ずかしそうに、それでも笑顔で体当たりしてくるからそんな豊かな感情を垣間見えて嬉しくなる。

「玲ちゃんって子どもに好かれやすいよね」とよく周囲に言われる。思い返してみると、たしかに嫌われることがあまりない。最初は警戒していても、数時間後にはその子なりの方法で接してきて関係性を築くことができる。

 じゃあ子ども好きか、と言われればそんなこともない。もちろん嫌いでもない。ただ子どもと遊んだりお話しするのは好きだから、自然と関わる機会が多い。ではどうして関わり続けたいのか考えたことがある。

 母親いわく「同レベルだからよ」なんて一言で片付けられたことがあるが、それよりも大人と子どもを二極化せずに延長線上にあるものだと捉えているからだと思うようになった。

いつからだっただろう。大人と子供を隔ててしまっていたのは。 

「玲ちゃんバイバーイ! また遊ぼうね」

自分も子どもだった。そして今でも中に存在している。自身の中にある微かに残るものが子供たちと関わることで呼び起こしてくれるのだ。決して忘れたくはない大切な心を。

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