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表現とは、日々そのもの
秋に、尊敬するアーティスト・山本晶さんの展示を手伝った。作品は、信州木曽の100年以上経った米倉を舞台に、色違いの糸を何千本も使って「流域」を表現したインスタレーションだった。
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東京の展示などで見る平面作品も、鮮やかなのに深い色彩が、いつもとてもステキだ。ふとそれが浮かんだので「今回は(平面の)絵が無いんだ」と私がつぶやくと、彼女は一瞬ののち資料をヒラヒラさせてこう答えた。
「え、これ全部あたしの絵だよ。」
そう、何も平面だけが絵ではないし、展示されているものだけが作品でもない。日頃、どの媒体を使って表現するかによって言い方は変わる。絵だったり、音楽、小説、写真などなど。いずれにせよ、何か描いたり作ったりしている以前から、表現行為は始まっている。しかも終わりがない。そのプロセスすべてが作品と言える。
今回は、準備段階も垣間見せてもらったのだが、それはそれは長い道のりだ。調査・取材から始まり、構想、材料の仕入れと準備仕込み。その間の数多の軌道修正。構築と破壊。そして、いざ本番。さらに、展示が終わった今でも制作は続いている。
いったい、日々の中で、どれほどの逡巡があるのだろう。制作するという過程では、佳境に入れば入るほど、常に前のものを壊す必要がある。それは、ある程度到達したと思う自分を否定することでもあり、とてつもない勇気を持って対峙しないと前には進めない作業だ。そして、最後は諦めにも近い境地で着地する。
その結果、表出されたものにわたしは出会いたい。
でもそれは、アーティストと言われる人だけが選ぶ道では決してない。わたしは本来、すべての人がアーティストであると確信している。木曽で出会った94歳のマサオは、存在そのものがアーティストで、農民で、その人だった。おそらく、自分の歩んできた人生の中で様々なできごとがあったはずだ。それが、立っているだけでこちらに伝わり深いところが揺さぶられる。
マサオは、わたしに、生きること自体が表現だと教えたのだ。
だから、借り物の言葉であったり、外側の評価を求めるためのものは必要ない。自身の奥底から絞り出されたような何か。うっかりすると、聞き逃してしまうくらい微かなものかもしれない。
それは、葉っぱの裏側に隠れていたり、料理の盛り付けや、誰かへの呼びかけに潜んでいることもある。
そのささやかな声に耳を傾け、いつでも応えられるよう日々を送りたい。そして、何かをこの世に表出させると決めたからには、常に「破壊すること」を携えて、構築を続けていこう。
それが、わたしの表現だ。
才能のある人とない人がいるのではない。
成長する人としない人がいるのだ。
才能を自覚した人は、やがて自滅する。
今までの自分を見捨てなければ、
新しい自分に出会えない。