遠藤レーコ、時々 れーれー
60歳。武蔵野美術大学通信教育課程油絵学科4年生、YAMI大学深呼吸学部1.8期生。絵を描き、馬に触れ、たまに海に浮かんだり、旅をしたり。深呼吸学部ではれーれーと呼ばれている。これは、八ヶ岳在住時、隣の子どもにより命名された。レレレのおじさんを尊敬しているのでお気に入り。最近では、子パンダのレイレイ人気にあやかろうと目論んでいる^^。
子ども時代
1961年8月 武蔵野市吉祥寺生まれ
4人兄弟の末っ子(兄1姉2)
幼少時は、家業が新聞屋さんだったので、勤労学生など家には常に誰かがいた。従業員だけでなく、おばあちゃんや近所の子どももおり、どこまでが血縁なのかはっきりしないまま育った。それは自分の血肉となっているらしく、どんなところでもほぼ「最初からずっといるみたい」と言われる。
多動傾向があり落ち着かない子どもだった。父親の影響もあり、外遊びやモノツクリが大好き。でもその反面、絵を描くこと・ボーッと空想の世界にひたることも好きで、昔は屋根の上に干してある布団で、よく転がって雲を眺め遊んでいた。
10代は暗黒の時
小学校は英才教育で有名な学校。そこで生涯の知性をほぼ使い果たした。正直、学校は嫌でたまらなかった。サボりたくて、風邪を引こうと布団を剥がして寝るのだが、根が頑強なのか一度もサボれなかった。いやいや、わたしは本当に行きたくなかった。特に、地理。
中学は、入学時にひともめあったが地元の公立に進学。
小学生〜高校くらいまでは、人生の暗黒時代だった。「片付けられないオンナ党」代表のような母親が管理する家は、公約通りいつも散らかっていた。公約を守るのだけは褒めたい。今の政党にはぜひ見習って欲しい。
高額な私立小学校の授業料滞納は当たり前。問い詰めても「払ったよ」という返事が、いつも嘘だとがわかっていた。そのせいか嘘には人一倍敏感で、さらにこの年齢になると、自分に正直に生きているかどうか、ということも含め、ウソや違和感にはアレルギー反応が起きる。
小学校低学年のときに、父親が新聞販売店をたたんでからは、酒に飲まれ、母親に暴力を振るうことも増えていった。母親も決して負けてなかったが。まあ、呑んでなければ面白いオヤジだったので、嫌うことはなかった。
高校は都立に入学し、割と自由な校風だったこともあって、それなりに楽しかった。家は相変わらずゴタゴタしており、そこに思春期のエネルギーを随分割いていたと思う。なので、あまり記憶がない。授業をサボって、モリヤと代々木公園でスケボーしたりとか、みんなで白浜や神津島行ったりとか。遊んだことばっか。
多分、元気そうに見えていたと思うが、本当のこというと、中学くらいには、わたしは不良になりたかった。グレてグレて暴れたかった。でも、その勇気も気概も残念ながらなかった。
わたしの10代は、社会も揺れていた1970年代と重なる不安定な日々だった。家族の呪縛から逃れたくて、色々もがいた時期でもある。
が、おかげで知恵も力もついたと、今は思える。
バックパッカーとして見たもの得たもの
まだ母親の権力が強大だったこともあって、人生の明確な目標を見つけることなく、短大美術科を卒業。大手自動車メーカーの宇宙航空事業部にてOL業5年。原材料や部品、資材の調達管理に携わる。
仕事は面白かったが、20代の女性が億単位の取引を注文書一枚で動かすことのリアリティのなさに、だんだんと疑問を持つようになる。
1987年、時はまさにバブル狂気へと突入しつつあった時代。世の中のざわつきにも嫌気がさし、結局5年で退社、相方とともにワーキングホリデービザで渡豪。
オーストラリアでは、4.0ℓのモンスター車に乗り、途中巨大リンゴ農園でバイトしながら大きなコンテナーを運転したり、田舎のオヤジのキャラバンカーで居候したり、無人島にカヌーしたり、アボリジニと交流したりと、バブルとはまるで真反対の生活。
ただ、楽しいことばかりでなく、先住民アボリジニが住むところを追われ、アルコールに溺れざるを得ない生活をしている姿にも遭遇。
もともと、自然と深い関わりをもち、文字に頼らずともその叡智を継承してきた誇り高き人々。彼らのような、資本主義という違う価値観を押し付けられアイデンティティを失ってしまった民族が、世界にどれだけいるのかと考えるきっかけになり、今も問題意識を持ち続ける。
一年余り滞在後、今度は東南アジアのバリ、ジャワ、スマトラ、シンガポール、マレーシア、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、再度タイを旅する。終盤は、縁あってタイ国境付近のビルマ(現ミャンマー)難民キャンプにてボランティア(自立支援、クリニックへの募金など)をする。
この旅で、本当に多くの人たちにお世話になり、またかけがえのない経験をすることができた。基本的に、世界は優しさに満ちている、と信じられるのはこの時出会った様々な人、コトのおかげだと思う。
また、旅も2年半もすると、旅が日常となり、ザック一つでどこでも生きられるという妙な自信がつき、それはいまだに自分の根底を流れている。
バックパッカーはその後、不惑へと
資金も底をついたので、都合2年半にわたるバックパックの旅も泣く泣く終えることとし、1990年に帰国。しばらくは任意団体「ビルマ問題を考える会」事務局として、勉強会・報告会の開催、募金集めなどの活動を行う。
その後、自然体験系の財団法人に就職、指導者養成や、全国規模の大会運営に携わる。
1997年3月から、国立の臼井都先生絵画教室にて絵を描き始める。
また、バックパック旅行中より、都市部より田舎に行くほど人々が暖かく親切であることが身にしみており、子どもたちの純真な姿にも胸を打たれ、経済的豊かさや西洋主義に決定的に疑問を感じ、老荘思想などの東洋思想にのめり込む。それを体系づけて学びたいと考え、鍼灸師になることを決意。
働きながら、日本鍼灸理療専門学校夜間部に通学、97年鍼灸あん摩マッサージ指圧師の資格取得。同時に財団法人を退職し、鍼灸治療院、整形外科、整骨院などで研修を重ねる。
98年に父親が脳出血で倒れ、介護生活が始まる。
介護しながらも、99年に独立。女性のための治療院「なゆた堂」院長・鍼灸師として、主に働く女性の心身のケアを行う。
時期を同じくして、最初で最後の猫、保護猫のアメショミックス、マチュンを飼い始める。
08年、父親の介護に専念するためなゆた堂を閉院。しかし、間もなく父も他界。10年に渡る介護が終わり、ある種のロスを経験。だが、山のような残務整理が残っていたので、1年ほどかけて処理していく。
信州への移住生活は悲喜こもごも
父親の死後の整理も終わった2010年、かねてより考えていた移住を決行する。1年目は、信州小諸市と上田市の間の高原の町、東御市というところに家を借りて住む。最初の保護ワンコ、フレブルのサンタを引き取る。だが、「ここは何か違う!」と思い、翌2011年、震災の前日に八ヶ岳に引っ越す。
半年間で、ワンコ3匹(全て保護犬)が増え、にゃんこ1匹、ワンコ4匹との八ヶ岳暮らしが始まる。翌年の2012年、諏訪郡富士見町に中古の家を購入しやっと落ち着く。
しかし、この頃から今度は母親が体調を崩し、東京と八ヶ岳の往復生活が始まる。大雪で中央道が閉鎖になり、21時間かけて東京に帰ったこともあった。
八ヶ岳ではチェーンソーや斧を手に、小屋作り、薪作り、家のDIY、大豆からミソや醤油をつくったり、御柱祭りを堪能したり、夏には『遊びの達人・サマーキャンプ』を実施するなど、The 田舎暮らしをことん楽しんだ。この間のたくさんの出会いと経験も、自分にとっての大事な大事な宝物だと、心から思う。
2017年
タイニーハウスを作る計画をしていたが、2月に愛犬の突然死、3月には八ヶ岳の親友の死、雪道でのスリップ事故と立て続けにありえないことが起きる。このまま突き進むべきか悩んだ末、一旦移住生活の撤退を決め、7月に東京に戻る。
2019年
6月、恩師、臼井都が老人施設に入ることになり、思い出の詰まったアトリエを弟子たちで片付ける。残された膨大な作品やクロッキー、デッサンなどを見て、油絵に一生を捧げた恩師の情熱に深い感動を覚える。
画家が何を見つめてきたのかを探りたいと、武蔵野美術大学通信教育課程油絵科3年次編入。
2021年
8月に還暦を迎える。表現するとは?を日々考えるにつれ、絵だけでなく、文章も必要だと考え、言葉を磨くために橘川幸夫さん主宰の深呼吸学部に入学。
橘川さんが常に書き溜めているという言葉の結晶、「深呼吸する言葉」を108本選んで書籍にする、という課題が出された。なんと、1ヶ月半のマッハスピードで出版にいたる。
現在は、ムサビの卒業制作と深呼吸学部のプロジェクトに取り組む。
これから
右手に「自分の鉱脈にツルハシを振り下ろせ。」
左手に「人の人生の放火魔であれ。」
を携え、ライブ感満載の表現をしていく。
一人ひとりが主体の、参加型社会実現に関わる。
世の中に、オモロいお転婆ぁさんをふやす。
WORKS
【bodyworks】
98〜08女性のためのはり灸治療院なゆた堂院長
06〜07ゆる体操教室指導員
【art】
2014白金弘重ギャラリーにてグループ展
2021有楽町マルイにてグループ展
【books】
【資格等】
鍼灸あん摩マッサージ師
元ゆる体操指導員
アトリエYS「表現アートセラピーファシリテータ養成講座」修了
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