社会の公器とは何か。会社で働く人財は誰のものか。
15年ほど前に出会った言葉ですが、いまも私の「人財育成観」の柱になっているものがあります。
社会人になって8年目、それまではサービス系の事業部門で働いていた私が、人財育成の仕事がしたくて某電機メーカーに転職。
当時の社長さんは創業家以外からはじめて経営のバトンを受け取られた方でした。
一担当者としては「雲の上」の存在でしたが、新人研修などの講話に来てくださったときに、いまも忘れられない話をされていて。
「たとえ明日その人が当社を去ることがわかっていても、やはり私は教育投資をし続けるだろう」
「そもそも、会社で働く人財は誰のものか?決して会社のものではない。会社は社会から大切な人財をお預かりしているにすぎない」
「日本には、自然界の資源や公共の施設を使わせてもらうとき、元あったよりもキレイにしてお返ししましょう、という考え方がある。人財も同じではないか。当社に入ってくれた人はいずれどこかのタイミングで会社を去る日がくる。入社したときよりも、人として成長し、より良い姿として社会にお返しする、それが企業が社会の公器たるゆえんではないか」
「だからこそ、私たちはたとえ短い期間でも当社を選んで入社した大切な人財に対して、教育投資を怠ってはならないという信念をもっている」
当時は、従来の「国際化」から新たに「グローバル化」へと突き進む企業が多く、現地ローカル社員の雇用を進めていた頃。でも海外の方は日本に比べて転職へのハードルが低く、採用して育成して、やっとこれから活躍が期待できると思ったとたん、自分をより高く買ってくれる会社に移ってしまう。
そんななかでその社長さんが言われてたのが、こんな趣旨のお話だったのです。
教育投資はとかく選択と集中の的になりやすいテーマですし、誰にどんな学び育ちの場を提供するのかも(本来は事業・組織・人を読み解くレンズのような一定の専門性が必要な議論のはずなのに)「声の大きい人の個人的な持論」によって安易に方針が転換されがちなテーマでもあります。
そんななかで、
【この会社は何を大切にして人や組織に向き合うのか?】
【そのために何を会社の責任とし、何を従業員の責任として、選び選ばれる関係を築くのか?】
という人財ポリシーを明確にしておくことは、様々な視点を持つ多様なステークホルダー間で物事を決めていくときに、とても重要な要素になる。
駆け出し人事の頃に上述のような思想に出会えたことは、本当に幸運だったと思っています。