加藤和彦トリビュートコンサート@京都&『オリンピア』読書会に参加した2024年7月の日記
2024年7月10日(水)
加藤和彦トリビュートコンサートを観に、京都ロームシアターへ。
わーい前方席!と会場に入ると、思っていたより観客の年齢層が高くて少し驚く。出演するミュージシャンのファンが多いのかと予想していたが、加藤和彦、もしくはフォーククルセダーズを愛聴していた人が多いのだろうか。
考えたら、あれだけ名曲を生み出しているのだから当然かもしれない。私も中学生のときに音楽の授業で「あの素晴しい愛をもう一度」を合唱した。もちろん大ヒット曲「帰って来たヨッパライ」も聴いたことあるし、作詞家であった妻の安井かずみと共同制作していたことも知っている。木村カエラをボーカルに迎えた第3期サディスティック・ミカ・バンドはリアルタイムで見ていた。が、それでも加藤和彦という人物や音楽の全体像はどことなく曖昧で、なんだかつかみがたく感じていた。
そんなことを考えているうちに開演し、高野寛に坂本美雨、バンマスの高田漣らが出てきて、いきなり「あの素晴しい愛をもう一度」がはじまる。あらためて聴くと、淋しい歌詞なのに曲調はまったく重苦しくなく、あっけらかんとした軽やかさが耳に残り、四畳半フォークやロックといったジャンルにおさまらない不思議な曲で、加藤和彦の独特の存在感と共通するものを感じた。
そこから各アーティストがカバーを披露。ハンバート ハンバートが地声で歌からお経まで再現した「帰って来たヨッパライ」や、田島貴男が壮大に歌いあげた「青年は荒野をめざす」には圧倒された。美雨ちゃんは加藤さんと両親とのつながりについて語ったあと、矢野顕子もカバーしている「ニューヨーク・コンフィデンシャル」を歌い、ピアノと歌の絡みあいに会場全体が魅了された……というとライブレポの決まり文句みたいですが、心底うっとりしました。
そして高野寛、続いて奥田民生が登場。「悲しくてやりきれない」はもともと民生さんがカバーしているので予想どおりだったけれど、今回はじめて聴いた「浮気なGIGI」がすごく素敵で思わず息を呑んだ。この曲は妻の安井かずみと作ったヨーロッパ三部作の『ベル・エキセントリック』に収められているらしい。
実のところ、少し前まで加藤和彦というと、その音楽よりも「安井かずみの夫」という印象が強かった。というのも、以前ジャーナリストの島崎今日子によるドキュメンタリー『安井かずみがいた時代』を読んだからだ。
彼女と関わった者たちの証言からは、「時代の先端を走る最高にかっこいい女だった安井かずみが、加藤和彦と結婚してからは保守的になり、お洒落でスノッブな夫婦を演じるようになった」という響きが感じられた。
誰もが憧れる夫婦だったが、ほんとうに幸せだったのか? と。
たしかに、メディアに映っていた姿がすべてではなかったのだろう。幸せであったかどうかなんて、本人ですらわからないかもしれない。
けれども、ふたりで才能と愛情をふんだんに注いでヨーロッパ三部作などの楽曲群を作ったのは真実にちがいないと、この日の「浮気なGIGI」や高野さんがカバーした「絹のシャツを着た女」などを聴いてつくづく思った。
念のために言っておくと、『安井かずみがいた時代』はていねいに取材されていて非常におもしろい本なので、音楽好きの人はもちろん(昭和歌謡が好きな人にもおすすめ)、女性の生き方について興味がある人にもぜひ読んでほしい一冊です。
そしてライブは、いよいよ加藤さんの盟友、サディスティック・ミカ・バンドなどで活動をともにした小原礼が登場しておおいに盛りあがる。礼さんのベースがかっこいいのは言うまでもないけれど、歌いっぷりも堂に入ってきました。ひさびさにライブで聴いた『ダンス・ハ・スンダ』は、タイトルの回文でもわかるように遊び心と才気にあふれていて、演者も観客も笑顔になる。
最後はGLIM SPANKYが登場し、サディスティック・ミカ・バンドの『タイムマシンにお願い』『塀までひとっとび』で会場の熱気はクライマックスへ(また紋切り型の表現ですが)。最初は落ち着いていた観客もほとんど全員立ちあがり、フォークをしっとり聴くつもりで来た人も多かったのかもしれないけれど、でもみんな満足したにちがいない雰囲気でライブが終了。いや雰囲気ではなく、帰りのロビーではふだんライブでスタンディングすることのなさそうなお客さんたちが楽しげに帰っていった。外に出ると、京都の夏に特有の熱く湿った空気がたちこめていて、駆け足で東山から三条に向かった。
2024年7月14日(日)
この日はロス・トーマス『愚者の街』(松本剛史訳 新潮社)を課題書として、大阪翻訳ミステリー読書会を開催。読書会のレポートはこちらのサイトにアップしています。課題書についてのディスカッションのみならず、参加者のみなさんの「翻訳してほしい本」に対する熱い思いに心打たれました。
レポートにも書きましたが、次回は11月16日(土)、トレイシー・リエン『偽りの空白』(吉井智津訳 早川書房)を課題書として開催しますので、ご興味があるかたはお気軽にご参加ください。安心してください、怖い人はいません!
2024年7月26日(金)
この日はまず配信でフジロックを鑑賞。トシロウさんの筋肉を鑑賞(“I Fought The Law”もよかった)→トータスさんのオーティス・レディング→「涙がこぼれそう」のセッション→そして先月磔磔で観た家主へ。
家主のメンバーのほのぼのとした佇まいと(ヤコブ氏のMCのあいまにフジロック名物のトンボが止まっていた)、熱いギターロックとの融合が楽しかった。はやく次のライブ(11月)に行きたい。
マカロニえんぴつを聴きながら家を出て、梅田で乗り換えて門戸厄神へ向かう。奇しくもパリオリンピックの開会式でもあったこの日、デニス・ボック 『オリンピア』(越前敏弥訳 北烏山編集室)の読書会が開かれた。
『オリンピア』は、第二次世界大戦後にドイツからカナダに移住した一家を描いた連作短編集である。タイトルにもあらわれているとおり、一家の祖父母と父親がオリンピックの選手であったことが、物語の背景、帯の言葉を借りると「点景」になっている。一家の血を受け継いだ主人公のピーターと妹のルビーは、オリンピックにかぎりない憧れを抱く。
けれども、この小説は「オリンピックを目指す一家の物語」と聞いて想像するものから大きくかけ離れている。スポーツがモティーフのひとつであるのに暑苦しさはなく、風のように軽やかで水のようにしなやかな物語であり、さっき書いた「あの素晴しい愛をもう一度」と同様に、ひとつのジャンルにおさまらない不思議な魅力がある。
いまあらためて考えると、上のふたつの引用でもわかるように、「才能」が物語の大きな主題のひとつである。
才能、他人よりあきらかに秀でた能力に対して、平凡な人間である私たちはうらやましく思うけれど、一方で才能や能力は「呪い」に近いものなのだろうとも感じる。才能や能力に恵まれると、勝たないといけない、成功しないといけないという圧力をかけられ続けることになる。平凡な幸せというものに気づけなくなることもある。
この小説の父親は、ストームハンターとして嵐を愛して追いかけるのだが(なんかこう書くと別のニュアンスを帯びてしまいそうだ)、才能は嵐に近いものなのかもしれない。突然ふってわいて襲いかかり、不用意に巻きこまれると大きなダメージを受ける。けれどもごくたまに、何事もなかったかのように嵐から生還する者もいる。人間が制御できない恐ろしさを有していて、この父親のようにすっかり心を奪われる者もいる。
そしてよく言われることだが、どれだけ才能や能力があっても、永遠に勝ち続けることはできない。スポーツ選手は肉体的に限界があるのでわかりやすいが、それ以外の場合も大きく見ると変わらない。たとえ才能や能力を維持できたとしても、老いや病気に勝てる人はいないのだから。
そう考えると、そもそも生きること自体が完全な負け戦であり、うまく負ける方法を見つけて、負けるのに慣れていくことが賢い生き方なのかもしれない……というとなんだかありがちな人生訓のようで、あまりおもしろくない結論になってしまう。たとえ負けるにしても、往生際悪くあがいた方がおもしろいし、『オリンピア』などのすぐれた小説や芸術は、そんなあがき方を描いたものかもしれない、なんていうことを思った。
ところでこの読書会で、嵐が大好き(この小説同様、文字どおりの嵐です)でストームハンターになりたかったと語った参加者がいらっしゃったが、台風がひたひたと近づいている現在(8/28)、ワクワクと胸を高鳴らせていらっしゃるのでしょうか?
(家主を観ていると、ギターロックのバンドっていいな~とあらためて感じる。オアシスも復活することだし、こちらのバンドもまた活動してほしい)
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