故郷へ帰るガザ市民の生の声

Electronic Intifada が、今日と昨日、故郷を目指して北上したガザ市民の生の声を紹介していました。ドキュメンタリーや映画が作られるまでには何ヶ月、何年の月日とかなりの資金が必要です。でも文章は、すぐに届けられる。なので、なるべく早いうちに、皆さんにお届けします。今回もChatGPTに翻訳をお願いして(いやあ、くやしいけど、けっこううまいです)、必要な箇所だけちょこっと直しました。

元の記事1)"Kissing the ground in Gaza’s north" by Moaaz Redwan The Electronic Intifada, 2025年2月2日
https://electronicintifada.net/content/kissing-ground-gazas-north/50353

元の記事2)"Let us bury our martyrs with dignity" by Hassan Abo Qamar The Electronic Intifada, 2025年2月5日

記事1

ガザ北部の大地に口づけながら

著者:モアーズ・リドワン
媒体エレクトロニック・インティファーダ
2025年2月2日
モアーズ・リドワンさん:アル=アクサ大学の学生。ジャバリヤ難民キャンプで育つ。

1月27日、ガザ北部に残された家へ戻るため、アル=ラシード通りを北へと歩くパレスチナ人たち。写真:Yousef Zaanoun/ActiveStills

15か月の時を経て、ついに停戦が宣言された。その最も重要な条件は、避難民がガザ北部の自宅へ戻ることだった。

私はジャバリヤ難民キャンプから南のハーン・ユーニスへ、そこからラファ、そして最後にデイル・アル=バラへと避難を強いられてきた。

たとえ瓦礫の中に戻ることになったとしても、最優先は帰還だった。停戦合意の発効から1週間後の1月26日(日)、避難民の北部への帰還が開始されると発表された。

誰もがこの日を心待ちにしていた。ついにガザ北部へ戻れるのだ。

1月25日(土)

昨年5月以来初めて、デイル・アル=バラが避難民で溢れていない光景を目にした。何か月もの間、街の至る所にテントが立ち並び、混雑した通りはまるで市場のようだった。

人々はティッベト・アル=タヌーリへと向かい、そこから海岸沿いのラシード通りを北へ歩き始める予定だった。車両での移動は、ガザを南北に貫く中央道路、サラーフ・アッディーン通りのみ許可されていた。

誰もが持てるだけの荷物を抱えていた。マットレス、衣類、水。しかし、多くの人が半分以上の荷物を置いていくしかなかった。すべてを運ぶことは不可能だった。

私の家族8人――両親と5人の幼い弟妹――は、土曜日の午後にティッベト・アル=タヌーリへ到着し、翌朝8時の帰還の時を待ち続けた。

寒さが厳しかったが、喜びに満ちた空気が場を温めていた。誰もが、到着したら何をするか、この瞬間をどれほど夢見てきたか、北部への思いを語り合っていた。

しかしその夜、イスラエル兵が私たちに向かって発砲した。私たちは動じず、その場を離れなかった。まもなく、「イスラエルがある特定の捕虜の解放を求めており、その女性が解放されなければ帰還は許されない」との情報が広まった。

人々の間に不安が広がったが、それでも私たちはその場を離れなかった。自分たちの土地へ戻るという夢を諦めることはできなかった。

1月26日(日)

ついに待ち望んだ日がやってきた。何千人もの人々とともに、冷たい夜を道端で過ごしながらも、私たちは占領者の裏切りを恐れ続けていた。

朝が来た。しかし、帰還の許可はまだ下りなかった。

人の数は増え続け、混雑は激しさを増し、「喜びが一瞬で消えてしまうのではないか」という恐怖も広がった。

長く、不安と緊張に満ちた1日が過ぎると、仲介者を通じて新たな合意が成立し、翌日から避難民の帰還が始まることが発表された。

1月27日(月)

ついに祝福の日が訪れた――北部への帰還の喜びを味わう日。私たちが1年以上夢見続けてきた日。

人々の顔には喜びが溢れ、まるで戦争やこれまでの苦難を忘れたかのようだった。「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」と「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラーの他に神はなし)」の声が響き、パレスチナの旗が高々と掲げられた。私たちは、生まれ育った場所へ戻るのだ。

この光景は、2023年10月の避難を思い起こさせた。しかし、あの時の恐怖と絶望とは正反対の感情が私たちを満たしていた。あの時は未知の未来に怯えながら逃げていた。しかし今、私たちは帰っているのだ。

家に帰るといっても、四方の壁に囲まれた家があるわけではない。それでも、自分が生きてきた場所、戦争前に過ごした日々の記憶が詰まった土地へ戻るという事実が、私を大いに安心させた。

15か月間思い続けてきたこの日がついに訪れた。私は、心の平穏を取り戻していた。

避難生活の間、隣人だったサバー家にも、語れるべき物語があった。

40代のハーレド・サバーは言った。

「私は家族を南に残し、1人で破壊されたジャバリヤの自宅へ向かった。3人の娘――イマン、ヌール、スアード――の遺体を回収するために。母親や家族があの光景を目にすることがないようにするために。そして今、私は北へ向かっている。」

道中で出会ったベイト・ラヒヤ出身のイマン・アル=マドフーンは必死に助けを求めていた。

「私は5人の子どもを抱えています。そのうち2人は歩くことができません。どうか誰か、私をガザ(シティ)まで連れて行ってください。」

誰もが彼女を助けることに躊躇しなかった。私たちは、2人の子どもを運ぶための荷車を探し回った。

道のりは長かったが、その長さを感じることはなかった。救急車が待機し、疲労で倒れた人々を手当てしていた。子どもが歩ききれず途中で止まる家族も多かった。

ラシード通りのネツァリム交差点付近で、腐敗した殉教者の遺体を見つけた。長きにわたるイスラエル軍の駐留によって、誰も遺体を回収できなかったのだ。

長時間の徒歩移動の末、ようやく午後8時頃にジャバリヤへ到着した。足は腫れ上がっていたが、育った街の通りを目にした瞬間、疲れは消え去った。

暗闇の中でも、私は場所を認識できた。自宅のあった場所に到達すると、私は地面にひれ伏し、喜びのあまり地面に口づけた。

家は、戦争の初期に破壊されていた。しかし、その瞬間、何も気にならなかった。大切なのは、私たちが土地に戻ったということだった。

私たちは瓦礫の上にテントを張った。

この感覚は、長年離れていた故郷に戻ってきたかのようだった。私が生まれ、成長し、人生のすべてを過ごした場所。

私は、この街の通り、小道、隣人たちを恋しく思っていた。この場所を歩くこと、その場にいること、それ自体が愛おしかった。

私はついに、故郷へ帰ってきたのだ。

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記事2)

尊厳をもって殉教者の埋葬をさせてください

著者:ハサン・アブ・カマルジ
媒体:エレクトロニック・インティファーダ
2025年2月5日
ハサン・アブ・カマルジさん:ガザを拠点とするライター。

1月31日の日没時、人々は自宅の残骸へと戻る。写真: Omar Ashtawy / APA images

1月18日(土)午前5時

停戦発効の前日、私は爆発音で目を覚ました。

この時点で数週間にわたり停戦の話し合いが続いており、日曜日には開始されることが誰の目にも明らかだった。

しかし、それでもイスラエルは、最後の瞬間まで殺戮と破壊をやめることはなかった。

爆発の衝撃で、部屋中に火薬と死の臭いが広がった。この臭いを何度嗅いだかわからないが、決して慣れることはできない。私は鼻を手で覆い、臭いが消えるのを待った。犠牲者たちが、神のみぞ知る場所へと消えていったように。

私はその場に座り、夜明けの礼拝の時刻を待った。数分後には祈りの時間が来る。待つ間、スマートフォンを手に取り、SNSを開いた。そこでは、多くの場合はガザに行ったこともなく、その名以外何も知らない人たちによる、言葉の戦争が繰り広げられていた。

論争のテーマは「ガザは勝ったのか?」だった。

礼拝の時間が来て、私は祈った。勝利か敗北かを巡る議論は無意味に思えた。私に、その判断などできるものか。祖母の言葉を思い出した。祖母は昨年5月、ラファで家を失い、私たちのいるヌセイラートへと避難した。祖母がラファで家を失うのは、2回目だった。そんな彼女が、いつも言っていた。「すべては神の御心のままに。ハサン、『アルハムドゥリッラー(神に感謝を)』と言って、前へ進みなさい。」

SNS上には、祖母の言葉ほど賢明なものは見当たらなかった。

血で潤された大地

ガザの「勝利」を祝う人たちは、その住民が被った悲劇の深さを見ようとしない。彼らは、子を失った人々の焼けつくような悲しみが癒えるのを待たなかった。ガザの人々に、15ヶ月間続いた世界からの裏切りを忘れる時間すら与えなかった。

彼らは、ガザの通りや病院、庭園や遊び場に置き去りにされている殉教者たちが尊厳をもって墓地に埋葬されるのを待たなかった。ガザ全体が墓地と化しているのに。

彼らは、日曜日になるのさえも待たずに勝利を宣言した。テントで暮らす人々の生活は、まだ戦争の中だったのに。

戦争はまだ終わっていない。

ガザの人々は、希望と恐怖の入り混じる思いでニュースを読んだ。私たちは、占領者が殺戮を続けないという確証を求めた。生き延びられるのか、飢えさせられることはないのか、子どもたちや家族を再び奪われることはないのかを確かめたかった。

燃やされることも、暴力の業火に溶かされることもないと確信したかった。

私たちはただ、平和の中で喪に服したかった。

(政府の)スローガンだけを見て、自分は被ることのない虐殺を祝う人たちもいる。

一方で、おそらく飛行機でどこかへ向かう途中とかに、皮肉げに「これのどこが勝利だ?」と自分の意見を言う人もいる。

自由に生きることに慣れた彼らは、ぜいたくに囲まれて生きている。彼らには、人生が願望だけで成り立つものではなく、努力によって築かれることが理解できない。祖国は、私たちの手で築き、そして築き直すものだ。それをするのは私たちだ。先祖から受け継ぎ、次の世代へと引き継ぐものだ。

これは私たちの祖国だ。私たちがこの手で築き、そしてこの血で取り戻すことを誓った土地だ。ガザからは多くの優れた人物が生まれるだろう。殉教者たちの遺体が植えられ、彼らの血によって潤された大地だ。その土地からは当然、そういう人々が生まれるのだ。

Don’t be surprised, either, by the presence of the lowly ones, the traders and thieves who exploit their people’s plight. Gaza is not perfect, its people are not angels.

また、ガザの人々の悲願を利用して自己の利を求める低俗な商人や盗賊も出てくるだろう。ガザは完璧ではなく、ガザの人々は天使ではない。

沈黙し、私たちに喪に服させよ

「ガザ」という名はカナン人によってつけられ、「強さ」を意味する。「ガザの戦いに勝つ者が、戦争に勝つ」と言われた時代もあった。

破壊の中にあっても、そしてガザに残されたものが死とその臭いだけだとしても、もしこれを勝利と呼べるなら、それはガザが陰謀してつるむ大国たちの意思を打ち砕き、生き残ったことだ。ガザは、パレスチナのためにすべてを捧げた。

ガザは、歴史的にずっとそうであったように、孤独に、そして誇り高く立ち続けた。

私たちの殉教者のために泣くな。彼らの血はこの大地を潤した。私たちは、自分の命そのものをもって殉教者たちを尊び、不屈の精神をもって彼らの記憶を永遠に刻む。

私には、これが勝利かどうかはわからない。判断する基準がない。しかし、確信して言えるのは、あなたたち(世界)には、参加しなかった戦いの勝利を歌う資格も、そのときには黙って見ていた喪失を今嘆く資格もないということだ。

あなたたちは、虐殺、飢餓、ジャバリヤの破壊、アル=アハリ病院の大虐殺、フサム・アブ・サフィヤ医師の訴え、私たちの病院の破壊、そして私たちの子どもたちの殺害について沈黙していたではありませんか。ならば、今も沈黙せよ!

沈黙し、私たちに殉教者を尊厳をもって埋葬させてください。彼らが、この世界では見つけることのできなかった平安を、あの世で得られるように。沈黙せよ。勝利したのが、オリーブの枝なのか、それとも死の臭いなのかを決めるのは、あなたたちではないのですから。


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レイコ
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