山岳ガイド伊藤裕規さんの思い出
2024年1月のある朝のことである。何気なくInstagramを開くと、山岳ガイドの伊藤裕規さんの写真が目に入った。国際山岳ガイドの佐々木大輔さんが率いるカラコラム遠征隊の公式アカウント “Karakoram Ski Expedition”に投稿されたその写真の下には、「遠征メンバーの伊藤裕規」「予定を過ぎても下山せず」「県警・仲間の捜索でも発見に至らず行方不明」といった思いがけない言葉が並んでいる。何かの間違いではないかと思った私は、何度も文章を読み返し、釣り針に掛かった魚を見て顔をほころばせる伊藤さんの写真を見つめた。この人はたしかに伊藤さんだ。でも、あの伊藤さんが遭難などするわけがない。
その日から私は毎日関連webサイトやSNSをチェックし、伊藤さんの無事の知らせを待ち続けた。しかし冬が過ぎ、季節が春から夏へと移り変わっても伊藤さんのInstagramの更新は止まったままで、聞けば山岳会やガイド仲間の皆さんが、彼がパートナーの方と共に消息を絶った北岳に何度も通い、捜索を続けているとのことだった。
7月28日の深夜、Karakoram Ski ExpeditionのInstagramに新たな投稿があり、私は伊藤さんとパートナーの方が北岳の白樺沢2,280m付近で発見されたことを知った。
山と共に生きる人々が背負うリスクについては、頭ではわかっているつもりでいた。しかし、私の中ではそのことと伊藤さんとが全く結びついていなかった。どんなに経験を積んだプロであっても、一瞬にして命を失うことがある山の世界の酷しい現実。その現実をはじめて身近なものとして思い知らされた私は、悲しみに打ちのめされた。
伊藤さんは私が山を登る上で最も強く影響を受けた人である。山のプロであった彼から、私は山にまつわる多くのことを学ばせてもらった。そして、山での経験を積めば積むほど、彼から教わった登山の基本の大切さがわかるようになり、それは山へ向かう際にいつでも自分の拠り所となっている。彼の山との向き合い方、山との関わり方にも、少なからず影響を受けたと思う。今、一番悔やまれるのは、私自身がそのことに気付いたのが、彼の遭難の報に接してからだったことである。
伊藤さんにはじめて出会ったのは、2021年の秋のことだった。私は登山を始めたばかりの初心者で、山岳ガイドに会うのも山岳ガイドという職業を正式に知ったのも、その時がはじめてだったように思う。
その年の1月に、私は長年飼っていた2匹の犬をほぼ同時になくしていた。愛犬を失った寂しさを何かで埋めようと、ひとりで近くの山を登り始めたのが登山をはじめたきっかけだった。
はじめは高尾山や陣馬山を登り、それから丹沢の山にも登るようになった。丹沢の山を登ると、たいてい富士山が見えた。少し視線をずらすと、雪をたたえた山々が蜃気楼のように白く浮かんでいる。気高く聳える頂の連なりは、遠目に見ても美しかった。標識を見てそれが南アルプスであることがわかったが、その頃の私はそこにどんな山があるのかも知らず、自分とは無縁の領域にある雄大な山々をただ眺めるばかりだった。
月に何度か山へ通い始めると、愛犬を失った悲しみは少しずつ癒えていった。
そして夏のある日、私は北アルプスに涸沢カールという紅葉の名所があり、登山ツアーが組まれていることを知った。アルプスの山に登れる自信はないが、涸沢までなら行けるかも知れない。
思い切って申し込んだツアーに、山岳ガイドとして同行していたのが伊藤さんだった。
紅葉の時期に徳澤園に泊まれるということもあって、コロナ禍にもかかわらずツアーは大盛況であった。汗ばむほどの暑さの中、伊藤さんを先頭に我々一行は順調に歩みを進め、予定通り涸沢に到着した。
平衡感覚を失いそうな巨大なカール状の地形。青空を背に迫りくる穂高連峰の圧倒的な存在感。
はじめて北アルプスの山々を間近に見た私は、赤や黄色に彩られた涸沢の紅葉よりもそのダイナミックな地形に目を奪われた。壮大さのあまり遠近感がまるでつかめない。山のオーラを肌で感じ、アルプスへ来たんだという実感が湧いてきた。
涸沢ヒュッテのテラスで昼食をとる時、私はたまたま伊藤さんと同じテーブルにつき、向かいの席には60代位のご夫婦が座っていた。ご夫婦は気さくな方々で、それまでに参加した登山ツアーのエピソードをいろいろと聞かせてくれた。その中で屋久島のガイドの話が出てきた。奥様の話によれば、現地ガイドの一人がその奥様の歩き方を見て、「ひょこひょこしていて変な歩き方ですね」とみんなの前で言い放ったのだという。伊藤さんは同じテーブルにいてもほとんど無言を貫いていたので、会話に参加しているのかどうかもわからなかった。しかし、彼は屋久島のガイドの話を聞くなり顔を上げ、目を見開いて「それはひどい。信じられない」と呟いた。伊藤さんはきちんと会話に参加しており、屋久島のガイドの失礼な言動に心底驚き、もっと言えば同じガイドとして怒りや軽蔑に近い感情を抱いたようであった。彼の真っ直ぐな性格が伝わってきて、真面目ないい方だなと思ったのを覚えている。
涸沢からの帰り道、横尾から徳澤園へ向かう林道で、私は伊藤さんのすぐ後ろを歩くことになった。山岳ガイドになる人とはどんな人なのだろう。折角の機会だと思い、私は彼に話しかけ話題を振ってみた。その中でカラコラム遠征の話が出てきた。コロナ禍のせいで延期になっているが、コロナが落ち着いたら彼はカラコラムという山域へスキー遠征に行くのだという。カラコラム?と聞き返すと、カラコラムは広義ではヒマラヤの一部で、有名なK2のあるところだと彼は説明してくれた。ヒマラヤにK2。この方はスキーをするために、そんなすごいところまで行かれるのか。具体的なイメージは湧かなかったが、とにかく伊藤さんが「すごい人」なのだということがわかった。
そのようなすごい人に、私のささやかな山登りのガイドをお願いするのはとても気が引けたのだが、帰り際に伊藤さんが名刺を渡してくれたので、ツアーから戻った私は勇気を出して彼に連絡をとってみた。自分はどうも岩歩きが好きらしく、もっと岩場を歩いてみたいと思っていたものの一人で行くには怖すぎて、どのように練習を始めればいいのかわからなかったのである。伊藤さんは私の相談に丁寧に応えてくれ、幸いなことに翌月から毎月、岩歩きのトレーニングをして貰えることになった。
山梨の乾徳山、埼玉の二子山、群馬の子持山、栃木の古賀志山、長野の京が倉。
初心者にも歩ける岩場がたくさんある山を、私は毎月伊藤さんに連れられてみっちりと歩いた。
妙義山は例年よりも早い山ビルの出現により、まさかのヒル撤退となってしまったが、その代わりにクライミングの聖地である小川山にも連れて行って貰った。
私の前を歩く伊藤さんはいつもサイボーグのようで、歩調が乱れるということがない。そのおかげで、私も自然と一定のペースで歩くようになり、それが疲れないためにも大切であることがわかってきた。段差を登る時の姿勢については、身体をくの字に曲げずに、腰を前に出して持ち上げるようにと、初回のトレーニング山行ですぐに直された。装備の揃え方は彼が送ってくれる装備表から学び、荷物の整理の仕方、休憩の取り方、水分と行動食の取り方、温度調節の仕方などの登山の基本は、彼と一緒に行動することにより自然に身についた。伊藤さんは多くを語らずとも常に私のお手本となり、折に触れて装備やウェアに関するアドバイスもしてくれた。また、ハーネスの装着方法や8の字結びの作り方、ビレイの仕方、懸垂下降など、クライミングの基本となる知識や技術も教わることができた。
春が過ぎ、夏山シーズンが近づく頃、私は伊藤さんと一緒に南アルプスの鳳凰三山に登ることになった。私にとってははじめてのアルプス登山である。沢沿いの登山道であるドンドコ沢ルートを選び、南精進ヶ滝や五色の滝の景色を楽しみに頑張ろうと張り切っていたところ、伊藤さんから登山計画書が届いた。見ると、二日目の朝の予定に「オベリスク登攀」と記されている。伊藤さんは私の岩好きを見越して、地蔵岳の山頂にあるオベリスクの登攀を登山計画に入れてくれたのだ。はじめてのアルプスというだけでも私にとっては大イベントなのに、その上オベリスクにも登れるとは。ガイドさんはこんな夢まで叶えてくれるのか、と私は感激した。
オベリスクの登攀では、頂上にある大きな二枚岩の基部で私が伊藤さんのビレイをした。二人しかいないので仕方がないが、経験が浅く体重も軽い私のビレイとあっては、彼も怖かったに違いない。彼にとっても鳳凰山ははじめてだというから、当然オベリスクに触るのもはじめてだったはずである。しかし、そんな素振りは微塵も見せずに、彼は登山靴のままでガスで湿ったほぼ垂直の岩をこともなげに登り、私を上まで引張り上げてくれた。オベリスクの頂上に立って手を振る私に、前日の夜に鳳凰小屋で一緒に宿泊していた男性二人が、下の方から「かっこいいよー」と声を掛けてくれた。さすがに高度感で足がすくんだが、高揚感も半端ない。ロワリングの準備をする伊藤さんは、彼の手元を見ながらロープの便利さに感心する私に気付いたらしく、「ロープって面白いでしょう」と言って、まるで荷物を下ろすかのように私をするすると岩の基部まで下ろしてくれた。
そのオベリスクを近くの山から眺めてみようと、1ヶ月半後に私は一人で甲斐駒ヶ岳を登ってみた。これが、はじめて一人で登るアルプスだった。早朝に七丈小屋を出発して山頂へ向かう途中、木々の間から美しいグラデーションを描く朝焼けを背にしたオベリスクが見えた。その後ろから富士山も顔を覗かせている。空の色は刻々と変わり、今度は薄青色の空にもう少し濃い青色の富士山と墨色の鳳凰三山のシルエットが重なり、まるで一枚の格調高い日本画を見ているようだ。それは単なる美しさを超えた神々しい光景であり、日本で山岳信仰が生まれた理由がわかるような気がした。甲斐駒ヶ岳の山頂に立った時、私はいつの間に自分にこんな力がついたのだろうと不思議に思った。道迷いや体力不足、天候の急変、熊の出没など、山登りにはさまざまなリスクがあり、私は今でも山に入る前は怖くて仕方がない。しかし、伊藤さんとのトレーニング山行では、私は叱られることはあってもそのような心配は一切せずに、ただただ楽しく山を登り、技術を学び、経験を積むことができた。その結果、自分でも気づかないうちに山に慣れ、一人でも落ち着いて行動できるようになっていたのである。
伊藤さんの後ろについてマルチピッチの入門ルートを登ったのは、その翌月の秋のはじめのことだった。青く果てしなく広がる奥秩父の空にはさまざまな形の雲が躍動し、太陽に照らされて白く光り輝いていた。山々は滑らかに連なり、山肌には雲の影がくっきりと映っている。松の木のある狭いテラスから眼下に広がる緑の絨毯を目にした私は、山頂から景色を眺める時とはまた違う新たな感慨に打たれ、不意に泣き出しそうになりながら「岩の上からこんな景色を眺められるのは、ずっと先のことだと思っていました」と伊藤さんに言った。彼はいつもの明瞭な口調で「山には山の文化があって、先輩が後輩の成長を見ながら少しずつ技術を伝えていくんです」と教えてくれた。それから、煌めくような日差しが降り注ぐ奥秩父のびやかな景色に顔を向け、「今日山を登っている人は幸せだ」と呟いた。伊藤さんと私とではあまりにレベルが違いすぎるため、その時はピンとこなかったのだが、今ならわかる。伊藤さんは、こんな私でも山を愛する後輩として扱ってくれていたのだ。
このように伊藤さんのトレーニングのおかげで私の山の世界は大きく広がったのだが、そればかりでなく一緒に山を登ることにより、彼の山を愛する気持ちが山を通じて私に届くようになったのも忘れがたい経験となった。
3回目の岩登りトレーニングで、群馬の子持山に行った時のことである。
子持山の標高は1300mほどで、雪があるかどうかは登ってみないとわからないという。木漏れ日の中を歩き出し、太鼓橋を渡って屏風岩と呼ばれる大きな岩の前を通り、狭い登山道に入った。のっけからの急登に、12月も終わりだというのに一気に汗が噴き出てくる。痩せ尾根に出ると、獅子岩という獅子の形をした大岩が見え、楽しい尾根歩きの時間が続いた。しばらくすると足下に雪が目立ち始め、見れば岩には氷が張り付いている。日光が雲に遮られると風の中で粉雪が舞い始め、獅子岩に着く頃には風は一段と強くなった。顔が冷たくて強張っているせいか表情がつくれず、内側は高揚感で溢れているのに笑いたくても笑えない。まだ晴れた日の山しか知らなかった私は、岩陰にしゃがんで冷たいパンを口にした時に、はじめて山の寒さを思い知った気がした。もしも一人だったら、怖くなっていたことだろう。でも、今自分は一人ではないばかりか、山のプロと一緒にいるのだ。この安心感は私にとって途轍もなく大きく、寒風吹き荒む中で冷え切ったパンを齧っていても、楽しさの方が上回っていた。
獅子岩を離れて山頂に続く稜線を辿る。高度が上がる毎に積雪量が増え、気がつくと狭い登山道はすっかり雪に覆われていた。風は一向に止む気配がないどころか強まるばかりである。山頂まであと小一時間という辺りで、伊藤さんが「ちょっと待ってもらっていいですか」と言って立ち止まりザックを下ろした。彼が革のグローブの下に薄手のグローブをはめるのを見ながら、寒い時はグローブをこんな風に重ねて使うのかと私は思った。冷たい風のせいで体感温度は実際の気温よりもずっと低かったに違いない。私はというと、転んではいけないという緊張感のため、そこまでの寒さは感じていなかった。ただ、この先も強風の中を足下の雪や氷に神経を擦り減らしながら歩き通せる自信はとてもなかった。そのタイミングで伊藤さんが私にこう訊ねた。「これから山頂に向けて風が更に強まりそうです。お聞きしたいのですが、それでも登頂を希望されますか?」私は即座にいいえ、と答えた。トレーニングが目的なのだから登頂へのこだわりはない。むしろ、伊藤さんがちょうど良いタイミングで私の意思を確認してくれたことにプロらしさを感じ、心の底から安堵した。
登りとは違うルートで下山を開始した。稜線を離れると風はぱたりと止んだが相変わらず気温は低く、下山で緊張が少し解けたせいか動いていても身体が冷え切っているのがわかった。休憩の時に私が無言のまま固まっていると、伊藤さんは自分のテルモスから熱い紅茶をカップに注ぎ、私の口元へ運んでくれた。それは甘くて、数口啜るだけで身体の内側から力が湧いてくるのがわかった。少し元気になった私はふと思いつき、懸垂下降というのをやってみたいと頼んでみた。すると伊藤さんはちょうど良さそうな場所をすぐに見つけ、木に支点を取り、お手本を見せてくれた。はじめての懸垂下降は自然の中のアトラクションのようでとても楽しく、少しも怖さは感じなかった。この時、彼はロープをしまいながら、ロープを木や岩に引っ掛けて回収できなくなる人達のことを「どんくさい」と表現していて、彼の内に秘めたプライドを垣間見たような気がしたのだが、たしかに山の中での伊藤さんは何をしていても手際がよく、身のこなしも綺麗に見えた。ロープを束ねるのもとても早かったように思う。おそらく彼には山のプロとしての美学があったのだろう。そして、それは単なる格好の問題ではなく、安全に繋がるという合理的な発想に基づくものであったに違いない。
その後はひたすら緩やかな樹林帯を歩いた。日陰の斜面にある広々とした林の中は、まだ午後も早いというのに仄暗く、まるで時が止まったかのような静けさだ。稜線で目にした荒々しい山の顔とは打って変わって、そこには穏やかな山の顔があった。静寂に包まれた幻想的な林に、自分たちの足音だけが響いていた。空気はたっぷりと水分を含み、葉からこぼれ落ちる雫の音が聞こえてきそうだ。あちこちで横たわる倒木を軽々とまたぎ、濡れた落ち葉の上を慣れた足取りで歩く伊藤さんは、山の静謐な美しさを味わっているようだった。
私たちは長い間一言も話さずに歩いた。
彼の背中が、ここにあるもの全てが山からの贈物であり、それらを感じられること、それらがわかることは幸せなことなのだよ、と語りかけているように見えた。あの時全身で味わった山の静謐な美しさは今も私の中に生きており、目を閉じるとその光景がありありと蘇ってくる。
ようやく登山口に着き、その日の山行を振り返りながら、こんな風に一日で四季を味わうような経験したのは初めてのことだと思った。身体の疲れはもちろんだが、あまりにたくさんのことがありすぎて頭の中がその日一日のことで一杯いっぱいになってしまっている。思わず、「どこか遠い国を旅してきたようです。今朝、自分がどこで何をしていたかすら思い出せません」と私が言うと、伊藤さんは「それはよかった」と満足そうに微笑んだ。「それだけ充実していたということですからね」
思い返すと、私の前では「それはよかった」というのが、寡黙な彼の口癖であったかも知れない。私が喜ぶ度に、いつも「それはよかった」と言ってくれた伊藤さんは、一見無口でクールに見えるが、控え目な優しさと独特のユーモアを併せ持つ真っ直ぐな心の持ち主だった。
実は、彼は私にスノーボードを最初に教えてくれた人でもある。雪山の景色を眺めながら斜面を滑るのは、どんなにか気持ちいいだろうと思った私は、ある時伊藤さんにスノーボードの先生を紹介してほしいと頼んでみた。彼はガイド仲間にあたってくれたが、あいにく私と日程が合わなかったため、よかったら自分が教えます、ということで彼自身が教えてくれることになったのだ。プロスキーヤーとしてスキーガイドをしていた伊藤さんだが、学生時代はもっぱらスノーボードをしていたのだという。
白馬のスキー場での伊藤さんは、転んでは立ち上がり、少し滑ったらまた転ぶ、という一連の動作をひたすら繰り返す私を根気強く見守ってくれた。私にとってスノーボードは想像していた以上に難しく、最初は山登りとは比較にならないほど辛かった。それでも、その年はコロナ禍のせいでゲレンデが空いている上に積雪が多く、初心者がスノーボードを練習するには理想的な環境であり、実際私はどれだけ転んでも怪我をしなかった。
ある雪晴れの朝、伊藤さんは私に「まだ晴れた日の雪山は見たことがないでしょう」と言って、岩岳のゴンドラで山頂へ連れて行ってくれた。はじめて見る冬の北アルプスの絶景に私は息を飲んだ。澄み渡った青空の下、雪に覆われた白馬三山が目の前に迫ってくる。日本の山はなんて美しいのだろう。同時に、白馬の山のスケールの大きさや急峻な斜面を目の当たりにして、バックカントリーのガイドでもある伊藤さんのすごさを改めて思い知らされる気がした。刻々と変わる自然を相手にいい雪がありそうなエリアを選び、メンバー全員が安全に楽しく滑れる斜面を探し当てて案内するのは、別の言葉で言えば、遊びと称しながら人の命を預かることでもある。ご本人が申し出てくれたとは言え、そんな人を初級者用のゲレンデで日がな一日七転び八起きのような練習につき合わせている自分が恥ずかしくて仕方がなかったのを思い出す。それでも伊藤さんはガイドさんらしく、飲んだり、食べたり、景色を見たりと適度な休憩をはさみながら、私のスノーボードの練習が捗るように配慮してくれた。そして、シーズンが終わる頃になると、私は覚束ないターンで何とか山頂から麓まで下りて来られるようになった。これは自分にとって貴重な経験となった。諦めずに身体を動かし続けると、ある時できなかったことができるようになる。それまでスポーツとは無縁だった私は、そのことをはじめて身を持って知った。長年スポーツに親しみ、スポーツを通じて多くの人と接してきた伊藤さんは、きっと誰にでもそのような変化が起こり得ることを知っていたのだろう。彼には「山を長く楽しむために一番大事なのは、とにかく登り続けること」とよく教えられた。元々の体力や年齢は関係ないという彼の言葉に、私はどれだけ励まされただろう。スノーボードやクライミングをこれまで諦めずに続けて来られたのも、間違いなく伊藤さんのおかげだったと思う。
このように頼もしくて格好いい伊藤さんが人生を賭けて追求したスキーアルピニズムは、私の登山とは全く次元の異なる究極のスタイルである。
それでも、何千、何万という一歩の果てに迎える登頂の瞬間や、最終ピッチを登り詰めて岩の上に立つ瞬間は、それまでの努力と情熱がその一瞬に結実したかのような手応えのある瞬間であり、その瞬間に内側から湧いてくる生きているという実感は、次元は違えど山を愛する者たちにとって、ある種の共通する感覚なのではないだろうか。
自分の命の核心に触れるような、名状し難いあの感覚。
全身を満たすあの感覚には圧倒的な力があり、それは生命の力そのものなのではないか、と私は思う。
伊藤さんにとって山とは遊び場であり、仕事の場であり、癒しであると同時に挑戦の場であり、自分の居場所でもあったのだろう。
山から受けとった贈物の全てを再び山へ向かう情熱に変えて、伊藤さんは真摯に、ひたむきに山と向き合い続けた。
そんな美しく潔い人生を送ったガイドさんから山を教わることができたのは、身に余る幸せであったと言うほかない。
ロープを握りながらたくさんの写真を撮ってくれた伊藤さん。特に、お天気のいい日にはその数は何十枚にも及んだ。自然の中で身体を動かす自分があまりに楽しそうで、私は彼が撮ってくれた写真の中に知らなかった自分、そして新しい自分を発見し、その度に山への想いを深めて行ったものである。
はじめての山小屋泊を前にして、やっぱり知らない人と一緒に隣り合わせで寝ることなどできないから、私だけテントで寝ることはできませんかと泣き言を言ったところ、まだ寒い季節なので身体が冷えてしまうのが心配だから、頑張って挑戦してみませんか、と優しく励ましてくれた伊藤さん。
下山後に、やれかき氷が食べたいだのジェラートが食べたいだのとわがままを言っても、嫌な顔ひとつせずにスマホでささっと調べて、どれだけ離れていても美味しいお店へ連れて行ってくれた伊藤さん。
思い返すと恥ずかしくなるようなことばかりで、私は初心者風を吹かせて、完全に伊藤さんに甘えすぎていたと思う。
今、私が抱いているお詫びの気持ちと、言葉では言い表せないほどのありがとうの気持ちが彼に届いているとしたら、どれほど私は救われるだろう。
彼は山の一部となり、自然へと帰っていった。
彼の魂は、ツリーランのように樹林帯の中を疾走し、岩稜を駆け上がり、稜線を伝って山から山へと縦走し、彼が愛した日本や海外の山々に別れを告げて天国へと旅立ったことだろう。
彼がいなくなってしまった今、彼の存在自体が山からの贈物であったのではないかと、ふと思うことがある。
伊藤さんは私にとってはじめての山の先生であり、彼と共に山を歩いた十ヶ月は、第二の青春とも言うべき密度の濃い、まるで奇跡のような時間であった。
僅か一年足らずの間に、私は別人に生まれ変わったのだから。
もう二度と伊藤さんの後ろをついて歩くことが叶わないというこの悲しみは、おそらく私の中から一生消えることはないだろう。でも、この痛みを伴う悲しみを乗り越えて、私はこれからも彼が見たに違いないさまざまな山の表情を求めて山を登り続けようと思う。
そして、伝えきれなかった感謝の気持ちを山から受けとる贈物に添えて、天国の彼へ贈り続けたい。
【2024年9月22日】