帰宅拒否症の朝
ちょっと疲れが溜まっている。そんな今朝。
やっとの思いで書き進めた大学のレポートのデータが消えた。
お弁当に入れようと思っていたハムを、次男が全部食べてしまった。
10組近くあるはずの三男の靴下が、片方だけどこかにいって悉くペアが揃わない。
今日こそは幼稚園の朝の時間に間に合うように連れて行けると思ったのに、間に合わなかった。
そして、なんとかかんとか騙し騙しでも毎日学校に行ってた次男が、ついに今日は休みたいと言い出した。
些細な些細な事の積み重ねなんだけど、こんな傍から見たら笑ってしまうような事で、人間は簡単に絶望できる。
前に友人に、夜中に溜まった洗濯物を見て泣いた事が何度もあると言ったら驚かれたけど、本当にそんな事でどうにもならないくらいの絶望に陥ることができるから、人間って不思議だ。
こだわりが強くて依存が強く、安心できる場を増やしにくい特性を持つ次男が、学校に行かないという選択をすると、それはつまり家にいるという事になる。
同じくらい安心できる場をそんなに多く持てない私も、家で一人でゆっくり過ごす時間を持たないと、どうにも心身のバランスを崩してしまう。
今日も本当はそう過ごしたかったのに家を次男に奪われてしまったので、三男を幼稚園に送った後、どうしても家の中に入ることができず、近くの公園に逃亡して、芝生に寝転びながらこれを書いている。
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時々無性に一人になりたくなる。
次男と同じような依存的な特性を持つ息子さんを育てる友人は、時々一人旅に行くようになって、やっと自分のバランスが保てるようになったと言っていた。
私は一人旅はまだできていないから、あくまでも想像上でしかないけど、その気持ちはよくわかる。
とにかくあれもこれも全部放り出して、ただただ一人の人間として解き放たれたくなる。
多分、私がこんなにもピアノを弾いている理由はそこで、音を奏でている時だけは、私はどこまでも自由になれる。
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次男が学校に行かないのはなぜなのか。
そもそも学校には行かないといけないんだろうか。
次男は、私は、学校に何を望んでいるのか。
それは本当は、誰の何のためのものなのか。
普段、人にぶつけている問いが自分のもとに返ってくる。
社会に対して鋭い刃を向けている分、もちろんそれは自分にも突き刺さり、その結果、自分で自分の逃げ道をどんどん塞いでいく。
人に対してはどこかでストップしようと心がけるこの行為を、自分に対してはどこまでも止められなくて、自分で自分を八方塞がりにする事もよくある。
あまりの自傷行為にバカバカしくなって、やがて外に出て人と話をして、やっとバランスが取れるようになる。
多分、そんな事を繰り返しながら、私は生きてきている。
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次男が楽しく学べる学級だったら
先生たちにもっと余裕があったら
先生たちが余裕を持てるような教員配置だったら
そんな予算が教育に割かれるような国の政治だったら
社会の中で障害者がもっと受け入れられていたら
当たり前に障害者と共に生きていく暮らしをみんながしていたら
そんな余裕があるくらいの時間軸の中でみんなが過ごせていたら
それくらい経済的に余裕のある暮らしをみんなができるような政策がとられていたら
一人ひとりの問題を家族だけで抱えずにいられたら
問題を受け止めてくれる人たちとちゃんとつながることができたら
地域の中にもっともっと居心地のいい居場所があったのなら
そんな人や居場所にちゃんと国や地域の補助が届いて安定した運営ができていたら
そもそも、そこまでみんなが何かを犠牲にして働かなくても成り立つ社会だったら
豊かではなくても幸せに過ごせると思える社会だったら
一人ひとりが生きていてよかったと思える社会だったら
そんな国を、地域を、学校を、仕事を、家庭を、個人を、
つくって支える「社会」の有り様に
「社会」をつくる行政や政治の有り様に
みんながもっともっと興味を持って
おもしろがれていたら
そしたら、今朝の私の絶望はなくなるんだろうか。
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そんなことを思いながら
公園の芝生で、雲ひとつない空を見上げて
深い深い呼吸をして
どんなに目の前の状況に絶望しても
最後の希望だけは捨てたくないと思うから
今日も、這ってでも、一歩前に進んでいく
さぁ、帰ろう