「隙がないこと岩の如し」な件
またまたジェーン・スーさまのエッセイから。主題をいただきます。
エッセイでは「隙」は次のように定義されています。
・弱さや無能さの発露だと思っていた
・場の流れを漕いでゆく船の舵を手放すこと=相手に余裕を与えること
・作るものではなく、堪えることや任せることや信じることで生まれるもの
もう薄々勘づいている方もいらっしゃることと存じますが、わたくし生きてきて数十年、特に社会人になってからというもの、「隙がない」と言われ続けて今に至ります。
今回は「隙」と「好き」をかけます。「好き」って弱くなること、「好き」って相手に委ねたくなること…と思うと、「隙」と「好き」って似てますね。(世紀の大発見というよりは、先人が使いまくったフレーズ…)
隙を見せられない人と一緒にいると、うまく息継ぎができないことが多いです。相手ばかりか自分にも余裕を与えていないのだな、と反省です。苗字にも「岩」がつくので、「岩のごとし」ってもはや「我のごとし」とすら思われます。
とはいっても、全方位型の岩ではないんです。同性や既婚の年上だったり落ち着いた男性に対しては、けっこうすぐ「好き」な部分を見つけて、「隙」を見せられるんです。
ただ、「俺、まだまだ現役だぜ」とギラギラした異性とか、「ひれ伏さずにはいられないほどの素敵女子」に対しては、ものすごく身を守ってしまいます。どこか、自分を傷つける存在として畏怖しているのでしょう。
(そんなこと思ってたら、余裕もなく疲れるわけです)
みんなに好かれたい、よく見せたい、そう思っているんだと思います。
好きな自分を見てほしくて、弱い面、自分が見せたくない面は必死に隠してるのだと。
だとすると、「岩」のようにどっしりと構えられてるわけでもなくて、「自信のなさや劣等感という心の重し=岩」なのかもしれません。
隙をつくるには、自分を好きになって、自分に余裕を持つことが大切に感じます。写真のように、岩からも生命は生まれます。心の重しをすべて取り除くことはできなくても、生命を育めるほどの許容力のある岩になろう、、また一つ、決意表明です。