海外駐妻になることになった。
私の父親はアメリカの大学院を出て、米国企業で働いていた。同僚はほぼアメリカ人、私もインター保育園みたいなところで幼少期から海外から日本にきてる子供達と絡んでいたような記憶がある。母親はドイツの帰国子女でドイツ語学科、英語の先生だった。そんな両親からは、何度もアメリカに連れて行ってもらい、「日本の大学生は自分たちもそうだったが、遊んでばかりだからいかん。英語を勉強してアメリカの大学に行けば」と言われて育った。英語はいつも一番成績が良かったし、連れて行ってもらったNYもLAも大好きですっかりアメリカンカルチャーかぶれ。このままUCLAかコロンビアを目指して、アメリカのエンタメ企業で働く!!!と中学時代には思っていたが、ある日突然父親が会社を辞めて独立した。高校に入ると、「アメリカの大学行かせるほど経済的な余裕はないから日本の大学にしなよ〜〜〜」とあっさり言われ、そこで自ら奨学金をとっていくほど私も意識も高くなかったし、当時できたばっかりの慶應の彼氏と浮かれていたのであっさりと、志望を慶應SFCに変更した。
大学に入ると毎年短期留学には行き、広告会社への就職が決まった年には、長期で一人NYに住んでみたりはしたが、その時点でなんとなく薄ぼんやりと「あーこれで日本のエンタメ会社入って、海外に住むことはないだろうなー」と思ったのを覚えている。就職すると、私はしっかり日系エンタメ会社ドメドメ道を歩みはじめ、海外転勤などは無縁。ピシッと社畜になっていたので、大変失礼ながら自分の仕事もなく、夫についていく駐妻は、絶対に私には無理だと思って商社合コンは1年目でいくのをやめた。
結局出版社に転職した今も海外転勤はない部署で働き、仕事で英語を使うことは皆無な日々。それでもなぜか、自分の中での諦めがつかないのか、、、自分でもようわからないが、しょっちゅう英語のレッスンを始めてはやめて、を繰り返していた。
転機が訪れたのは夫と結婚直前の夏だった。某外資系会社から転職オファーをもらったのだ。英語マストであることも大きかったがその時初めて自分はそもそもアメリカのエンタメ企業で働くのが夢だったことを思い出した。かなり悩んだが、まだ今の仕事で何も達成していないし、年齢も年齢だったので、結婚出産を意識してそのオファーはお断りした。(その後、その女々しい決断が悔しすぎて号泣、それを聞いた夫がその場でプロポーズ、という流れだったが)その時、「あーやっぱり私って海外暮らしに縁がないかったわ〜」と、とうとう終了のお知らせの鐘が聞こえた。
人生はわからない。そのたった3年後に夫の海外転勤が決まったのだ。「一緒に行ってくれないなら、断ろうと思うんだけどどう?」と聞かれて、今まで自分の仕事、自分軸の人生のことしか考えてこなかった私が、二つ返事で行くことを決めた。海外暮らしにずっと縁がなかった私に機会と決断するタイミングをくれたのは、まさかの夫だった。20代の時、自分には絶対に無理だと思っていた駐妻・・・30代になった今も正直、不安しかない。でもなんでも人生計画を立てて、いつも中心は自分自分!だった私が相手によって先が見えない未来に一歩、歩み始めたことは大きな変化だ。夫は9月からまずは単身赴任。私はまだいつから行くか決まってないのだが、あんまり不安にならずに、「なるようにしかならない」という私の辞書にない言葉を胸に、今は毎日を過ごしている。
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