【エッセイ】プリンアラモードはおふたりで
最近「やりたいことリスト」を日々更新するようにしている。
経験でもいいし、欲しいものがあればそれを買うでもいい。気になっていた本を読むでもいい。
とにかく自分の「やりたい」を見える化してみている。
ここで注目したい私得私的画期的ポイントは、「私はまだこんなにもやりたいことがあるのだ」と知ることができるところだ。
そしてそれらは「やりたいこと」であると同時に「未来を生きる理由」でもある。
4年前、そんなこと思いもできなかった私にとって、これらは大いに画期的なのである。
鬱になってから4回目の夏が来た。年々暑くなっているようだが、このままだと日本は亜熱帯地域にでもなるのではないかと思う。
3年前の夏はこんなに暑かっただろうか、と思い出そうとしても、ひたすらに死にたかった私は、そのときの暑さを覚えていない。
一度死んだと言ってもいい4年前を反芻しては、「私はきっとここで人生を間違えたんだろうな」と思い、悔しくなる。頑張れなかった自分。環境に適応できなかった自分。
きっと未曾有の感染病のせいも僅かながらあっただろうが、それはそれとして、今の私はあの頃のことを「悔しい」と思えていることに自分自身びっくりしている。
我ながらよく立ち直っていると思う。
「自分」と「死」と向き合ったこの3年。後悔なんて死ぬほどしているし、過去に戻れるなら今すぐ戻りたい。
ただ、そう思ったとて過去には戻れないことを私は十分に理解した。
私にあるのは「今」と「未来」しかないのだ。
「死」は「人生を終わらせる」という意味では人生の中の選択肢になった。
選択肢に入ったことでむしろ「いつでも死んでもいいか」と逆に開き直っているまである。
けれど「やりたいこと」が思いつくうちはそれを選ぶことはないだろう。
今月のやりたいことリストの中の1つ。「プリンアラモードを食べる」。
私は今1人で喫茶店に来てこれを書いて(スマホで打って)いる。肝心のプリンアラモードは想像していたものより大きく、1人では食べきれそうにない。今度食べる時は2人で食べなければ。次来る時はこれまた美味しそうなチーズケーキも食べたい。
「やりたいことリスト」に「美味しいチーズケーキを食べる」と追加して、私は美味しいプリンをすくうのであった。