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【高野麗子ってどんな人?2】じ○つ未遂、夢は人を56し、夢が人を生かす。



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SNSからの販売総数6000件超えコンサルの、 高野麗子です。

この記事は、こちらの記事の続きだよ♪

さて、きゅうりのキムチと一緒に床に転がっていた、
自○未遂の母を見るたび、

私は、

「どうして自分がいつも第一発見者にならなくてはいけないのか?

父が帰ってくるまでに、それを1人で見ていなければならないのか」

一人っ子だった私は、それが辛くて、泣き崩れていました。

そして、

「母の思うような子になれるように、
頑張って、がまんして、生きているのに、

どうして、この人は私を置いて、
この世から去ろうとするのだろう?

どうして私は、何度も置いていかれるの?」

そう感じていました。



急いで帰ってきた父が、救急に運ばれる母を見て、
諦めたように笑いながら、ため息をついたのを見て、

どうしてこんな時に笑ってられるの?
と、さらに傷ついた記憶があります。

今考えてみれば、それは娘のショックを少しでも和らげようとする、
父の心遣いの笑顔でした。

でも、その時は、
それさえも受け止めることができませんでした。

わたしは、鬱状態の母に、

「どうして病気になってしまったと思う?」

と、聞いたことがあります。



その時に、母は、

「私は、人生で、好きなことをさせてもらえなかった」

とつぶやきました。



そして、この時初めて私は、

夢って、叶わないと、母みたいに、孤独になるんだ。

好きなことができなければ、我慢ばかりの人生だと、
人は孤独になって、ブランドばかり追って、
そして、病気になるんだ。

そう思ったのです。

思えば、このことが、

起業コンサルとして、誰かの夢を叶えることに、つながっていたのだと思います。



もう二度と、人生を諦めて、
鬱になり、自分の人生も終わらせてしまうような人を、
増やしたくない。

好きなことができれば、母はもっと生き生き生きていたに違いない。

明るい笑顔で生きる女性を増やしたい。

夢が叶えば、生きていく方法が見つかる。

生きていく場所ができる。

気が合う仲間ができる。

新しい人生が開ける。



無意識に、私はそれを感じていたのでした。



そして、そんなしんどい中高時代を過ごしながら、

唯一私の支えになっていたのが、学校でした。



私の中学高校は、すごくイベントの盛んな学校で。

テストがあるたびに、必ずその後にスポーツ大会があったり、
文化祭があったり、

合唱があったり、ダンスがあったり、

とても明るく賑やかでした。

私はその当時からみんなで何か1つのことをやるのが大好きで、

明るいお祭りが大好きでした。

このことが、

後の私の起業塾の、明るい校風につながっていきます。



で、そうこうしているうちに、

大学受験のシーズンがやってきました。

母が希望するような有名大学の模試の判定は、

わたしは、全て最下位の判定。。。

つまり、受かる確率は、ほぼナッスィング。

それでもどうにかして、奇跡が起こらないか?と思って、

複数受けた大学の最後の日程に、

早稲田大学の受験を入れていた私は。。。

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