【世界を手で見る、耳で見る】その一言に潜んでいるものは?
「申し訳ない」という謝罪の言葉があっても、その言葉を口にした時に相手の表情や、醸し出す雰囲気、それまでの人間関係から考えて、その言葉を口にした相手の心の中に、ほとんど気持ちがないと感じると、腹が立つことがある。
しかし、その相手と、ある程度の関係を維持しなければならない場合、「本当は、申し訳ない気持ちなんて1ミリもないでしょ?」などと、キレることはせず、「いえいえ、お気になさらずに」などと、こちらも謝罪を受け入れるふるまいをする。
逆ギレしたりなどしたら、自分自身が損することを知っているからだ。
「ありがとう」という感謝の言葉であっても、似たようなことは起こる。
「申し訳ない」と比べると、「ありがとう」は、言われて不快になる人が少ないだろうから、とりあえず「ありがとう」と言っておくことがある。
「ありがとう」と口にしておいたほうが「得」だと判断しているからだ。
そんなふうに、「言葉」が含んでいるもの(意味)と、それを口にしている人の心・頭の中にあるもの(考え、気持ち、価値観)は、必ずしも一致していないことがある。その不一致が気になって、居心地の悪さもあって、時々考えることは、これまでもあった。
しかし、堀越喜晴さんの著書「世界を手で見る、耳で見る」を読んで、
言葉を通して、人の心・頭の中にあるものが表れていること。
言葉と、考えや気持ち、価値観が一致している場合に、もっと目を向ける必要を感じた。一致しているからこそ、浮き彫りになる問題がある。
著者は2歳半までに網膜芽細胞腫(目のがんの一種)で両眼を摘出している。「目でみない族」の人だ。
例えば、目で見る族が、目で見ない族の人に、「普通の名刺しかなくて、すみません」と言うことがある。
特に、ひっかかりを感じないで過ぎてしまう人もいるかもしれない。
しかし、立ち止まって、「普通」とは、何か? と考えてみる。
私自身が、名刺を受け取る立場になったとして、「あなたに渡すための「普通じゃない」名刺は、持ち合わせていなくて、すみません」と言われたとしたら、どうだろう。「あぁ、私は、普通じゃないのね」と改めて思わされる気がする。言われ続けたら、慣れっこになり、ああ、またかと思うようになるかもしれない。ただ、慣れてしまえば、それでいいという問題でないと思う。心の奥底でふつふつと、「普通じゃない」と言われることに抵抗したい気持ちが燃え続けていくような気もする。
目で見る族の私自身を振り返ると、自分が何気なく放った言葉にも、無意識のうちに潜んでいる偏見や差別がある気がする。気が付かないまま通り過ぎてきたことがあると思う。ただ、恐ろしいのは、気がつかないままでいることだ。
改めて、「言葉」と、その基盤にあるものに意識を向けたい。
本書には、著者が大学で授業をする中で出会った出来事や、大学生の様子などから、感じたことや考えたことをテーマにしたものも数多く、収められている。
最近の学生の態度や言葉に現れているものは、彼らを取り巻く環境や社会を反映していると思うと、希望を持っていいところと、不安に思えるところもある。
また、著者の息子さんは、2021年夏の東京パラリンピック・マラソンで銅メダルを獲得した堀越信司選手だ。
著者が患った網膜芽細胞腫は遺伝性が高く、息子の信司さんは生後40日で右眼を摘出、左眼はなんとか視力をとどめたという。
本書の中には、信司さんが、幼い時、自分の目が他の友達と違うことを自覚した時のエピソードも収められている「その時」というタイトルで綴られている一遍は、読みながら、涙がこぼれた。
本書は、子育てをされている方、教育に携わっている方に、メディアなど言葉を使う仕事をしている人などに、ぜひ、読んでほしい。
最近、読んだエッセイ集の中で、特にお勧めの1冊。
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