私のことを、私に尋ねないのは、なぜ?
ショートムービー「第三者返答」https://youtu.be/56FPX_u0Y0g
尋ねるべき相手が目の前にいるのに、その隣にいる別の人(第三者)に尋ねてしまう。
なぜ、本人ではなく、第三者に返答を求めるのか。
「第三者返答」を求めてしまう(求められてしまう)理由を考えてみたい。
「外国人」「障害者」など、自分がほとんど接した経験がない属性・特性を持っている相手だと、コミュニケーションをするのに不安や恐れ、戸惑いなどが生じるかもしれない。その心情から、本人を避け、第三者に尋ねてしまうことがありそうだ。
しかし、第三者に返答を求める行為は、本来質問をすべき相手(本人)を「透明人間」のように扱うことになる。
そこにいるけれど、その本人の意見などを聞くつもりがないと、態度で示すことになる。そもそもコミュニケーションが可能な存在として、相手を認めてさえいないことにもなる。
自分が「する」側ではなく、「される」側に立って想像すれば、
「私に尋ねてほしいことを、なぜ、別の人に尋ねるのか?」と疑問に思うに違いない。
「外国人」「障害者」ということが、第三者返答の理由だと思い当たれば、
偏見を持たれていると感じたり、差別を受けた気持ちになるかもしれない。
目の前にいる人は「透明人間」ではなく、一人の人間である。
そのことをしっかりと認識できていたら、本人に尋ねることから始まるはずだ。
母語が異なったり、対話の方法に工夫が必要な場合に、
第三者に尋ねることがあるかもしれないが、
それは本人の意思、返答を聞き出すための「支援」を求めるものだろう。
このムービーをみると、「オカシイ」と気が付くことができるが、
日常生活の中でも「オカシイ」と気が付けるかどうか。
例えば、幼い子ども、高齢の方などに接する時、
本人に尋ねるべきことを、第三者に尋ねているケースがありそうだ。
透明人間にされた時、「なぜ?」と疑問を持ち、質問した相手に「こうしてほしい」と伝えることができたら、相手の考えや行為を変えられるかもしれない。
しかし、私のことを私に尋ねてこない行為に「なぜ?」と思っても、相手との関係性から、それを言い出せないことが多いのではないかと思ったりする。
第三者返答を求めるのは「変」「オカシイ」と思うほうが一般的になるまで、まだ、時間がかかるかもしれない。
こうしたムービーは、そのための第一歩だろう。
ちなみに、動画に出演されている視覚障害者の先生役は、堀越喜晴さん。
著書「世界を手で見る、耳で見る―目で見ない族からのメッセージ」は、視覚で見ない堀越さんの視点から世界をどのように捉えているかをまとめたエッセイ。お勧めの1冊です。
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