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ディズニープリンスの幼児性について

大学入りたての頃のはなし。
ディズニープリンセスの講義があった。
アメリカ文化の教授が講師だった。
そこでは「ディズニーアニメの作品から、文化的なジェンダー分析をしてみる」というテーマで、授業が展開していた。
もう。
虜だよね。
まぁ、その話はまた今度で。


はじめに

本記事で考えてみるのは、「プリンス(王子)」側のほうである。
ファンタジーの世界では、定番のキャラクターというものがいくつかある。
騎士、魔法使い、ドラゴン、モンスター、亜人…とかとか。
なかでも美しいお姫様と、かっこいい王子様はテッパンの組み合わせである。


空想の物語は、大方、人間がつくりあげていくもの。
そして、人間は”人の間”にあるものであるので、「社会」が形成され、そこには「文化」が生まれる。
ファンタジーには、それを創作した時分の、人間の文化・テーマが反映されてるいる、と考えていいわけだ。

ということで、
ディズニープリンスに着目し、彼らから読み取れることは何なのかを考えてみる。
彼らの作品におけるキャラクターとしての役割、そこに反映されている社会的属性を読み取る試みをしてみる。

ことディズニーは、『白雪姫』(1937)に始まり、長い歴史を持っている。
『シンデレラ』(1950)『ふしぎの国のアリス』(1951)『眠れる森の美女』(1959)などが代表的な”古典のプリンセス”
『リトル・マーメイド』(1989)『美女と野獣』(1991)『アラジン』(1992)などの”自主的な近代的プリンセス”
『プリンセスと魔法のキス』(2009)『塔の上のラプンツェル』(2010)『アナと雪の女王』(2013)『ズートピア』(2016)などの”現代型プリンセス”
また最近の『ウィッシュ』(2023)『モアナと伝説の海2』(2024)などなど、およそ90年近い人類史をまたにかけて、多くのプリンセス作品を生み出してきた。
そこに各時代の女性性の反映をよみとることが可能であるなら、同様の対になるプリンスの分析から、各時代の男性性をよみとることは意味があることだろう。

さきに記すと、ストーリーを引き立てる魅力的なプリンスの特徴は、その「幼児性」=ある種の幼さにあると考える。
魅力あふれるキャラクターでしられるディズニー作品のプリンセスたち。彼女らに対して、そのパートナーであるプリンスたちは、その「成長のしなさ」という点で魅力を引き出している。

プリンスセスと対になる、男性側のキャラクターをつぶさに観察してみることで、その幼児性を明らかにしてみようと思う。


古典のプリンス

  • 白雪姫』……王子(プリンス): The Prince

  • 『シンデレラ……チャーミング王子 : Prince Charming

  • 『ピーター・パン』……ピーター・パン : Peter Pan

  • 『眠れる森の美女』……フィリップ王子 : Prince Phillip

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの長編アニメーションは、世界初のカラー長編アニメーションである『白雪姫』(1937)からはじまる。
この時期は、映像化の進歩に伴って、これまでになかった、古典のアニメーション化という形でぞくぞくと作品を生み出していった。
そのスタンスなもんで、元ネタとなる古典は、昔からの童話や寓話が扱われる。その対象は、大人よりも子どもであるのは明白である。


そうしたわけで、プリンセスというものを「子ども(女の子)の憧れ」を反映させたものとして”古典のプリンセス”はとくに描く。『白雪姫』『シンデレラ』などは、まさしくわかりやすい。

不幸な生い立ちを経た女性が、高位の男性と出会い、結ばれることで幸福を手に入れる、いわゆる「シンデレラストーリー」の特徴をもれなく持ち合わせているといえるだろう。


こうした中での、プリンスはどういうものがあるか。
多くの古典作品において、王子役=プリンスはけっしてメインの位置に置かれない

不幸からの成り上がりである「シンデレラ・ストーリー」にふさわしいのは、美女であったり子どもであったり、何かしら社会的立場のウィークポイントを含んだキャラクターの方だ。あくまでプリンスは、そういった主役たちの引き立て役でしか登場を果たさない。


そうした意味で、彼らは物語の”仕掛け”の一つである。仕掛けは物語のふさわしい箇所で、ふさわしい働きをしなくては意味がない。彼らは不幸な物語を、幸せな物語へ終結させるために働かなくてはならない。
だから彼らには「成長」がない。物語を通じて、困難に立ち向かったり、佳境に追い込まれたりする機会すらない。すでにキャラクターとして完了した状態で登場し、その状態のまま主役の手を引いていく。

また、古典の特徴としてあるのが、プリンセスとプリンスの間にある「恋愛関係の希薄さ」である。どういうことか。
プリンセスとプリンスが出会い、結ばれることで幸せをつかむのが古典のストーリーである。しかし二人を結び付ける関係性には、ほぼいっさいのやりとりが為されないである。『白雪姫』『ピーター・パン』においては、一目みただけなのに親密となる。『シンデレラ』『眠れる森の美女』においては、ほぼ初対面である。こういったところから、古典のプリンスには「(関係性においては)思慮の短絡さ」よくいえば「楽観主義」のような幼児性も見て取れるのではないだろうか。


近代的なプリンス

  • 『リトル・マーメイド』……エリック王子 : Prince Eric

  • 『美女と野獣』……野獣 / アダム王子 : Beast / Adam

  • 『アラジン』……アラジン : Aladdin

  • 『ポカホンタス』……ジョン・スミス : John Smith

  • 『ノートルダムの鐘』……カジモド:Quasimodo

  • 『ムーラン』……リー・シャン : Captain Li Shang

  • 『ターザン』……ターザン : Tarzan

近代は、1800年代・イギリスの産業革命にはじまるといわれている。
それまでの封建的な社会から、資本主義・労働者の誕生した社会へパラダイムシフトしたのが、古典の次に来る。
そうした社会では、それまでの閉ざされた生まれの性(さが)から脱するための「シンデレラストーリー」は機能不全を引き起こす
個人個人が、手に職をつけることが推奨され、生まれながらの生い立ちがその後のキャリアに与える影響というものが、風化してしまっているためである。


近代的な社会における女性像(プリンセス)は、「積極的な自立性」にある。ある意味で、生まれながらの性から捉われない(=脱却すること)をテーマに持っているといえるだろう。たとえば『アラジン』におけるジャスミンはいい例だ。彼女は生まれ持っての裕福さを兼ね備えていた。ここは『シンデレラ』と対極だ。にもかかわらず彼女は、町の放浪者であるアラジンと結ばれることを選んだ。ここに、自らの意志と能力によって自分の人生を作ろうとする、近代のプリンセス像がよくみてとれる。


そうなると、プリンス側にも、これまでとは異なる形が求められる。
近代のディズニーは、古典に比べてプリンス主役の作品が多い。『アラジン』『ターザン』をはじめ、『ライオン・キング』『ヘラクレス』などもこの時期だ。自立性を求められたのは、男性も同じであった。
偶然かもしれないが、この時期の男性キャラは、その”男性らしさ”を感じる要素が妙に「強調・誇大」されているように思われる

ところが、かつての封建的・父権社会においての男性は、すでに一定の自立性を担保されていた。物語の主役は、困難を突き付けられ、そこで成長を遂げねばならない。
ので、近代のプリンスはそうした、”無条件に保障された社会性”を失う体験をしていることが特徴的だ。


たとえば『美女と野獣』をみてみる。物語序盤ですでに、プリンスである野獣(アダム王子)は裕福な環境を得ている。ここはジャスミンと同じ。しかし、彼はその傲慢さから人間の見た目を失ってしまった。そして、社会から隔絶し、一切の他者(人間)から切り離された生活を送ることになってしまう。こうした、本来備わっているであろう社会性や人間性の一部を、失うor機能不全の状態に陥り、今まで通りの人生を歩めなくなった、「挫折経験」というものが近代プリンスの特徴ではないだろうか。

また、こうした挫折体験により失った社会性を、異性の存在によって取り戻していることも近代プリンスの典型的な流れだ。
ある意味で近代は、古典的な存在と新しい価値観の二つが、混淆している時期でもある。
そうした中で、自分とは少し異なる相手をどう理解していくか、という態度に価値が見いだされていく。『リトルマーメイド』のアリエルもそうだが、『ムーラン』『ポカホンタス』など、異なる社会構造に生まれた相手(異者)と結ばれることで、自分の生まれながらの性(さが)にとらわれない、新たな自立性を確立している。


近代のプリンセスは、こうした異者をつうじて別の社会へ自分を移動させている。対して、プリンスはあくまで一時的に失っていた社会性を取り戻すだけにおわり、元の社会(社会構造)の枠を飛び出してはいないのだ。彼らは近代のストーリーの中で、新たな自分に生まれ変わるというほど変化をとげられていない。自分では気づかなかった自分の側面に気づき、そうして元の社会で再び立ち直ろうとする、「変化をすすめられない不安感」「変化を恐れる自我の強さ」という精神的な未成熟さもまた、彼らの内面の幼児性として含まれるのではないだろうか。


現代型プリンス

  • 『プリンセスと魔法のキス』……ナヴィーン王子 : Prince Naveen

  • 『塔の上のラプンツェル』……フリン・ライダー : Flynn Raider / Eugene

  • 『シュガー・ラッシュ』……レック・イット・ラルフ : Wreck-It Ralph

  • 『アナと雪の女王』……クリストフ・ビョルグマン : Kristoff Bjorgman

  • 『ズートピア』……ニック・ワイルド : Nick Wilde

  • 『モアナと伝説の海』……マウイ:Maui

よく現代はいつからかという問いに、第二次世界大戦後の社会が答えに挙がる。
各国の在り方が、その近隣国を超えた世界規模に拡張された時代。あらゆるものの価値基準が、”国際的”に向けて修正することをすすめていく時代。またその一方で、そうした広大しつづける世界の中で、自分たちや個人の在り方はどうあるべきかを、改めて再解釈する必要が出てきた。
じつに多様な変化をしつづけるのが、つまり歴史の中では「現代」といわれるようだ。

そうした世界の変化に合わせて、プリンセスの在り方は「ジェンダー(社会の中での性別性)」という視点から、さまざまな形を提案していった。
現代と括ったこれらプリンセスの特徴は、近代よりもより強く自主性をもとめている。教授のことばを借りれば「男性不在のプリンセス」といえる。

顕著なのは、『アナと雪の女王』のアナとエルサ。彼女らは、姉妹二人で生きていくことを選び、むしろプリンスをヴィラン(悪)として排他するにいたっている。より女性性以外の要素を重視し、個としての人間性にフォーカスしたキャラクター達である。


近代のプリンセスとプリンスにおいても、そうした”成長”に対するスタンスの差は見て取れた。自らの変化において積極的な側面の強いプリンセスは、とうとう現代において、異性の存在すら必要としなくなった『モアナと伝説の海』のマウイなど、プリンスの役割をほとんどになっていないキャラクターも受け入れられるようになっている。


すると、これまで異性や異なる存在の力があって果たせていた、”成長”を遂げるための流れが揺らぐことになる。そういったわけで、現代におけるプリンスには「自己正当化」という態度を選択している。


たとえば『プリンセスと魔法のキス』のナヴィーン王子、『塔の上のラプンツェル』のフリン・ライダーなどがいい例だが、彼らは登場シーンから始まり、常に人生を謳歌しようとする態度をみせている。
これは古典プリンスのもつ社会的地位や、近代プリンスのもつ保障された社会性とは、また異なっている。彼らは、「どうやって”今、この瞬間”の自分を幸福にするか」という一極したスタンスをとって、プリンセスはじめ周囲と交わっていく。
ここに、異性を必要としなくなったディズニーにおけるプリンスの態度が分かる。リスクをとって新たな地位・成長をとげようとするのではなく、現在の状態で叶う範囲で最大の幸福をつかもうとする、今までで一番「消極的」な姿勢をとっているとみてとれる。

そこには、プリンセスに対する観方が変化していることも関係するだろう。
かつて古典では、プリンセスに求められたのは「社会的弱者感と、それを覆す美貌」でる。それが近代では「自らの性にとらわれない、新たな世界への積極性」が魅力になってきた。

では現代では?美貌などは、価値の多様化した社会ではブランドになりづらい。積極性や成長への考え方もまた、個々人の価値観にゆだねられてしまう。つまるところ、現代という時代は、「他者に向けた(他者のための)価値」にエネルギーを費やさなくなっているのだ。それよりは、自分にとって価値のあるものへ気持ちが動いてしまう。


だからこそ、現代プリンスが相手に求めるものは「相手からの受容感」なのだ。それは自らの挫折経験を踏まえた、立ち直った自分を受け入れてもらおうとする近代プリンスよりも強い受容だ。『ズートピア』のニックをみると、彼のキャラクターとしての魅力は、物語の中でたしかに変化しただろう。
しかし、彼がとる生き方のスタンスや価値観は、冒頭から大きく変わっているとは言えない。変わったのはむしろそれを受け入れたプリンセス(この場合はジュディ)の方にあるだろう。こうした「自分ではなく、他者が変化することで自分を受け入れてもらう」という「自己正当化を丸投げ」している姿勢が、現代プリンスのもつ幼児性ではないだろうか。


まとめ

ディズニーのプリンスを、古典・近代・現代の三つに区分し、「幼児性」という点でそれぞれの特徴を考えてみた。
おもえばキッカケは、ディズニープリンセスとプリンスの「推しカップル」に関する討論を目にしたからだった。そういった、好きなものを好きだといえること、さらに周りにも好きを共有する姿勢を、素直にいいなと思ったからだった。

とおして思ったのは、これほどまでに長い歴史をもった作品群に、じつに多様なキャラクターたちの関係性が、創作されてきたというそのボリュームに、あらためて感動を覚えた。
そりゃ、Dオタとよばれる、ディズニー大好きな熱狂者が、大きなコミュニティをもつことも納得。
ひとつとして同じようなプリンセス・プリンスはいないし、その関係性もまたそれぞれあり、個々に魅力がある。そうしたものの中から、自分にとって惹かれるものを見つける楽しさ・喜びというものも、ディズニーキャラクターにハマっていくには十分な要素だといえる。


さらに、そうしたキャラクターたちのとる態度が、何かしらの社会の姿を映し出す機能を果たすということもある。この駄論で、少なからずそれが感じられたのであれば、これから先、ディズニー作品に対する観方というものがより一層の面白さを帯びてくれるのではないかと思う。。


すべてのパートナーに、ハッピーエンドを。

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