「”正義”のために戦う人」が少ない日本はマイノリティにとってむしろ安心です
最近ヨーロッパの美術館が相次いで環境活動家の標的になっています。
環境活動家たちの主張やそのやり方の是非についてはさておき、やっている人たちは「自分は”正義”のために戦っている!」と心の底から信じて疑わないので、中国共産党のように強権で”物理的”に抑え込まない限りこの手の過激な抗議活動はまだまだ続くのではないかと思います。
さてこういうことは日本でも起きるのかと言われると、個人的には日本ではまず起きないだろうなと思います。
というのも日本では様々な社会問題に対する「合法的なデモ」すらごく少数の人が参加するだけで、社会全体を動かすような盛り上がりはほとんどありません。
特に学生運動が盛んだった世代はともかく、今の若者世代は理知的な方が多く、社会問題に対する意識はあっても自分たちの主張を通すために過激な手段に出ることに対しては否定的です。
それこそオッサン世代がネットの上や居酒屋談義でいろいろ熱く語ることはあっても、自分が信じる”正義”のために警察に捕まるような過激な活動をする人はほぼ皆無と言えます。
「デモをしないから政治家がやりたい放題になるんだ」といった、諸外国に比べて若者が戦わないことを否定的に見る意見もありますが、私のようなマイノリティの立場から見ると「”正義”のために戦う人」が少ない日本はむしろ安心できる環境です。
信じる”正義”を持つのは個人の自由ですが、その”正義”を絶対的なものと思ってしまうと「自分たちの”正義”を貫くためには何をしてもいい」となってしまいます。
そしてその”正義”の矛先がいつ自分に向かうかはわかりませんので、”正義”のために戦う人がいるというのは結構怖いことだと思います。
例えば「自国民を守るために外国人を追い出せ」という意見もその人にとっては”正義”ですが、心の中で主張するのはともかく、実際に行動を起こしてしまうと誰かに危害を加える恐れがあります。(”自国民を守る”という正義が暴走した成れの果てがナチスの蛮行かもしれません)
今の日本でも外国人に対してネットの上で差別的な言動をする人や、実際に街頭で叫ぶ人もいますが、幸いごく少数の人間しかいないので実際に危害を加えられる心配はありません。
このように「”正義”のために戦う人」が少ないのはマイノリティにとっては良いことだと考えていますが、一方で「マイノリティ(弱者)のために戦う人が少ないのは冷たい社会だ」という反論もあります。
確かに世の中には不当に虐げられているマイノリティは存在しており、その人たちのために声を上げるのは良いことですが、その人たちを守るために別の誰かを迫害するようなことになってしまうと不幸な結果しか生みません。
「”正義”のために戦う人」によって人間同士が争うような社会になるぐらいなら、冷たいかもしれませんが「誰かのために戦う人」が誰もいない社会のほうがはるかにマシです。
というわけで日本の美術館はたぶん大丈夫だと思いますが、もし日本でも過激な抗議活動をする人が現れ、その人たちを支持する人も出てくるとちょっと嫌な兆候かもしれません・・・
最後まで読んでいただきありがとうございます。