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「他人に無関心」がダイバーシティ(多様性)の促進につながるとしたら?

以前から抱いている問いですが、ダイバーシティ(多様性)は決して誰にとっても居心地のいい状態ではなく、自分にとって不快な人、許せない人とも共存しないといけない状態ではないかと考えています。

もし自分にとって不快な人に居てほしくないと思うのであれば、自分と同質な人しかいない世界に住んだ方が遥かに快適です。

同質な人しかいない世界の例として、閉鎖的な田舎をイメージするとよいかもしれません。その地域で長年守られてきた暗黙の掟に従って生活すれば大丈夫ですが、掟に反することを行う異質な人は「村八分」に会います。

一方でそのような社会は得てして他人への関心が高く、困ったときは助け合えるという側面もあります。

反対に都会の場合は基本的に他人に無関心であるため、自分に危害は及ばなければ相手がどんなに変なことをしても放っておきます。

それこそ目の前に人が倒れていても「その人は自分の意志でわざと倒れているかもしれないから、下手に手を出して面倒なことになるぐらいなら放置しておこう」と考える人もいます。

田舎のほうが人間的な温かみがあって良いという人もいれば、息苦しいという人もいるように、都会は気楽な一方で冷たいと感じる人もいます。

とちらの世界に住みたいかは人それぞれなので、良い悪いはないと思いますが、一つ言えるのは他人に無関心な世界のほうが結果的にマイノリティは生きやすく、ダイバーシティが促進されるということです。

一例を挙げますと、学校のクラスをイメージしていただけると良いかと思います。(あくまで私の独断と偏見ですが)

小学校
・他人への関心度は高い
・個性的な生徒の居場所は少ない

中学~高校
・他人への関心度はだんだん低くなる
・個性的な生徒にも居場所が出てくる

大学
・他人への関心度は低い
・個性的な学生は居場所を見つけやすい

私自身も経験がありますが、いじめ問題で苦しんでいる子供の多くは他の子供から悪い意味で関心を持たれてしまったがために、「何だアイツは」みたいな目で見られてしまっているのではないかと思います。

ちなみに同じ小中学生でも「塾」だといじめの話はあまり聞かないのは基本的に塾は自分の受験勉強のためで他人に無関心というのがあるかもしれません。(根拠はございませんが)

他人に関心を持つ、自分から他人に親切にする、といったことは人間として素晴らしいことだと思いますが、行き過ぎてしまうと「良かれ」と思って他人にしたことが「大きなお世話」になることもあります。

結局のところ、他人との関わり方、他人との距離感については正解がない難しい問いですので、自分で考えて決めるしかないかなと思っています。

今回もお読みいただきありがとうございました。