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「選択的孤独」を意識して生きる私。

れいちゃんの“ぼっち”飯と屋号にしているくらいなのだから、言わずもがな私は「ぼっち」、つまりはソロ活が好きだ。もちろん、食事という場面においては会食への恐怖から“ぼっちにならざるを得ない”という事情はあるにせよ、それ以外の生活場面においても相当おひとり様を満喫し、実際ソロ活に長けていると思う。

何処かへ旅をする時は基本的に1人だし(もしくは1人を基本として、現地で数時間友人に会うことも)観たい映画は観たい気分の時に1人でふらっと映画館に入る。最近少しずつ出来るようになった外食も、やはり誰かを誘うことはなく食べたい味を、食べたい時間に自分のペースで食べに行くことが多い。

こうした「ソロ」の行動を“楽だから”という本能的思考が働き、無意識のうちに選び取っている側面もあるにはある。しかし、最近ではかなり意識的に「孤独」であることを望んでいる自分に気が付いた。

大学時代は、誰かと一緒に遊んだり飲みに行くこと、手帳の予定が数カ月先まで埋まっている状態が「誰かに求められている自分」を表し、自身の承認欲を満たしていた。しかし、最近はもはや誰かと群れることなく意識的に「孤独でありたい」とか「ほどよく1人の状態が欲しい」と思う事が多い。

そう、言うなれば私は「選択的孤独」を意識して過ごしているのだと思う。

■「選択的孤独」とは何か。

先述の通り、私は「孤独」を“敢えて”とか”そうあってほしいと願い”という前置きありきに選び取っている。こうした孤独に対する主体的な行動、そしてそれに伴う状況を「選択的孤独」と位置付ける。

英語にある「孤独」を意味する2つの単語。⑴Lonlinessと⑵Solitudeは、前者が自分の意に反する孤独、そして後者が自分が意図的に選択した孤独を指すが、私が今回話題にするのは後者。Solitudeについてである。

■なぜ「選択的孤独」を意識するのか。

では、何故私が意識的に「選択的孤独」、英語で格好つけていうなればSolitudeを意識して過ごすのか。

結論、“日常の中にあまりにも情報が溢れている”と感じるからだ。これはあくまで私の主観であって誰かに押し付けるものではない。しかし、普段何気なく生きていると。それも、日本という括りの中で比較的都会で暮らす私の五感(特に視覚と聴覚)には意識しなくとも情報過多になってしまいがちである。

そして、あまりにも情報過多の中で過ごした結果、何が起きるか。そう“自分に集中する時間が減ってしまう”と気が付いた。自分に集中する時間、すなわち自分対して投資する時間が減ると、限られた情報の中でしっかりと自分に集中し、時間を投資した時と比べて感覚や思考が研ぎ澄まされる感覚がどうも鈍るように感じるのだ。

少し話が抽象的になってきてしまったので、少し具体的な話に持ち込んでみようと思う。具体例の中で、私が実際にどんな場面で「選択的孤独」を意識して過ごしているのか、その際何を考えているのかについて次は述べていきたいと思う。

■実際に意識している行動例。

私が「選択的孤独」を意識する場面は大きく分けて3つある。①対人/②対コンテンツ/③対購買空間の3つだ。

①の対人は読んで字の如く、対人関係における選択的孤独。そして2つ目の対コンテンツとは、テレビやSNSなど滝のように情報が垂れ流される媒体に対する意識的な距離の取り方。そして、対購買空間というのは主にスーパーマーケットやコンビニなどその場にいることで購買意欲が自然とが掻き立てられやすい空間への関わり方。

②~③に関しては「選択的孤独」という表現より「意識的に距離を取る」という表現の方がしっくり来てしまいかねないが、意識的という観点ではおおむね同じ括りなので今回は選択的孤独の部類に入れるとする。ねじ込むとする。

①対人関係において

対人関係における「選択的孤独」とは、例えば休みの日に誰かと会う約束をせず、意識的に1人で過ごす日を作り出すようにしている。とはいえ、誘われることも少ないのだが(笑)

誘われたとしても、「れいちゃんの日」と自分で設定した日にはとにかく誰かとの予定を入れないと決めて「ごめん、この日は自分の為の日だから別の○日なら空いているんだけどご予定どうかな?」と提案をする。

どうしても誰かといると、それがどんな相手であれ無意識のうちに気を張ってしまう私。1人でいる時間を意識的に作り出さないと、自分の為に使える時間と頭を常に「相手は何がしたいかな」とか「何を考えているかな、これでいいかな」とどうしても自分の気持ち以上に相手の気持ちばかりを考える時間に充ててしまう。これはもはや性分なので仕方がない。なのでそんな自分に先回りして意識的に「個」の時間を作るようにするのだ。

②対コンテンツに対して

テレビやInstagramにYoutube。私が大好きなコンテンツであり、1番私の自分に使うはずの時間や思考をかっさらって行ってしまう小悪魔達である。

こうしたコンテンツは、私達に娯楽や知識をもたらすという有益な場面は多々ある。そしてもちろん、私もその恩恵にあずかっている。しかし、それに伴い、自分自身も生きる時間を消費している、という意識を忘れずに持っておきたいと常々思う。

コンテンツを生み出す「誰か」の為に時間を過ごし、自分の感性や思考が惑わされ過ぎないよう意図的に距離を保つ。

実は、選択的孤独を意識するようになったのは実家でテレビを見ている時という、対コンテンツの状況においてだ。

テレビのない1人暮らしを初めて1年ほどが過ぎ、実家にふと立ち寄った時の事。特段の理由もなく、つけっぱなしのテレビをボーっと見ている時にふと「あれ、この時間って誰かが作ったコンテンツを消費する時間で、自分が何かを生み出している時間ではないな」と思ったのである。加えて、「この状況下だと、どうしても自分のやりたいことを考える思考やれいちゃんらしさを出す感性が鈍ってしまうな」と痛感したのである。

もちろん、一定の情報。災害や事件、国家情勢やウイルスに関する情報は大切だし、テレビやSNSで取得することがあまりにも手軽でおそらく最速の手段であることは十分理解している。ただ、それ以外のエンタメなどに寄った情報が自分の中に流れ込みすぎるとどうも私の場合、感性や感覚、自分がどうしたいのかという思考が鈍ってしまうように感じるのである。

そのため、1人で自宅で過ごしている時は「次はこの文章を描こう」とか「次はこの料理を作ろう」という風に“自分が何を生み出すか”を考えて生活し、実際そのように時間を投資するよう意識する。文章であれ、料理であれ、1日に1つ何かしらを生み出そうとゆるく決め、誰かが作ったコンテンツに時間を割くのではなく、自分が生み出す何かに時間を使う。

そして、少し距離をとって自分の時間に集中するという「選択的孤独/意思決定」をした後には存分にコンテンツに浸りYoutube三昧を楽しむ…時ばかりだ、実は(笑)

③対購買空間に対して

3つ目は購買空間に対する選択的孤独である。孤独というより、意識して距離を取るという表現が相変わらず適切のような気もする。

例えば、スーパーやコンビニ。何気なくふらっと入ってしまうと「あ、これ使って冷蔵庫の食材と料理が作れるぞ」とか「そうだ、そういえばこれ欲しいと思っていたんだよね」と、ついお財布の中身を思い起こし、後先考えず買ってしまう事がある。

特売なんてしていた日には、その商品が「欲しい」のか「必要」なのか混在してしまい気づけば購入。後から考えると、そこまで必要じゃなかったな。もしくはもっと別のタイミングで良いものが買えたはずだよななんて思ってしまう。

私はあまりにも、情報に流されやすい性分だから安かったらつい欲しくなってしまうし、美味しいと言われたら美味しいのだと欲しくなってしまう。しかし、どんな購買行為も、多かれ少なかれ「誰かが買って欲しいもの」に対して、自分のお金という資産を消費する行為と考えると、意識的に、そして選択的な行動を購買空間においても心掛けたいものである。

あらかじめ買うものをおおよそ決めておくのは勿論のこと。①値段を見て買うなら、買わない。②値段を見て諦めるなら、買うための努力をする。この2つの考えを念頭に、目的を持ってスーパーなどの空間に入ろうと意識している。

あまりにもスーパーと仲良くなりすぎて会いすぎると(通いすぎると)あれも買って行きなよ!これ、この曜日にはお得だよ?その日にまたおいでね?なんて畳み掛けられてしまう。そして結果的に「欲しい」と「必要」を混同してしまうのだから、意図的にスーパーから距離を取る「孤独」を意識する。

ここまで孤独を意識すると、自分の選択肢を狭めすぎかねない、と思う方もいるだろう。
もちろん、選択肢少なすぎることは時に不自由だけれど。選択肢が多すぎることは、少なすぎることと同様に不自由をもたらす。

そんなことを考える私は、誰かと会うこと。何かのコンテンツを消費すること。どんなの空間で何かを購入すること。こうした行動に対し、近づきすぎず。かといって距離を取りすぎず。あくまで選択的に距離を取って孤独になる「選択的孤独」をこれからも意識して過ごしていきたいと思う。

Solitudeを心掛けてれいちゃんのぼっち飯としてこれからも生きていきたいと思う。

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