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【小説】余命1年の天使と出会った話。『前編』

桜が軽やかに舞う季節とは裏腹に、駅まで向かう足取りはいつも以上に重かった。その日の私は、些細なことで上司から注意を受け、胸がチクっとする感覚がずっと抜けなかったのだ。

「今日は揚げ物でも買って、適当に済ませちゃおうかな」

普段は自炊をすることが多いけれど、その日はそんな気力すら起きない考えて、進行方向を駅から駅前のスーパーに変更する。

お惣菜コーナーに並べられた揚げ物各種を一通り見渡し、財布の残高と、その日の気分を掛け合わせて最適解だったイカリングを手に取った。今日はいいよね、と春仕様で桜柄のビールも。罪悪感を帳消しするために、小パックに詰められた筑前煮もイカリングのパックの上に乗せる。

会計を済ませて、スーパーを出たところにベンチが並んでいた。

「ここで食べていこうかな…」

家に帰って黙々と食べていると、今日嫌だったことを1人でモヤモヤ思い出してしまいそうだった。ベンチで食べれば、行き交う人々を眺めて少し気が紛れるかもしれない、と思った。

3つあるベンチはどこも人が座っていた。2つは2人組が腰かけていたので、必然的に残りの1つに座ることになった。

「失礼します…」と既に座っている人に心の中で声を掛けて腰かける。別にこの人のベンチじゃないけれど一応…、とチラッとその人に目をやると『分子力学』という自分とは縁がなさそうな本を読んでいるおじいさんだった。

けれど、その人に意識がいったのはその一瞬で、ビニール袋からイカリングと筑前煮を取り出して、心の中で自分を“お疲れ様”と労うと、そのおじいさんのことは忘れてしまっていた。

気が紛れるかも、と思ってはいたけれど、何度も上司の言葉がリピート再生されて「ふぅ」と、思わず小さくため息をついてしまう。筑前煮のしいたけを食べ終えて、汁がスカートの上に垂れないようにそっとパックの蓋を閉めてビニール袋をゴミ袋代わりにしようと入れる。その時だった。

「何か嫌なことでもあったんですか?」

私が食べ終わるのを待っていたかのように、まだ隣に座っていたおじいさんがぱたんと分子力学の本を閉じ、間違いなく私に向かって話しかけていた。こういう時、しっかりと栞を挟むタイプなんだ、と何故か思った。

「え?」

「だから、何か嫌なことでもあったんですかって」

見た目よりもややくだけた話し方をすることに驚いた。

「えぇ、まあ…はい。私ため息ついちゃっていましたか?」

「ついていました。春なのに」

春だって別に気分が落ち込むことはあるだろうし、桜が綺麗だから皆が気分がワクワクするわけじゃないんだぞ、と少しイラっとした。それがおじいさんに伝わったのか

「あぁ、ごめんなさい。お詫びに桜餅、一緒に食べませんか?」

と何故か桜餅を食べることを提案された。

「えっ…?桜餅…?」

YESでもNOでもない返しにお構いなく、おじいさんは鞄から本当に桜餅を取り出した。

「小麦粉をクレープ状に焼いた生地で餡を巻いたのが関東風、道明寺粉を使った生地で餡を包んだのが関西風。これは関西風です、どうぞ」

思わず受け取ってしまったものの、見ず知らずのおじいさんから受け取った手作りのおやつを食べることほど怖いことはなかった。これ、毒入りじゃないかな。

けれど、本の上にティッシュを敷きながらおじいさん自身が桜餅を食べるのを見て、一応大丈夫かな...と思った。タッパーごと差し出すおじいさんから「あ、じゃあ、ありがとうございます…」と1つ桜餅を受け取って、ポケットに入っていたティッシュを膝の上に敷きながら一口食べた。

「わ、美味しい…」

お世辞ではなく、本当に美味しかった。久しぶりに食べる誰かの手作りの味には確かに温もりがあった。

「そうでしょう。美味しいでしょう。桜の塩漬けも自家製ですから香りもいいでしょう」

と自画自賛をしながらおじいさんは既に2つ目の桜餅を完食していた。傍から見たら、桜餅を食べるおじいさんとOLって不思議な画だなと思わず吹き出しそうになった。

「桜の木の下で、桜餅。いいですね」

「ですね」

新生活、新しい部署。新たな人間関係。最近は、目の前の出来事に忙殺されて、季節を楽しむ余裕がなかった。こうして、何故かベンチで出会ったおじさんと、おじいさんの手作りの桜餅を食べると、心の中に凪が生まれるようだった。

「ご馳走様です。美味しかったです」

「こちらこそ、食べてくれてどうもありがとう」

おじいさんはタッパーを閉めようとして、やっぱりもう1個と再び少し開けて、3つ目の桜餅を口に入れた。その姿に思わずふふ、と笑ってしまった。

「あ、笑った」

「え?」

「ようやく、心から笑ったなあって。ベンチに座る時なんて、大層思いつめた顔つきだったから」

「あぁ。本当に些細なことなんですけれど、会社で嫌なことがあって。上司の言葉にちょっとこう…落ち込んでいたんです」

おじいさんは、優しい顔つきで私の顔を見ていた。その柔らかな表情に思わず泣きそうになって

「いやあ、ダメですね。こんなことで泣いてたら」

と笑ってごまかそうとした。少しの間、私とおじいさんの間には沈黙が流れた。そして、

「無理に元気にならなくて、いいと思います」

ボソッと呟いた。そして、何故かおじいさんの中で納得したように再び

「無理に元気にならなくて、いいと思います。だって、傍から見れば小さい悩みでも、自分の中で自分の存在は大きいから」

自分の中で自分は大きい…。

頭の中でおじいさんの言葉を復唱すると、言葉がすっと心の中に入ってきた。そっか、悲しい気持ちごと自分を認めてあげてもいいんだな。

「あはは、ありがとうございます」

本当に、心から微笑んでお礼を言った。そして、こうして会話をしている見ず知らずのおじいさんにそういえば、と思い尋ねる。

「お名前は、なんと言うんですか?」

おじいさんは、少し考える素振りをした。何かマズいことでも聞いてしまったかな?と心配になり、「無理に言わなくても」と言おうとした矢先。

「天使、です」

と小さな声で言った。

「え、天使?」

あの、白くてフワフワした天使だろうか?先っぽに星かなんかが付いている魔法ステッキみたいなのを持っている天使?いやいや、そんなわけがない。

「あぁ、天使さんですね。珍しい名字ですね」

「違います、名字は小松。天使の小松、です」

とおじいさんは訂正をした。天使?しかも名字は小松だなんて。天使にも名字があるのだろうか?というか、そもそもなぜ天使がここに?しかも、持っていたのは『分子力学』の本?

よく分からず、

「は、はぁ…」

と曖昧な返事をした。

「信じていないでしょう。けれど、本当に天使です。しかも余命1年の」

と小松さんは(まだ天使と信じられなかった)驚くべき告白をした。もうここまで来ると、混乱していた脳が素直に受け入れを始めていて。

「余命、1年…なんですね」

とおじいさんの言葉をそのまま受け入れて、返答をしていた。

「この間、天使の病院でそう診断されました。せめて死んでしまう前に、人間の世界を満喫してみたかったんです」

「なるほど…。そんな大事な時間を私と話すのに使っていいんですか?」

「一緒に桜餅を食べてくれましたから」

理由になりきれていない返答をしてくれた。けれど、この見知らぬ…天使と話して、桜餅を食べて。心穏やかに春、という季節を味わうことができたのは事実だった。

「桜餅、美味しかったです。次は、関東風も食べてみたいなって思いました」

「嬉しいです。次…があるとうれしいんですけど、余命1年だから」

あぁ、失礼なことを言ってしまったと思った。そうか、じゃあこの天使こと小松さんにとっては最後の春。最後の桜、になるかもしれないのか。

「えっと…じゃあ一緒に食べられたこの思い出、大切にします」

「はい。イカリングもいいけれど、春にしか食べられないものも満喫してみてくださいね」

「あ。恥ずかしい(笑)、はい」

顔が赤くなるのを感じた。けれど、余命1年の天使の言葉は何故だか素直に受け入れられた。明日、休みだから、私も桜餅作ってみようかな…。作ったら、小松さんに。天使に報告がしたい。

「次の季節も、また会えますか?」

「会えるかもしれません。余命まで1年ありますから」

そう言い残して「じゃあ」と天使は天使らしからぬ普通の足取りで『分子力学』の本を小脇に抱えて去って行った。ベンチに座る前とは違い、心がふわっと軽くなった。

そして、そのままの足取りで私はスーパーへと再び向かい、薄力粉とこしあん、それから食紅に桜の葉と花びらの塩漬けを購入した。

翌日、レシピを調べながら関東風の桜餅を作ってみた。天使の作った関西風とは違う舌触りに、同じ料理でも、別の味わい方があるんだなと思った。そして、天使の言葉を思い返す。

“自分の中で自分は大きいんです”

今まで自分は、“こんなことで悩んでいたらダメだ”とか”なんて心が弱いのだろう”と思うことばかりだった。けれど、それでいいんだな。そう、しみじみと思った。そして「また、会えたらいいな」と声に出して呟いてみた。

それからの日々も、上司に小言を言われたり、同期に慰めの言葉をかけてもらったりと慌ただしい日々を過ごしていた。それでも、時々季節の食材を食事に取り入れて、季節を感じながら自分の心と優しく対話をすることを心掛けた。

そうして、見上げていた桜を足元で楽しむようになり、温かいと思っていた日々が暑い、に変わるまであっという間だった。

「暑くて嫌になっちゃうなあ」

せっかく世の中はお盆休みだというのに、私は秋に向けた社外コンペに向けて休み返上で出勤だった。

今日は35度近くになると朝の天気予報で言っていた。家ではケチってしまう冷房が、社内ではガンガンに効かせられる。うぅ~涼しい。

けれど、少しでも扉を開けておくとあっという間に空気がぬるくなってしまう。こんな暑さじゃあ、やってらんないよね。気温が落ち着く夕方過ぎに会社を出ようとしたけれど、17:00を過ぎても気温は30度を超えていた。

駅までの数分ですら、汗が止まらない。気づけば、身体はアイスを求めて駅前のスーパーへ向かっていた。帰りにちょっと高いアイスでも買って食べて帰ろう。汗だくだけれど、アイスでクールダウン。

そう思い、最近新作でプレミアムバニラ味が出たお気に入りのアイスを手に取った。Paypay♪とお決まりの決済音が鳴り、ビニールに包まれたスプーンを店員さんから受けとってスーパーを出る。

ベンチに座って、袋からスプーンを取り出した。そして「いただきます」と新作味を食べようとすると、3ヵ月ぶりに聞く懐かしい声が降ってきた。

「すっかり、夏ですね」

「あ、え!小松さんじゃないですか」

「だから、天使、です」

「でも、人間を人間とは呼ばないでしょう。それに、小松さんの方がなんだかしっくりきます」

そう言って、小松さんの手元に目をやると、今日は流石に『分子力学』の本は持っていないようだった。外でずっと読書をするには暑すぎる季節だよなあ。

代わりに、小学生の頃よく持っていたコップ付きの水筒を首から斜めに下げていた。おじいさんのスタイルじゃないって(笑)、とツッコみたくなったけれどやめておいた。

慣れた相手の前とあって、私は遠慮せず溶けてしまう前にスプーンですくったアイスを口に運ぶ。ひんやりとした口どけと、口内に広がる濃厚なバニラ味が堪らなく美味しかった。

「うーん、冷たくて美味しい!」

天使の小松さんは微笑みながら、私の横に並んで座った。水筒は首から下げたままでベンチに置いていた。

「美味しそうですね」

「はい!すっごく!あ、ごめんなさい。スプーン1本しかなくて」

「いえいえ、お気持ちだけで十分です。それに、知覚過敏ですから」

天使にも知覚過敏とかあるのか。というか、天使と人間の違いって何だろう。ぼやっと考えつつも、あっという間に溶けてきてしまうアイスをすくい口に運ぶのに必死だった。

「最近はどうですか?あの日以来」

「あれ以来、ぼちぼち上手くやっています。人間関係でムカつくとか、悲しいとか。そういう感情が湧いてきても、丸ごと受け入れてあげることを意識しています。難しいんですけどね」

「あぁ、よかったです。今日も何か悲しいことがあったんじゃないかと」

「今日は、暑くってもう我慢できなくてアイスを(笑)。ただ、お盆休みで周りはみんな連休なのに働いていることに少しむしゃくしゃしていたのは…事実です…」

「そうでしたか」

そう言って、少し考え込んだ後、天使の小松さんは言った。

「巡っている、のかもしれませんね」

「巡る…?」

「はい」

そう言って、質問にはすぐには答えず、小松さんは水筒からコップに中の液体を注いだ。スッといい香りがした。

「どうぞ。夏のハーブティーです」

「え、桜餅の次はハーブティーですか?」

「はい。アイスで身体も少し冷えたでしょうし、温かいレモングラスのハーブティーです。心を整える働きがあります」

バニラのねっとりとした濃厚さが口の中に残っていたので、ありがたくコップを受け取った。そして、桜餅とは違い、躊躇せずに一口いただいた。

「あぁ、美味しい。冷やした身体に沁みます」

「そうでしょう、夏も身体を冷やしすぎると逆に夏バテになってしまいます」

レモンの香りがふわっと香り、心地よく鼻腔を抜ける感じが美味しくてあっという間にコップに注がれた分を飲み干してしまった。

「そうだ。さっきの続き。『巡る』と天使さんは仰いましたっけ?あれってどういう意味ですか?」

小松さん、と言うと訂正されそうなので予め天使さんと呼んだ。

「さっき、貴方は仰いました。お盆でみんなが休んでいる中、出勤している、と」

「はい…」

何か悪いことを言ったのだろうか?もしかして私、怒られる?しかし、そんな心配とは裏腹に天使こと小松さんの言葉は優しかった。

「貴方のように、頑張って働いてくれている人がいるから。休めている人がいるんです」

頑張って働いてくれている…。思いがけない言葉に泣きそうになった。

「そして、貴方が休みたいなとか。休んでいる時には別の誰かが頑張ってくれるんです。頑張り時はそれぞれで。順繰りに巡っているんだと思います」

ハッとした。

私は5年ほど前。ちょうど新卒の年に、会社を数カ月間休んでいる。急に「働く」ということが怖くなって、足が会社に向かわなくなった。そのまま辞めて逃げてしまおうか、とも思ったけれど「休んでいる間は任せて」と言ってくれた同期や、先輩がいたから今こうして復帰できている。そして、5年経った今、こうして秋に向けたコンペに向かって励んでいる。

「本当だ、巡っている、ですね」

天使の小松さんは私が納得した姿に、照れた様子で自分の分のハーブティーを鞄から取り出した紙コップに注いで、飲み干した。

「来年はお盆休み取れたらいいなあ」

「はい、取れるといいですね」

その時はまた一緒に…と言いかけてやめた。そうだ、天使の小松さんにとっては最後の夏。別の言葉を口にした。

「来年は、帰省して実家の母に私がハーブティーを入れて一緒に頂こうと思います」

新卒で会社を休んだ時、母にはうんと心配をかけた。

「それが、いいと思います」

ニッコリと微笑んで、天使の小松さんは水筒のコップをキュッキュッと閉めた。そして

「夏とはいえ、身体を冷やしすぎないように気をつけてくださいね。アイスは1日1本まで」

まるで幼い頃に母に言われたような言葉を口にした。そして、じゃあと言ってまた水筒を首から斜めに下げてその場を去って行った。

秋も、会えるかな…。けれど、余命1年ということは何かの病気で。期限が迫る頃には外出とかも難しくなるのかもしれない。空になったアイスのカップの蓋がへこみ、思わず手に力が入ってしまっていたことに気づく。

再び、汗びっしょりになりながら自宅に戻る。
桜餅を一緒に食べた日から、少しだけ季節を取り入れた食卓を意識している私はこの日、土鍋でとうもろこしごはんを炊き、茄子と大葉の天ぷらを用意した。食べながら、小松さんの言葉が頭をよぎった。

『巡る』か。いい考え方だな。

自分のタイミングで、自分なりの頑張り方をする瞬間が誰しもあるのかもしれない。そう思い、お盆明けまで毎日全力でコンペに向けて突っ走った。

後編に続く〉

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