亡羊(戯作)
Ⅰ
曩時、まだ沛然と陽射しが降り頻り道行く人もみな淋漓として汗を滴らせ、夏という季節が常永久に続くと錯覚してしまう日々のことだった。その錯覚に胡乱はなく、またそれを否定するにも胡乱はなかった。
悪丁寧を嫌ってか、懶惰に身を任せてか、恭謹を欠いてか、分からないがMは定刻を過ぎても連絡も寄越さず現れなかった。苛烈な溽暑の午下、私は天使が通らない駅の側の本屋の隣の階段の下の方で瞑眩により澌尽していた。
暫く経ち、着いた、と連絡があった。私は彼女が私と会うことに吝かであると推断していたが燦然、また燦然と慎思し自らの速定を打っ遣ることにした。私自身を寛大だとは思わない。ただの遅刻に対する考えとしてはあまりに得策でないと感じたからである。そして何より私は彼女のどのような誣言も宥恕すると心に決めていたのである。今でもそれは心に牢記している。ただずっと摯実でずっと犀利かと思っていた故に、僅かに索然とした思いが芽生えたより他なかった。
駅の方を見遣ると、雑踏に紛れて一際、的皪と輝く、白い美人がこちらに向かって歩いてきた。
卓犖不覊な霽顔で、全身に麗質を纏わせたその美人こそがMであった。それというのは会うのはその日初めてだったからである。
捌けた言葉付きで件のことを謝られた。これはいったいどうしたものかと、私は先程の憮然とは打って変わって、思わず破顔し、度し難い惑乱に陥ったのである。青嵐が吹き飛ばせなかった秋思に似た凄切をMは一度に吹き飛ばし、また靉靆に包まれた夏月の盈昃を止め皎皎と輝かせ暗澹たる乾坤に昧爽を知らせた。
怡々としてカラオケへ向かった。私は安気なまま笑壺に入り、恋心と呼ぶには余りにも重すぎた気持ちが醞醸していった。
Mの美しさはこの世の者とは思えなかった。それは月長石で出来た琴線で表皮を編み込み、爪は煌びやかな夜光石を研ぎ、幽邃の泉を映していた。瞳は薄いヴィードロで造形され中央に黒水晶を嵌め込み、髪は麒麟を宿し、揺れる度に軽やかな香りが巻き起こっていた。耽美主義の人が一瞥でもくれたらその主義主張を降りるほど絶世の美人だった。それでいて気取らずとも品が感じられ、やはり摯実で犀利な人だと感ぜざるを得なかった。私は見ているだけでうっとりしてしまい、解けない魔法をかけられている様であった。時々、頓馬な所があり、また諧謔が上手く、それもまた魔法に拍車をかける一端となっていた。
話題はその店のポップコーンであったり、好きな音楽であったり、とにかく限界はなかった。時折、Mの声音が寥亮とし、また多情多恨な様相が隠見された。私は愚騃と言うのか、盲目と言うのか、或いはもっと、みいちゃんはあちゃんな呆助だったのかも知れない。臆度を疎かにしていた。それはある種の自惚れに近かった。
Mの声はまさに遏雲の曲であり、たいそう素晴らしく惚れ惚れしMの一縷の隠見も己の自惚れも飄々と雲煙飛動の様に立ち去ってしまった。
時間となり外へ出るともう暮色蒼然とし、旻天には霞の中に星芒がキラキラと瞬いていた。
Mも私もそれらを真っ先に自分が見つけたと言い張り、その度また笑い合い、私は思い憧れこの星彩を忘れないだろうと思うのと同時にこの雛星をずっと愛でていたいと切に願った。心做しかまだ淡い玉蟾は二人に微笑みかけているようにさえ感じた。
私たちはプリクラを撮るべく、或いは惜別の念に駆られてか、急行電車で隣街へ向かった。
初めて降りたその街は思ったよりも閑散としていた。西口から降りるとすぐ目に映ったのは川であった。その川は広くはなく、しかし白泡を立てる奔湍となっていた。海に繋がっている、と思うと自分が怯懦かどうか試したくなった。
琴瑟みたいな、と、いうのは甚だ笑われてしまうだろうけれど、そのくらい仲良くプリクラを撮り、いつの間にか夜去方となっていた。川のそばにある切り株を椅子にした所で座り、涼を取った。川は月華に照らされて白々と流れていた。
「ねえ、またすぐ会いたいな」「もちろん、会いたい。次はいつにしようか」と私たちは話し合った。──ただ、私たちは気軽に直ぐに会うには余りに遠く、余りにセンチメンタルだった。
Ⅱ
幾星霜の流光に
孤独を重ねて生きている
出逢うことなく生きようと
昼は想って夜は夢む
依々恋々としていても
君は可愛少女遙々と
夜天の下に消え行きぬ
泥む私は愛で騒ぎ
急き来る涙をはらはらと
その杯に零すだろう
藹然とした昔日の
花筐には白藍の
燐光だけが立ち昇る
幽闃の夜が明けたなら
卯飲しては君求む
嗚呼我が袖を裏返し
透き影だけでも拝めたら
冥き途でも恐れない
Ⅲ
朝、怙恃は仕事へ行き、午下に私はMと会う。
繁霜の生活に霽朗、また晴朗と春日の香りが舞い込んだのは文月の暮れ、舞躍に興じ抃喜していた。
窓外を見ればジレッタントの悦ぶ翠巒が辺りを囲繞している。そのどれもが祝祭を挙げるように隆々と息吹をあげている。けれども知らぬ、誰も知らぬ。蒼蔚とした層巒に死体が吊らされていることを。
その日の朝、朝沆に満ちる渺茫とした平蕪を駈ける夢を見た。私が駈けるとその後が虹が浮かび上がり、眩がった。それが美しくて駈けた跡を戻り、見ようとすると切れ切れになってしまった。離れても離れても断虹のまま。元には戻らなかった。そのうち濁った色になり、また草花は凋枯となった。跡を辿らなかった場所はずっと綺麗だった。そのうち雨が降ってきた。空は晴れていた。晴れている、様に見えた。イヤに、汗が顳顬を伝った。おどろおどろしい風が吹き付け、辺りが蔌々と鳴ると俄に落下する感覚に陥った。そう感じた転瞬の間に私の双眸だけが体をすり抜けて地獄へ向かって堕ちていることに気がついた。意識が混濁する。
差し含む両眼を拭った朝。
輝く野原は暗くなった、天泣、眼が落ちる、嫌な、夢だ。
夏日は暑く、出歩くのに向いていない、とずっと思っている。それでもMと落ち合うことをロマンスと言わずに何と言おう。
Mがよく知る駅で会うことになった。相変わらず外は暑く、相変わらず天使が通らなかった。却ってMに頓ことが出来た。鳴り止まぬ雑踏、そして見回す限りの人間たち、私はMを今か今かと待ち、待ち時間でさえ恋々と想いが募っていった。
わくせきとした気持ちの中、一件の連絡がきた。「少し遅れる」と。その一文を読み、前回とは打って変わっていることが更に愛おしくさせた。このベイビーガールに対して快闊にいない訳があるまい。
Mが到着したのはそれから十数分後だった。
しかし、どこか余所余所しくて、どこか上の空で、以前会った時とは打って変わっていることに胸気と言うよりも恐れを感じた。
Mの瞳に映っている私がまるで私ではないように思えた。その暗き瞳は、穆如の湖に雨が滂沱と降り淪漪が大きくなり、そのうち滂浪と波が立ち、私を晦冥の底へ沈める様に思えた。
杞憂は杞憂でなくなり、気鬱となった。酷く熱く……否、ずっと温かかった。Mなりの温かさで、Mなりの愛し方で、Mなりのさようなら。情が見え隠れ、そんなさようなら。
オムライス専門店で昼餉を食べる予定を立てていた。私たちは同じものを頼み(私がMの食べるものを食べたいがために)、私だけがデザートを頼んだ。料理が来るまでの間に、その口は本当に重たそうな開き方をした。
けれども、優しくいつも通り穏やかな言葉付けであった。いつも通りの諧謔に、時々出てくる頓馬に、私は幸せだった。
一緒に歌って一緒にプリクラを撮って一緒に買い物をした(お揃いにしたいと言う度胸はなかった)。「幸せすぎていいのかしら!」
その駅は都心部と呼ぶには十分であったがそこには静謐な空間が幾つか点在していたため、そのスペースにあるベンチで休憩をした。
灑々と流れる噴水がすぐ目の前にあり、その中では光彩が入り乱れていた。その場の明かりはまるっきりそれのみで、余計に私を切迫させた。
やおらMの手を取った。見つめる先にはMが、Mの先には私が居た。確かに居た。
少頃の間、眼を瞑っていた。Mの感触や体温や香りがあった。あったはずだった。全身でMの全てを漏らすまいとしていた。しかしながら不思議なことに、次に眼を開けた時、Mは居なかった。
握っていた手は、Mは、睡蓮の花々に変わっていた。それらが風で飄零し、Mの香りが巻き起こる。目を瞑ればMがそこに居る実覚が生まれるくらい強い香りだった。
私は信じられず暫く茫洋とその花弁を眺めるでもなく眺めていた。
Mが消失し、生活は一変すると予期していた。絶えず心が苦しいのみで、そのせいでバイトは辞めたくらいだった。Mの遺した花弁は、集めて宝箱に仕舞った。私の大事な宝箱に。
忘れることが出来たらどれだけ楽なことだろう。私はMをずっと想ってしまうのだろうか。
そうだとしたら、私は、幸せなのだろうか。
──ああ、幸せに決まっている。だってあんなにも美しい姫君と出逢えて、仲良くなって、番にこそなれなかったが私は本当に幸せである。末始終、いや、後生までもMを遺却しないだろう。
それから数週間が経ち、唐突に手紙を書きたくなった、居なくなったベイビーガールに。それを壜に詰めて海へ流そう。私は怯懦であるから、手紙は海に託そうと思った。
Ⅳ
拝啓。
急なお手紙にさぞ驚かれているかもしれませんね。いや、もう、読めない所に居るのですかね。だからここに記しますことどうかご容赦ください。
私はあなたが居なくなってしまい、凄く、凄く淋しくなりました。毎日が晴れ晴れしないようで、夙夜あなたを思い出してしまいます。
私、ずっと好きです、あなたのことが。初めて会った時から今の今まで、そしてこれからもあなたに恋しているでしょう。愛してしまうでしょう。どのような誣言もどのような不誠実もどのような嘘の皮もどのような口舌も、それら全てが愛おしいのです。でもすごく悔しくもあります。すごく傷付きもします。すごく悲しくもなります。盲だったり皿眼だったりするのです。
それでも、あなたが居ないことには私の人生は始まらないのでしょう。こうして今もあなたを追慕してしまうのがいい証拠です。
あの花は、あの睡蓮の花は今も大切に取っておいてあります。いつかもう一度逢える時、あなたに渡すためです。 敬具
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