自由主義者のすべきこと
聖戦
めざすべきは超越的な万能の国家でもなければ、いわゆる「自由主義国」のゆるやかな連合でもなく、自由な国の人々から成る共同体である。国際関係において望ましいふるまいはわかっているが、他国がゲームのルールに従わないからできないのだ――私たちは長いことそう弁明してきた。ならば戦争が終わり平和が到来するときこそ、私たちが誠実であることを示すまたとないチャンスだ。それは言い換えれば、何らかの自由の制限を課すことが共通の利益になると判断したときには、自分たちも同じ制限を受ける用意があると世界に示すことである。
はじめに
我々は、反自由主義者への聖戦が必要である。聖戦、とは断固とした対応と説得である。 もちろん、すべてを物理的暴力によって鎮めよ、ということではない。ある程度社会を転覆し得る、社会に害を成し得る団体に対しては徹底的な弾圧が必要だが、そうではない反自由主義者に対しては、その要求を一切受け入れないうえで、反論と説得でその数を減らすべきなのである。
こうした考えに私が至ったのは、最初からではない。勿論、極右反自由主義的志向というものも持っていた。しかし、世の中でポピュリストが台頭する中で、これは正しいのか、ということを考えた。その中で私が辿り着いたのがハイエクであり、古典的自由主義なのである。この思想は、18~19世紀に英国で芽生えた自由主義思想を基にし、その思想に依拠しつつ、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスやフリードリヒ・ハイエクらが20世紀当時の社会へ理論的に適応させたものとして復古させたものでもある。屡々ネオリベラリズムと定義される思想であるが、この単語は極めて多角的な思想を指し、決して古典的自由主義の原義と意味を同じくしているわけではないのである。なので私は自らを新自由主義者ではなく、古典的自由主義者と自称する。これには、現代のリバタリアンや過激な市場主義者と一線を画し、18~19世紀英国自由主義を貴ぶ意図もある。
戦・人間・感情
戦だ。結局のところ、弾圧や抑圧は戦争よりも悲惨な結果を生むことがある。我々は自由主義の擁護者であり続けなければならない一方で、人間であることを放棄してはいけない。人間において、理性が勝利することは稀であり、常に理性が勝利している人間は、人間ではない。多くの古典的自由主義者は戦いを警戒せよと言った。しかし、それだけでは割り切れないこともあった。反自由主義者には二種類存在する。ひとつは感情的な怒りによって、自由主義を打破しようとするものである。ふたつは人々の「感情」を理解したうえで、理性と合理性を以て人々をコントロールしようとするものである。前者が多数派であるが、厄介なのは後者である。後者にはドナルド・トランプ、アリス・ワイデル、そしてヒトラー、ムッソリーニ、レーニン、ダンヌンツィオらが該当する。後者は説得のしようがない。後者への戦いは実際、必要なことなのだ。戦わなくてよい、という状況は理想的なことだ。しかし、「AfD wählen ist so 1933」を掲げ、カールスルーエへ行進した同胞を否定することはできない。AfDへの拒否反応は自由主義者であれば当然であり、暴力行為の否定はすべきだが、非暴力的デモは称えるべきである。これは、TwitterでCDU支持者のドイツ人のFF(相互フォローをしている人を指す言葉)も言っていたことであるが、戦いの否定は自らの防衛手段を削ぐことになる。戦いは無くなるべきで、それを掲げるべきではないが、防衛手段として丸腰になってはいない。論理と行動による戦いは常に必要とされるのである。ただ一つ、考えよ、時に感情的になれ、そして理性的になれ。と。私は言う。これが人間であり、自由な人々の本来の姿である。説得と共感によって反自由主義を切り崩し、反自由主義者の根源との戦いをしなければならない。結局のところ、そうなのである。
自由主義社会の本来の姿
最良の思想である自由主義が、なぜ否定されるかを考えると、やはり自由主義のもとでの発展が当然となり、この人類の大半を占める多くの「冷静に物事を見ようとしない人」は自由主義社会ではあまりにも発展が遅い、と錯覚し、自由主義への怒りをあらわにするのである。これは、「当たり前の進歩(Progress Paradox)」と呼ぶこともできるが、なんにせよ、自由主義の成果や利点を示すことは必要なのである。例えば自由な競争によって、英国での産業革命の達成はもとより、現代においては西ドイツ経済や日本経済は発展をも可能にした。また、自由主義は人々の違う能力を生かし、また、違う欲望に対応するために最も最適であり、発展するためには、結局のところ、一元的な管理よりも効率的なのである。これらが、自由主義の利点や成果であるが、正しく実行されなければ、今日のような惨状を見ることになる。物的欠乏や根本的な不平等、治安の悪化など競争をするための基盤を揺るがし得る要因を排除し、国家の秩序を保ちつつも、自由な競争を促進する計画を立てるのが自由主義国家の政府の役目であるが、ヘルムート・コールの政権では、統一過程における柔軟さに欠ける対応や、杜撰ともいえる後処理を行ったことで、東西での格差が生じた。本来、西ドイツで実践され、証明されたように、移民とは国家の働き手の不足を解消し、競争を活性化させるものでもあった。しかし、今日のドイツの旧東独地域では経済基盤の未発達による、不満の副次的な主張として、移民の排斥論が言われるようになったのである。結局のところ、古典的自由主義に基づく社会は、競争基盤が不安定になっていたり、不平等であったりすれば、おのずと失敗しやすくなっていくのである。コールは、基本法旧23条に基づき、統一を実施したが、この急な社会の変化についてこれなかった市民は多い。123条に基づき、東独地域の生活水準が西独地域と統合しても競争の阻害にならない段階になるまで、国家のサポートを行わなければならなかったのである。これを古典的自由主義の失敗と揶揄されるのは的外れである。ここでこそ、いかに西独地域の競争を活発化させつつ、東独地域の生活状況を改善するか、という古典的自由主義の真髄が問われていたのだ。古典的自由主義が忠実に実行されれば、解決していた問題であろう。
協調と外交
現在の国際連合のような組織が必要であることは分かり切ったことで、今更言うまでもない。とはいえ、このような国際機関に過度に依存し、国際機関の仕事と考えられるものをどれもこれもこの組織に押し付けたら、すぐさま機能不全に陥りかねない。現在の国際連合の有り体が示しているように、いくつかの問題に対しては有効であることがあるが、結局現在の混沌とした国際情勢の中で、身動きが取れなくなるのだ。また、かつて組織を世界規模に拡大しようとして失敗したことが国際連盟弱体化の要因であった。これは、現在の国際連合にも少々見られる傾向であろう。例えば、日米韓欧州諸国間では協力関係が成り立つにしても、全世界で、というのはまず不可能である。「世界連邦」のような比較的緊密な国家連合を、例えば西欧より広い地域で初めから発足させるのは現実的ではない。限られた地域から、徐々に拡大していくことは、可能であるかもしれないが。一方で、たとえ地域ごとに連合が組まれたとしても、その連邦間で戦争が勃発する可能性があることは事実である。この戦争のリスクを減らすためにはより規模の大きい緩やかな連合が必要になることも認めなければならない。だがそうした組織が必要になったとしても、文化や価値観、規範が似た国家同士で連合を組む妨げになってはならない。再び戦争が起こることは出来る限りの力を尽くして防がなければならないが、世界中の戦争を完全に抑止できるような恒久的な国際機関を一気に作れると期待すべきではない。そのような試みは失敗に終わるだろうし、より限られた範囲であれば成功したかもしれないチャンスの芽を摘み取ってしまうことになる。であるから、今の我々のすべきことは、自由な国の人々で協力・協調することによって、戦争につながりうる摩擦や軋轢のリスクを少しでも減らすことである。また、現在多くの国で人気を博しているナショナリズムや所謂「自国ファースト」というものは、我々が本来すべき協力・協調を困難にする。これは勿論、この章の冒頭に述べた、「現在の国際連合のような組織が必要であることは分かり切ったこと」である理由に相当する。だが、これを理解しない者はかなり多い。では、次の章で経済問題を含む、現在の問題について考察する中で語っていこうと思う。
失敗と
現在、多くの国で所謂「自国ファースト」「反移民」「反国際的組織」を掲げる政党や人物が多くの任期を博している。例を挙げればきりがないが、代表的な例としては、アメリカのドナルド・トランプ氏、ドイツのAfD、フランスの国民連合などである。これらに共通するのは「包括の失敗に伴う経済不満」である。彼らが謳う「自国ファースト」や「反国際的組織」は国際組織の機能不全への不信感、「反移民」は特に経済的に弱い地域(ドイツの旧東独地域ではこれが顕著であり、多くの人々から指摘されていることである)での、自らの地域の経済的な貧窮を根源としていると考えられる。包括の失敗による問題を彼らは映し出したのだ。しかし、これ以上でもこれ以下でもない。彼らには中身がない。前回の記事でも述べた通りである。
AfDの党首ワイデルはXでのイーロン・マスクとの対談では、他政治家の悪口ばかりを言い、建設的議論は行われず、また、彼女は伝統的家庭を主張しながらも、彼女自身はそのような価値観とは反する同性愛者でもあるのです。私は同性愛者を否定しませんが、それで伝統的価値観を主張するには、内実が伴っていないと感じています。また、反EUを掲げ、移民をAfDの言っているようにしたところで、結局は労働力は足りなくなるうえ、欧州市場を失ったドイツの製品は米中とどう渡り合うのかという問題があり、さらに逆に欧州諸国もドイツ市場を失えないと私は考えるのです。AfDが内実を伴わせずに民衆をある種の「熱狂」に巻き込み、「何のために」「何をするか」が明確でないまま政権を獲得しようとしていると。
以上より、私は彼らはあくまで不満を具現化し、それを極端に表現して人気を博した人々であり、それ以上でもそれ以下でもない。と結論付けた。勿論、彼らが政権を獲得する、というのは国際情勢を予測不能で危ういところへ誘うということであり、非常に警戒すべきことであるのだ。では、ここで我々のすべきことは何か。抽象的に言えば「包括」である。先ほどより、現在の多くの国での所謂反動もしは極右「ポピュリスト」の台頭は、「包括」の失敗と述べてきた。これすなわち自由主義社会を発展させるべくひつような「競争のための計画」の不十分さである。競争地盤の強化の不徹底、つまり地域による経済格差や犯罪・不法行為の発生は競争を阻害する。であるから、治安維持・地域的格差の撲滅を推進しつつ、十分に競争の地盤のある地域では、さらなる競争を進める必要があるのである。
おわりに
18〜19世紀の英国で発展した古典的自由主義は、現代の課題に対しても依然として有効である。我々自由主義者のすべきことは、彼らの示した理論の現代への適応と発展であり、また、協調により戦争に繋がる摩擦を防ぎ、そして、最も根本的なところである競争の地盤を強固にし、それを多くの人にとって利益のあるものであることを示すことである。この思想の理論的発展に尽くすには、私はあまりにも無知であり、非力であると思う。だが、多くの自由主義者の深い見識と良心をもってしてならば、これらは成し得るだろう。自由主義のさらなる発展と、平和の内の発展を祈っている。
では、良い一日を。