🇹🇭旅情:ジュライホテルへの畏怖。カオサン組より。
もっかコロナ禍が3年目。
タイへの渡航欲が増すばかりだが、
止まらない円安に溜息をつくばかり。
書棚の財布を開けると最後の渡タイである2019年末の残りのバーツ札がぎっしり入っている。
…と言ってもそれは大袈裟で、せいぜい二万バーツくらいだろう。
notesに記事を投稿してはインドシナ半島と沖縄を反芻していたのがコロナ直後。あれから2年。
久しぶりに開き閲覧された記事のレビューを見ると
ダントツで、「ジュライホテル」だった。
次点で「ミャンマーの夜」、沖縄の「コザ」なども意外に閲覧数が多い。
どういう経緯で私の記事に辿り着いたか皆目見当つかないが、それだけ「ジュライホテル」に想い入れがある方がいるのだろう。
あれからジュライホテルにまつわるエピソードを書籍やWebの情報から調べれば調べるほど、当時のように日本との繋がりを断ち切って沈澱できるような環境は、2022年現在にバンコクにはないと思ってしまう。
なにより、日本とタイの経済格差は
すでにエリアによっては近接、いや抜かれている。
2000年代前半。カオサンのインターネットカフェでメールを開いて、ようやく友人とコンタクトできたのが旅情を感じ取れる最後の時期だったと思う。
ジュライホテルが閉鎖された95年、日本がその後30年近く停滞するとは考えられなかっただろうし、タイが経済成長を止むことなく突き進み、クリーンな中進国になるなど予想もしなかったことだろう。
パンデミックで焼け野原のようになった繁華街にも灯が灯り始めたと現地の友人から聞く。もちろん聞くまでもなく現地から発信するユーチューバー達の情報が先だったりする。
思うのだが、タイ現地から日本人視聴者(世界へ向けて、の方もいるだろうが)を意識しながら発信しながら「旅情」をどのように感じるのだろうか?
日本にいる時でさえ。
このスマホとやらにいらぬ情報が入ってきて、
たまにSNSから離れたくなるくらいなのに。
2002年、初めてドンムアンに降り立った時、
バックパックにはフィルムカメラ。
そして現金のみ。
ポケットにあるガラケーは、プラス2時間の日本の時刻を指したまま、電波は「圏外」となっていた。
全ての繋がりを断ち切った感覚があった。
僕にはそれが旅情だった。
ーータケシ