障害者とは
障害者というのは本来、文字通り人間が生きていく上で一般的に障害だと感じる点がある者をさす。
現代はまだまだ生きづらい。
数十年前までは障害という『病気』は幸か不幸か、発見されていなかった。
現在障害者と呼ばれるような特徴を持ったものは、「変わった人」「自分の意思で多数派から外れている人」「能力が著しく低い人」と思われていただろう。
その後、技術が進歩し、多様で専門的な職業が現れた現在では、そんな彼らには何らかの疾患を抱えているはずだと仮定し、身体的にも精神的にも、共通した特徴を持つものの総称として障害者と呼ぶようになった。
だがそれは本当に病気であろうか。多種多様な人間が存在する世の中で、決して少なくはない人数の人たちが障害者と認定されているが、彼らが皆「普通ではない」のだろうか。
実際のところ、障害という生まれもった「現代人の平均的資質からの差異」を病気として認定してあげることで、現代を生きやすく生活するためのサポートを受けられるようにしたのではないか。
その点で障害の有無診断は本人にも周囲にもプラスに働くかもしれない。本当に病気かはさておき、多数派から少し違う特徴を持つ人として認定されるのは周囲の理解を得るには悪くない方針かもしれない。
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だがそれは、障害者に対する理解が十分であれば、だ。
いくら障害者を障がい者と表記したって、皆障害者と認識するだろう。まず名前を変えるとこからはじめろと言いたい。
海外に幼少期から住んでいたごく普通な友達がたくさんいた子供が、日本に帰ってきて友達が一人もできず学校に馴染めない話をちらほら聞く。また、日本は外国に比べて障害者が多い。
これは日本の非寛容さを示しているのではないか。皆が皆、同じような態度を求められ、一般的な趣味を持ち、閉鎖的で性別で行いを区別するような古典的な悪習慣がまだ残っているからではないか。
障害者という言葉が確立したことはこの状況を助長している。
上記の特徴を持つ日本において、レッテルというものは一度貼られたらどんな特徴よりも先にレッテルしか目に入らなくなる。それまでは、「この子ちょっと変わってるね」で済んだものが、「この子病気なんだって。だからみんなと違う行為をするし、一緒につるむのは難しいね。」と食わず嫌いをする。一人の人間としてみてあげない。
逆に、障害者だからといって特別扱いをする。
これは当人にとって非常に失礼な行為だ。みんなが同じ人間のはずなのに、対等に扱うということをしない。触れてはいけないような存在として認識してしまっているのだ。友人同士なら当たり前のように冗談は言い合うし、同じ土俵に立って競争する。傷口を広げる心配をして過度に近づかないようにしようなどという配慮はないはずだ。対等にぶつかり合うことで徐々に互いを理解しあう関係になる。だが今は一方的に引いてしまっている状態なのだ。
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現代において、社会での生活のみならず、職場でも障害者は苦労を強いられている。
障害者手帳を持つことで、周囲が障害について認知し向き合うことができれば良いが、その存在は個人的にも社会的にも偏見につながってしまう。
政府としても、障害者手帳を一回作ってしまうと、その他の人とは受けられる福利厚生が異なる。ローンを組めなくなったりするのだ。
社会としては、形式上は障害者の有無を問うてなくとも、就職が困難になったり、いざ入った職場において障害を理解してもらえず他の人と同じような研修とやり方を強要され、当人が困っていても、ただやる気がなかったり能力がないとして相手にしてもらえない。
せっかく障害者手帳があるんだから、その人がどんな作業をするのが不得意で、その代わり、どんな強みがあってどこを工夫すれば他人と同等かそれ以上に良い仕事ができるかを考えるべきだ。
繰り返すが、障害は実態として、現代人の多数派が働きやすいようにマニュアル化された職場において不利な特徴を持った人を指している。
逆にいうと、みんなと全く同じことを全く同じ方法で求めているならそれは無理のある話である。多数派からは少し違う特徴を持つ彼らは彼らなりの強みがあるのに、全く活かせていないのだ。偏見や文化のせいで皆、特に日本人はそれが悪だと決め付けているのだ。
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