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ユリイカ2024年7月号 幸田文 生誕120周年特集に触れる。

ユリイカを読む。
普段から読んでいるわけではなく、今号をSNSで見かけて無性に読みたくなった。

それは幸田文の生誕120周年特集が組まれていると知ったからで、けれど幸田文に特段明るいわけでもなかった。

幸田文という作家のことは、近年の映画、ヴィムヴェンダース監督の「PERFECT DAYS」で知った。

と、思ったのだが、よくよく考えてみると幸田文の小説が原作の成瀬監督作品「流れる」も観たことがあったと気づく。

もっと言うと、それが純粋なる初対面でもなく、幸田文という名前自体と出会ったのはわたしがまだ舞台俳優としてデビューしたての頃だった。

当時、"幸田明音"という芸名を使っていて、それを名乗った時にとあるプロデューサーが「幸田文だね」とぽつりと言ったのだった。

もちろん、幸田姓を名乗っただけで(祖母の旧姓であった)全然"幸田文"ではなく。
そういう細かい突っ込みはご容赦いただきたいのだけど、事実そういう話があったということだけで流して欲しい。

で、その時のわたしは恥ずかしながらその作家を知らないものだから、「はぁ」と愛想笑いを含みながらなんの中身もない相槌を打って終わらせてしまった覚えがある。
けれどなぜか、その響きだけは残っていたから、こうして今文章にするに至っている。

加えて、他人にはかなりどうでも良い理由でわたしは幸田文との縁を感じている。

それは、わたし自身本名・芸名で、"幸田"以外にも三つの苗字を経てきたのだが、そのどれもに"木"にまつわる漢字が入っていたことだ。
しかもそれを、幸田文の「木」の目次を開いたことで気付かされた。

元々幼い頃から「いつか木になりたい」というささやかな木への憧憬の念を抱いていた人間だったのでもっと早く気づくタイミングなんていくらでもあったろうに、何故ここに来るまで意識に上がって来なかったのだろうと不思議ではあるけれど、でもそれをあえて幸田文、もっと言えばヴィムヴェンダース監督を通して気づかせてもらえたというのは(大仰な言い方ではあるけど)幸福なことだと思う。

ご覧になった方ならわかると思うが、前述の「PERFECT DAYS」も"木"や"こもれび"が主役だと言っていいほどに多用されている作品であるから、ものすごく心に響いた一本なのである。

そして最初のユリイカの話に戻るが、その中で青木奈緒さんと牟田都子さんの対談がある。

そこには同業の親を持つお二人の心のうちも垣間見えるようなお話もされていて、僭越ながら"二世"と呼ばれる立場でもある自分と重ね合わせて読む部分もあり、先輩方のお話に大きく頷きながら読んだ。

そして当然のことながら、話の中心である幸田文自身も作家である父・露伴と同じ道を進み、決して少なくはない苦悩を抱えたり感じながら書いてきたのだということに改めて思い至ると、わたしがこのインタビューや幸田文の作品に辿り着いたこともあながち偶然ではないのかもしれない、とすら思った。

また、この号には作家だけでなく映画監督や評論家の方々もエッセイを寄せている。

それぞれの立場・視点から幸田文との出会いや発見、いくらかの驚きなどを語ってくださっているのだけれど、やはり映画「イタリア旅行」を通して幸田文の「崩れ」を読む三宅唱監督の文章が興味深かった。

文学と身体を体現する"身体"というものに改めて目を向ける。
その身体という受容体、そして主体として感じたことと作品として発するものへと向ける視点。

それは最近読んでいた濱口竜介監督の「他なる映画と」でも語られる"身体性"というものと通じてくる。

これがまた映画をより深めてくれる一冊。
この本についても誰かと話したくなる。


やはりこの世界、というか地球、で生きるということの大きなポイントの一つは"身体を持っている"ということに他ならない。
それはわたしにとってもたぶん永遠のテーマの一部分であると思う。

ここまで身体性身体性と言われてしまったら、再びメルロ=ポンティの「知覚の現象学」をきちんと読み直さねばならない、とつよく思うのと同時に、気が遠くなるほどの遥か先にある理解への距離を感じずにはいられない。

こう考えていくと、人生の学びというのは自分にとっての新しい風を巻き込みながらも都度同じようなところにぐるぐると回帰しては累積していくようなものに思える。

とはいえ実のところ、戻っているように感じられても見方を変えれば何周にも螺旋状に伸び上がるような様相を呈しているのかも、という一縷ののぞみみたいなものも持っている。

そんな想像をしつつも、それをまた言葉にしてしまうと「結局全て繋がっているんだねぇ」というありきたりなフレーズに帰結させてしまいそうな自分の語彙力を呪いたくもなる。

それでもこうして出会うことのできた一つ一つを丁寧に掬って、自分の体験としてそうっと数珠繋ぎにするつもりではある。

それから今回ふとユリイカを購入したことで知った・感じた"次"への要素を溢さないように掌に乗せて、自分の額に、頬に、ひたひたと染み込ませて身体への潤いとしてもゆきたい。

そうしているうちに、何故惹かれるかわからないものに導かれるままに生きていたあの頃の自分みたいな瑞々しさとか、光みたいなものを取り戻せないものかと、そういう邪な気持ちも正直、無くはない。

そんな自分を見つけることは数%かなしくもあるのだけれど、大抵は希望であるし、祈りでもある。

日々の生活の中に埋もれてゆっくりと死んでいきそうになる自分を掘り起こし、取り戻していくための。

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レイナ キヅキ[Reina Kizuki]
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