やっちゃん

やっちゃん。

小さいころ、私は母からそう呼ばれていた。

本名に「や」という音はないので、なぜかすりもしない「やっちゃん」というあだ名をつけられたのかはもう分からないけれど、母と私だけの間で通ずるその呼び方を、私はささやかに気に入っていた。


母は美しい人だった。心が豊かで、愛が深い人だった。彼女は必死に、着実に近づいてくる老いと戦った。年齢を重ねるにつれ刻まれていく皺、落ちなくなる体重、そのすべてに抗った。

その反動として、娘の成長を憎んで心を保った。「やっちゃん」が「詩史」としての自我を持つことを嫌がり、永遠に幼くて何も分からない、母が世界の全てだった「やっちゃん」を「詩史」の中に見つけては喜んだ。生理が来たときは、なぐられた。娘の携帯のメールをすべて読み、彼氏のような男からのメールを見つけては勝手に電話をかけていた。

「うちのやっちゃんはあんたなんか好きじゃない」と。


私も私で頑固な娘だったので、それなりに反抗してみたり、高校を卒業するのと同時に家を出てみたりしたけれど、母に呪縛された心はなかなか立ちなおらなかった。

結婚し、母から離れた場所に家庭を持った今でも、みる夢は抑圧された学生時代のことばかりで、隣で寝ている夫を見つけては安心する毎日だ。

だけど。

今ならわかる。愛おしい人に、本名とかけ離れた名をつけてしまうほどの愛情を。自分がすべてだと思わせたくなるほどの束縛を。

ときどき「やっちゃん」に戻って、母に手放しで甘えたいと思うこともある。やっちゃんと呼んでくれる人は、世界のどこを探しても、母しかいない。詩史の中にはやっちゃんが残っている。私はかつて、やっちゃんと呼ばれた娘だった。




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