山手通りの贅沢
もうやめよう。
晩秋の山手通りを歩きながら、そう決心した。
なぜかっていうと、なにが欲しいか分からなくなったから。なにが欲しくて、なにが欲しくないか分からなくなったから。
情で付き合うってのは、そんなこと、したこともないし。そもそも性に合わないし。
私はすっぱりさっぱり生きていきたいのだ。必要なものだけに囲まれて。まあ、無機質なものについては別だけど。帽子をかぶるためだけの頭とか、ゆでたまごをうすい輪切りにするためだけの用品とか、それにしか使えない、汎用性なんてものはまるで無い、そういう贅沢なものに惹かれるのは、わたしの唯一の人間らしいところなのだろう。
自分が好き好んで陥った状況なのだけれど(あのときのわたしはどうかしていた、と今は思うしかない)、妻子もちと恋に落ちるなんて複雑なこと、もううんざり、まっぴらだ。
道ゆく小さい子どもを見かけるたび、その手を引くまろやかな母親を見かけるたび、切なくて悲しくて、でも別段羨ましくはないというがんじがらめな気持ちになるということは、不倫女(ほんとうにこの言葉は品がなくてきらいだけれど、これとしか言いようがない)のだれしもが経験するのだと思うと、自分がなんだかとたんに凡人だったような気がして、そのたび幻滅した。
もうやめよう、って言えるかしら。
私にそんなエネルギーと冷たい気持ちと、あのひとに対するなけなしの愛情がのこっているかしら。
山手通りには車がどんどん走っている。わたしのいちばん好きなセンチュリーをたまに見かける。そういえば、心残りといえば、あのひとが車を運転する姿をいちど見てみたかったなあ。(自称)安全運転をする、背が高くて痩せていて、頼もしくてやさしい、でも絶対に手には入らない、切ないひとだった。
カフェでもダイナーでも花屋でもある店の前でわたしは立ち止まる。こんなになんでもできる、便利な店はきらい。でも、看板を見て、エスプレッソがのみたい、と思った。あのとろりとした苦い液体の余韻にひたりたいと思った。
そういえば、エスプレッソカップも、エスプレッソを入れるため、それだけにしか使えない贅沢なものだ。そして、あのひとの長い脚も、歩くためだけにしか使えない。
こりゃあまだしばらく別れらんないな、とひとりごちた。
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