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ちょっとだけ、○年前のお話。②

続き。

そうやって、腹痛と症状とも闘いながら、なんとか2月を迎えました。

その頃にはもう、授業や勉強以前に、登校してみんなと授業を受けることすら、人一倍努力が必要でした。
一つの教室のなかで、みんなが机に向かって、教科書とノートを開いて、シャーペンや蛍光ペンを使ってノートをとっている。教科担当の先生が、淡々と説明しながら、黒板に書いては消して、書いては消す。を繰り返す。
その環境にいるのも、当時の私には苦痛でした。

その環境から逃げたくて、苦しくなって、手が震えて、だんだん指先や足先が痺れてきて、周りに気づかれて、ざわざわしたりが嫌で、症状が出てきたらいつも、逃げるように教室を出ていた。
どうしても動けない時は、教科担当の先生が、教員室にいる学年の先生に電話してもらって、迎えに来てもらったり、足先が痺れてうまく歩けない時は、エレベーターを使わせてもらう時もあった。

それでも、家族やクリニックの先生に背中を押されて、学校に通い続けた。

そして、2月中旬頃、日本でもいよいよ本格的に、新型コロナウイルス(Covit-19)
が流行して、どの学校よりも早く、私の学校は休校になった。
周りは、びっくりする子、嬉しくてはしゃいでる子もいる中、私は、内心、
ほっとしていた。

そのまま、休校は4ヶ月も続き、次に登校したのは、新年度の、6月だった。
新しいクラスで、知らない子もいたけど、当時私が通っていたのは、中高一貫の学校で、私は中学部から在校していたので、知らない子が2、3人いる程度だった。
学校が再開したからと言って、まだまだ国や県単位で、規制はあったので、まずは分散登校に。出席番号が、奇数の人たちと、偶数の人たちで2部制に分けられた。

クラスで毎日会う人数が半分になって、一緒に授業を受ける人数も、半分になった。
私は心底それに救われていた。

だけど、その間にも、徐々に病気は悪化して、とうとう、🐿️に手を出してしまった。
(隠語にさせていただきます。)

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