映画日記〜ボヘミアン・ラプソディ〜
どうせ無職。文章位書こうとぼちぼちPCに向かう。誰もが読んで楽しい文章かは分からない。これからたまに私が日々考えることを書き散らかす。どうでも。いい。前、慣れない口調で書いたら書きづらくて仕方ない。辞める。今回は簡単にいうと演劇は王道の詰め合わせ的な側面がありそこが大好きという話。その前にまず前提として言っておきたいことが沢山。このnoteではとりあえず王道について書く。
王道とは難しい言葉。定義、それぞれの持つ微妙な雰囲気の違いをすり合わせるのも。だからまずは私にとっての雰囲気をはっきりさせる。まずは参考までに。
今回考えるのは割とふわっとした細かい雰囲気まで踏み込んでいない辞書らしい説明。それでは私にとっての王道という言葉を簡潔かつ可能なだけ意味の面で正確に言い換える。何だろう。考えるとそれはあるある。
ある。ドラマを見ていて突然音楽、カメラワークが切り替わる。私達は何かが起こると分かる経験則による無意識の条件反射。何かも大体雰囲気で分かる。ドアノブに伸ばす手が拡大されたら心臓に悪い展開が1秒後に待つ。恐怖が大嫌いな私はこの時点で大体目をつぶり耳を塞ぐ。映画が居間に何となく流れていて画面中の男女が唐突に無言になる。こいつら絶対この後接吻するとみんな分かってしまい何となくソワソワ気まずい空気が流れる。あくまで自然なふりをして飲み物なんかを取りに席を外す。小説、漫画でも先の読める展開は幾らでもある。冴えない主人公は必ずと言っていい程学校中の人気者と恋愛発展。学級序列、上位組織に目をつけられ1人で虐め紛いのことに耐える。最後は彼が助けに来る。『こいつを虐めていいのは俺のみ』と言う。事件を根本から見直すきっかけになる重大な真相は推理に煮詰まってから発覚。何気ない日常会話からヒントを得て唐突に『助かった、有難う』とか言い捨て走り出す。普段は鋭い洞察力は何処かになりを潜めヘラヘラしたキャラ。みんなあるある。
あるあるの意義。王道はみんなの安心。映画で言うなら見る人の安心。誰しも金、時間など何らかの犠牲を払って見る以上、最低限外さない保証が欲しい。恐怖映画であれば恐怖によるドキドキ、1種の興奮、スリル、非日常感を求めている訳。お決まりの流れが組み込まれることにより最低限確保。作る人達の安心にもなる。予告動画では肝心のどんでん返しの部分は見せられない。隠すまでもないあるある場面を採用しばらまくことでお決まりの流れが組み込まれていることに安心したファン層を確保し興行収入が最低限コケないようにすることが可能。あるあるがありとあらゆる博打的要素を孕んだ娯楽に分類される事象の上に伸し掛る地に足つけずにはいられない人々の生活を守る。
王道という言葉を言葉通りに受け取ると即ち正統派とも言い換えられる。正統派美人はよくいえば万人受け。そう。悪くいえば可愛いけど没個性的容姿。想像がつく。王道デート道と言われたら如何にも1番普通なよくある無難に楽しめるけど特段驚くことも起こらないような計画が目に浮かぶ。王道には大衆受けする。これさえ守れば失敗はしないみたいな保険的な意味合いが含まれる。
あるあるだけど王道だから此処で1つ考える。上記のように言うとあるあるとは凄く保守的な作品をよくする為以外の思惑が多く働いた概念。仕方がない。果たしてそのあるあるは作品を面白くなくしているか。今までの経験を思い返して。分かっているのに辞められない展開は読めていたのに面白い。やはりハッピーエンドは幸せな気持ちになる経験は誰にでもある。あるあるを何処かで待つ自分に気づく。答えは本能的に否。
これは私の言葉ではなく多くの凄い方々が散々言ってきていること。王道が王道であることにはそれなりの理由がある。よく奇想天外なことをすることで独創性を出そうと躍起する新人を嗜める流れでよく言われている話。今思いついた案が本当にこの世で初めて考え出されたものかは分からない。今まで何百億人の人が存在してきたのだから寧ろ誰かが過去に既に思いついてその上で却下したと考える方が自然。一方、王道は何故「王道」と呼ばれる程までに、あるあるに挙げられる程までに多くの人に各所で用いられるようになったのか。王道が相対的、絶対的にも素晴らしいからに他ならない。最も広く一般的に高評価を受けるということが繰り返し証明されてきたから。あるあるは才能、センスの溢れる先人達が積み上げてきた統計記録の結晶、過去の偉人達が既に導き出し終えている一種の答え。
もう少し踏み込みあるあるは作品をつまらなくさせるものではないという話をしたが寧ろ王道は例えば、ゲームを面白くする規律。あえて制限を設けることで作品を1段階昇華。俳句でいうところの5・7・5、季語だとも考えられる。5・7・5の音の並びは人の耳に普遍的に心地よい。長い歴史中で発見された解の1つ。そのリズムが頻繁に使用。いっそ、それの使用を予め規律として設けた詩の形態を確立し俳句と名付けるというのが流れ。即ちあるある。最初に例に出した種類でいうならば映画は大体2時間前後、舞台は大体1幕、2幕に分かれる。物語は多くが起承転結の流れに沿うなどもあるある。寧ろこれらは最早あるあるを超えた暗黙の了解。そう。当たり前のことと言える。俳句の5・7・5のようそれがそれであるための定義の1つになる。当たり前が更に進み、先で規律へと変貌。一般社会のありとあらゆることにも言える話。暗黙の了解、規律は強制力に多少の違いはあれど全て一直線上。そう。大きく違うものではない。
例えば、5時間を超える映画を作ったとして監督の自由。構わない。俳句とは違い2時間前後の映像作品が映画と呼ぶための定義ではない。制作自体は可能。普通ではない珍しさ、驚き故に話題。果たしてどれだけの人が本腰を入れ5時間ぶっ通しで映写幕の前に座ってくれるか。人の集中力を考えても2時間前後という現在専ら採用されている長さは最も多くの人に楽しく見てもらえる長さ。ちゃんとした裏付けがあるからこそ暗黙の了解の域にまで達する。王道はただのあるあるを超えた緩さは様々あれど規律の1種と言える場合がある。
王道の陰に隠れるもの。今まで王道あるあるは長い年月中で沢山の人が一般的に良いとされることが多いと思ったものの積み重ねであるという話。王道は実際多くの人に多用され愛される。あくまで一般的に多くの人にとって。王道という言葉は強く意識しないうちに多数派に肩入れする側面を持つ。王道は歴史的かつ統計的な一種の解には違いない。「恒久的に完全かつ絶対的な正解」かと言われたらそれはそれで違うから対抗文化的発想は常に忘れてはいけない。次世代は何時の時代もそこから始まり作られて行く。確か。既出の正解を正解だと信じて疑わないで。成長は生まれず放置すれば何れ色褪せ、何処かで見たことのある何か、見飽きた展開、大衆に媚びを売る薄っぺらいものに成り下がる。王道という言葉は自身により王道の枠から外れる少数派の存在を浮き彫りにさせる。王道を完全に崇め持ち上げるというのは即ち少数派を無視する行為。決してそれはいいことなはずではない。
詳しい訳ではない。さらっと終わらす。いい。例として近頃話題になった映画にもこういった話が出てくる。題名に採用されているQueenの代表的な曲『ボヘミアンラプソディー』は約6分という長さ。映画でも描かれているようこんなに長い曲は他にはない=あるあるではないから「ラジオで流して貰えない」と反対されながらも彼らはそのまま切ることなく世に出し今でも世界中に愛される有名曲。歌謡曲ならAメロ、Bメロ、サビなどのよう音楽の世界にも沢山のあるあるがある。この曲のことはほんの一例にすぎない。彼らはあえてあるあるを壊すことで歴史を作った伝説のロックバンドとして今も名を残し映画にまでなる。