おわりのはじまり
「自分が生きる目的は何なのだろうか?」
はたまた、
「自分の人生は、果たして生きる価値のあるものなのだろうか?」
僕は、この問いに真剣に取り組まなくてはならなくなった。
なぜいま、そう思ったのか、明確な理由はよくわからないが、今日の夕方、僕の心と頭の波長がめずらしく合致し、直感として体で感じ取った。
「今後の人生をどう生きていこう?」ということを真剣に考えたとき、それを「職業」という枠組みで捉えて考えると、なにひとつとして、僕の芯を貫くものが見いだせない。そんな状況が何年もずっと続いている。
有名人たちもそうでない人も、多くの人たちが口を揃えて、「やりたいことはあれこれやってみないと見いだせないものだ」と言っているのを何度も目にしてきた。実際に、それは事実なのだろうとは思う。ただ、僕の持っている感覚として、「やりたいことがわからない、何をして生きていけばいいかわからない」という僕の悩みは、数打ては当たる・・・で解決される表面的な次元の話ではない。もっともっと深いところにありそうなのだ。
幼い頃から、僕はずっと、ある「重苦しいもの」とともに生きてきた。これがどこからやってきたのか分からないが、幼い頃から強烈な「ネガティブな感覚」が僕の中には存在していた。それはイメージとしては、「ニヒリズムに覆われた気怠さ」なのだが、形を変えて生きづらさにもなったり、居心地の悪さになったりする。「眠気」になることもよくある。さらに、心の卑しさにもなる。いずれにしても、ヘドロのように僕の周りにまとわりつき、僕を下へ下へと引きずり降ろそうとする。そのため、この存在を「ヘドロくん」と呼ぶことにする。
この不快な感覚から逃れるために、僕はこれまでさまざまなことに「挑戦」してきた。他人に自分の経験を話せば、夢のような生き方だといってくれる人もいた。人との行けないようなところに行き、なかなかできないような経験もして、多少の面白い話ならできるかもしれない。
とはいえ、これまでの僕のすべての行動は、この「ヘドロくん」から逃れるために行ってきたものだし、何をしていてもそのヘドロくんの存在は僕とともにあった。捉え方によっては、このヘドロくんの存在が、僕に対して多少の「社会的な成功」を経験させてくれたというのも事実である。
しかし近年、特にここ数ヶ月、このヘドロくんと付き合って生きていくということが、正直つらい状況になってきた。ひと言でいうと、僕の精神状態がかなり悪くなり、家族にも悪影響を及ぼしてしまっている。自分で自分のことを冷静に見ても、かなりのうつ状態である。
生きがいがない。
のだ。
生きがいと思っていたことも、単にそのヘドロくんから一時的に逃れるために気を紛らわせるすぎないことであり、ふと我に返ると圧倒的な絶望感が僕の周りを取り巻く。自分をどんな環境においても、その絶望は僕とともにある。そして心の辛さを引き起こす。
生きることがこれほど辛いなら、生き続けなくてもいいのではないだろうか。
そう思うことが多々ある。
社会的に、経済的に多少成功したとしても、このヘドロくんとの付き合い方が見いだせない限りは、僕の人生の成功にはならないのではないかと思う。
幼い子供を持つ身でありながら、「人生は生きる価値があるものだよ」と今の僕の口から伝えることができない。笑顔ひとつ作るのも、結構なエネルギーを要する。これは、あまり望ましい状況ではないように思う。
だから、答えを出さなくてはならない。
自分の生きる目的、そして、自分の人生は生きるに値するのかそうではないのか。
これに答えを見出すことができた暁には、僕の生き方は自然と決まるだろう。
仮に、「人生は生きるに値しない」という結論になったとしても、僕は異邦人のムルソーのような澄み切った心でそれをさらっと口に出すことができると思う。
だから、自分と向き合う旅に出ることにする。
それができる今の環境に感謝しながら。
終わらせるのだ。よどんだこの状況を。
今日を、おわりのはじまりにするのだ。