見出し画像

心に残ることば_4(心情の聡明さ②)

ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』を読んだ感想として、前回は個人的な経験に徴して綴ってみた。

ここからさらに、「頭脳の聡明さ」と「心情の聡明さ」の関連性について少し考えてみたい。

というのも、私は近ごろ、読書をする場合においても「頭脳の聡明さ」にとどまらず、そこを突き抜けて、「心情の聡明さ」にまで辿り着かなければ、ただ頭でっかちになるだけなのではないかと感じているからだ。

ギッシングは、彼が「心情の聡明さ」を見出したある婦人について、このようにも書いている。

彼女は読み書きができる………が要するにそれだけなのだ。
それ以上の教育を受けていたら、必ずや彼女はそこなわれていたにちがいない。
なぜなら、それは彼女に心の導きとなるはっきりした光をあたえないで、その生来の志向を混乱させたであろうからである。

ギッシング作、平井正穂訳『ヘンリ・ライクロフトの私記』岩波文庫、p.58-59

この文章を、当時における女性蔑視や男女の教育格差の観点から論じるのはひとまず置いておく。

ここで私が考えたいのは、生半可な知識や知性がいかに人を惑わし、混乱させるものであるかという点だ。

「頭脳の聡明さ」はもちろん望ましいものであるし、いまのこの世界を生き抜くうえで非常に重要なものであることは言うまでもない。
その点で、読書を通じて得られるものはたしかに多いと思う。

けれども、それだけではどこか足りない気がする。
ギッシングが言うところの「生来の志向を混乱させ」ることにもなりかねない気がする。
むしろ現代は、そうやって知識先行型の頭でっかちになって、自分自身をかえって見失い、あてどない自分探しに明け暮れている人たちで溢れているとも言えないだろうか。

そう考えたとき、少なくとも古典として読み深めていく読書は、「頭脳の聡明さ」のみならず、「心情の聡明さ」をも涵養し、彫琢するものでなければ本当ではないように思うのだ。

あるいはまた、「頭脳の聡明さ」を、人としての生き方にまで練磨し、昇華させていくための豊かな土壌のようなもの、それが「心情の聡明さ」であって、後者の聡明さを読書によって耕し、育むべきとも言えるかもしれない。
それは、豊かな土壌があればこそ、田畑の作物が実り、たくましい樹木が育つのと似ている。

「心情の聡明さ」が「頭脳の聡明さ」にとっての土壌の役割を果たすものと考えるなら、「頭脳の聡明さ」が生長するにつれて、それが土壌にしっかりと根を広げる姿もイメージできそうだ。

先ほど「頭脳の聡明さを突き抜けて、心情の聡明さにまで辿り着かなければ」と書いたけれど、それは、知識や知性に基づく「頭脳の聡明さ」が、根をはることを通して「心情の聡明さ」の土壌に入り込んでいき、土に還り、土と同化するイメージとしても考えられそうだ。
大地に根ざした植物が大きく生長するためには、土の中にも大きく根をはらなければならないのと同じように。

それは、「頭脳の聡明さ」が、「心情の聡明さ」にしっかりと根付くということであり、根をはるということだ。頭でっかちにならないということだ。
そうなってはじめて、知識が本当の意味で自分のものになる、自家薬籠中のものとなるように思う。

これが、読書を通じて頭脳と心情の双方を育む私のイメージである。

ずいぶんと読書という行為に荷を負わせすぎな気もするが、そんなことを考えながら本を読むことが最近は多い。

いいなと思ったら応援しよう!