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神様からのギフトをもらった日

"何もやってなかったじゃん私"

今日久しぶりに、尊敬している女性社長のワークショップに行ってきました。

年商100億の会社の副社長のワークショップだけど、内容は"在り方"の話がいつも八割を占めます。

なんかね、ほんと私バカみたいなんで、恥ずかしいんですが、自分のことを
「できる人」と勘違いしていました。
それで、こんなワークショップに行っても、「できる人」のつもりで聞いてしまってたんです。ヤバイ人です。ほんと…

自分のことを「できる人」って思っていると、「それ知ってる」て思うから、せっかくのいい話が、自分ごととして、頭に入ってこないんです。
「知ってる」って思っていることは、
「知ってる」だけで「理解」はしていないことが多いし、「知ってる」と「やってる」は結果が天と地ほど違うのは、誰でもわかることだと思います。

私の場合

それ知ってるのオンパレードで、全く何もやっていない、イタくて、ヤバイ人でした。

ダサい女

やれてるつもりでいたけど、ただ「知ってるだけ」だった私。
ちょーダサいですね。

プロセスは大事だけど、ずっと月収ウン百万になりたいって思っているのに結果が出てないということは、やってない、もしくはやり方が間違ってるってことになります。

昨日のワークショップで"論語"の話が出てきたのですが、

その中に、

人と自分を比べる人はうまく行きにくい 

と教えてもらいました。

いつも人と自分を比べることでしか、自分の現在地を知ることができない私。
俗に言う"ありのままの自分"が認められないのです。

もっと、お金を稼がないと。
もっと、うまくやれないと。

みたいに、私のモチベーションは
「人と比べる」ことで保たれていました。

それをやっていると、次から次に
比べないといけない人が出てきます。
倒しても倒しても、止まない不毛な戦いの中に生きている。
戦って上を目指さなければ私は成長しない。

そう思って日々戦うのですが、一向に現状は変わらない、むしろ年齢と共に疲弊する一方。
いい加減、もうこれ以上戦っていたら、終わるぞ!と危機感を感じていました。

論語の本を読んでみた

先ほど書いたように、私は「知っている」ことが多いのは学ぶのが大好きだからなのですが、論語の解説でこの一文を見つけました。

何かを学ぶことは 、危険な行為だ 。
なぜならそれは 、自分の感覚を売り渡すことになるから 。

たしかに私は、学ぶことでそれが正しいと思い込み、そのことが私の考えであったかのような感覚でいました。

でもこの解説はこう括られています。

しかし 、学んだことを自分のものにするために努力を重ねていれば 、あるとき 、ふと本当の意味での理解が起きて 、自分自身のものになる 。学んだことを自分自身のものとして 、感覚を取り戻す 。それが 「習う 」ということだ 。それはまさに悦びではないか 。

私が、目標を達成できなかったのは、学ぶことばかりに、意識を注ぎ、そのことを日常に活かす努力が足りなかったのだと理解しました。

日々を丁寧に、自分と向き合う暮らしをしていなかった結果「知っている」と言う事から傲慢になっていたのかもしれない。

そう思うと恥ずかしい気持ちになりました。

丁寧に暮らす

昨日のワークショップで、現状は私の潜在意識の現れだと言うことを、再確認し、とにかく毎日、目の前のことに流されるのではなく、"自分自身"の感覚を大切に丁寧に暮らすことを心がけようと決めました。

人生がうまくいく人、幸せだなと思っている人は『感謝』の気持ちを多く持っている人です。

本当に、これも当たり前の話のようだけど、この当たり前のことができる人が"幸せを感じている人"なんだと2019年の締めくくりの年に気づかせもらえたことは神様からのギフトだなって、感謝しました。

人生捨てたもんじゃない。
たくさんの廻り道や失敗はあるけど、それも全部うまくいくためのプロセスだと信じてさえいれば、必ず助けてくれる人やチャンスは訪れます。

そのことに誠心誠意行動できるか。
あとはそれだけなのではないかと思わせてもらえた一日でした。

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