「シャイニングスター」にみる嫌われなさ需要
シャイニングスターという曲があるんです
こちらの曲はですね、無料で使用することが可能なボーカル入りポップソングでして、アーティスト名は「魔王魂」、作詞作曲は森田交一、歌は詩歩という方々です。不勉強で先日初めて知りました。
使用料無料、ということもあって、僕もどこかの動画で聴いた記憶があって、『何かで聴き、別の場所の何かでもう一度聴く』という経験をしたので、例えば「買い切りで使い放題な楽曲なのではなく、初めから無料なのでは」と思って『シャイニングスター』で検索してみたら、すぐ見つかりました。
YouTubeのコメント欄には、そんな感じでたどり着いた人による「自分はどこで聴いた」という書き込みの感想があふれていました。
再生回数は、2017年11月投稿、2020年06月19日時点で511万回再生。ちなみにですけど、宇多田ヒカル「Keep Tryin'」が2015年02月投稿で336万回再生で、期間でも総再生回数でも比較して負けております。まあ、リアルタイム感とかあるから、あんま比較として適切じゃないか。
(いい曲だから聴きなさい)
(横道)
衝撃の歌詞と曲の感想
僕は上記「シャイニングスター」という曲は、『何かで見た動画の終わりに流れていた何か、確かサビでシャイニングスターと歌ってた』以上に何も記憶がなく、それにしてはエンディングやオープニングに万能な感じがして、こういう買い切りのポップソングの需要も、一億総表現者時代に高まってるんだろうなーと、「想定:動画部品」として認識してたんですけど、改めて歌詞とともに聴いてみたら、この曲すごいんですよ。徹底して、作家の臭みを消していました。以下一部歌詞です。
ただ風に揺られて
何も考えずに
ただ雲を眺めて
過ごすのもいいよね
誰しも何かしら
使命を抱えてる
ただそれだけのこと
悩むのはもうやめた
さざなみの音に癒やされてく
軌跡を運ぶ風の音
時を閉じ込めて
シャイニングスター綴れば
夢に眠る幻が掌に降り注ぐ
新たな世界へ
I'll believe of my sensation
果てしない道の向こうで
瞼の裏に映る
一滴の光
トキメキを感じて(以下略)
(プチリリ:https://petitlyrics.com/lyrics/2775584)
そら何も記憶に残らないはずだな。『誰しも何かしら使命を抱えてる ただそれだけのこと』っていう歌詞読んだとき笑ってしまった。「誰」に「何かしら」に「それ」ですよ。問題提起が終わっていないのに問題が解決している。でも語感気持ちいい。あとはキラ星降ってきたら終わりです。この曲はボーカル曲である、という以上にボーカルに意味がない。一体だれがどういうことを歌っているのか冒頭から結末まで徹底的にボカされていて、初めて主語を見せたサビでさえ「I'll believe of my sensation」と英語にして自意識をボカした上に、ご丁寧に未来形にして『今別に信じるとかじゃないっすよ』と主張を弱くしてる。『絶対に何も歌いません』という強い意志を感じる。この歌詞の主人公は、歌が始まって終わるまで、一歩も動いてない。
それでいて、「ン」や母音をときどきまとめる以外には基本音符に一音で馴染みやすさがあるし、サビに高音を入れ、ABメロよりも詰め込んだ語感するといったポップさの基本はそろっているし、かつストリングス風ウワモノで重さはなく、さわやかさ・気持ちよさを印象的に残しています。そちらの印象だけを残し、『明朗に歌詞が聞こえるのに、何も記憶に残らない』という荒業を完遂。その結果、プロモーションに金かけたその辺の曲より、実力者が作った作家性の高いその辺の曲よりも再生数は多くなっているのです。このくらい商品としての志向が明確だったら、もしかしたら作家性が高いといえるのかもしれない。
「印象を操作する」っていう目的のみの曲は、やっぱりこの時代に沿って、先見の明がある方がちゃんとそこに商売があると思って作ったんだろうなーと思って、感心しすぎて恐ろしいとすら思ってしまったのでした。
ズルくない・嫌われない・敵ではない、という需要
今の世の中って、動画アップして小銭稼げたらいいな、って考える方々の成功例の一つって、素数じゃなくて最小公倍数に夢を見ると思うんですよ。「ズルくなくて、嫌われない」を優先したあとに作家性がくる感じ。僕は見たことありませんが、多分ヒカキンさんとかそういう成功例なんだと思いますし。凡才による表現というものは、最小公倍数の中からしみだしてくる個性で色分けが自然とされていくしかない、ってのが結論だと僕は思ってますが、この曲は動画表現において上記「3ない」を粛々と盛り込んだ純正パーツなんだと理解しました。
ミュージシャンが曲間のMCで、ライブ会場をドカンドカン笑わせる様子を見たことないですか。これは、そのミュージシャンのトークが爆裂に面白いから、というのではなくて、お互いの優位を認め合えている前提の空間だから、っていうことじゃないですか。言い方悪いですけど、信者を作って囲ってエサ食わすのが、活動に具体的な足しになることが多い。テレビの中の子犬がコテンと躓いたら、みんなニッコリすることと大体同じじゃないですかね。水飲んでる姿や言い間違いが愛おしくなったらもう完結なんです。別に常にミュージシャンが教祖側ばかりでもない、というより、この楽曲を動画に組み込む人にとっては、染み出す個性を勘弁してもらう代わりに、視聴者を拝む姿勢を作るために、こちらの楽曲が最適なんだと思うわけです。
「敵じゃなさ」「嫌われなさ」って、視聴側の優位を認める姿勢としてはわりと手っ取り早くて、面白さや作家性よりも先に、面白さや作家性を受け入れやすいハードルを取り除く作業なわけです。
炎上商法、みたいな言葉ありますけど、あれは完全にこういう嫌われなさを逆手にとったもんですよね。多分。「嫌さ」の受容を突貫工事で完了さえすれば、あとはもういろいろと大丈夫になりますやん。そして多くの人は「嫌さの突貫工事」の途中でメンタルがやられるので、これを実行する人が選ばれるだけなのよね。
もし相手が「敵じゃねえな」「不快じゃねえな」と認めたらあとはもう、白い子犬が段差でコテンと躓くだけで、みんなニッコリですよ。どうですか。
このシャイニングスターという曲は、多分この「嫌われなさ需要」を見越して作曲され、かつ無料で配布するという形で、無限にプロモーションを重ねることに成功して、511万再生に至ったわけです。そして、嫌われなさを最優先にするという、絵にかいたような現代地獄に生きてるのだなあ、と軽く震えたのでした。そうまでして生きていたいのかね、俺ら。
急に冷静になった
ここまで書いて魔王魂のウェブを確認しましたところ、あらかじめフリーでの使用を想定した高品質なボーカル曲がたくさん揃えられており、イメージをイメージから具現化することのないふわっとした歌詞のボーカル曲が並んでおりました。「嫌われなさ需要を見越した」というのは考えすぎて、フリーでの使用を前提にしているので、作家性を意図的に消してみた、くらいかもしれん。楽曲が、というよりは、取り扱われ方が時代性を浮かび上がらせているように僕が勝手に受け取っただけかもしれないです。多分そうだわ。
ただ、それでも僕らは、シャイニングスターを綴れば、夢に眠る幻が手のひらに降り注ぎますし、新たな世界になるんですよ(無味)。
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