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イカ 二貫(3分小説)



海沿いの町に、小さな寿司屋があった。店主は無口な老人で、名前も客には告げなかった。ただ、目を細めながら客の顔をじっと見つめ、その人のためだけの「二貫」を握るという。寿司屋の噂は地元で密かに広まっていた。「あそこは願いを叶える寿司を出す」と。

ある夜、旅人がその店に訪れた。彼の名は拓也。旅先で何もかもを失った。持っていたカバンは盗まれ、財布の中身は空っぽで、寒さに凍えるだけの夜だった。寿司屋の明かりが、波打つ海の向こうから小さな灯台のように見えたのだ。

店に入ると、空気がひやりと肌に触れた。カウンターには誰もいない。だが、どこからか潮の香りが漂い、どこか懐かしい気持ちにさせられる。奥から店主が現れ、何も言わずに拓也をカウンターに座らせた。

「何を握りましょう?」
その声は深く、静かで、まるで夜そのものが語りかけているようだった。

拓也はしばらく考えた末に、「イカを」と答えた。それが彼にとって唯一の答えだった。子供の頃、父親に連れて行かれた市場で食べたイカ寿司を思い出したからだ。あの日、父はこう言った。「イカはな、透明だけど、一番旨味が詰まってるんだ。」

店主は無言で頷き、目の前に小さな二貫を置いた。薄く透明な身は、まるで月光を吸い込んだように輝いている。拓也は一貫を手に取り、口に運んだ。

すると、景色が変わった。彼は突然、深い海の底にいた。周囲を漂う無数のイカたちが、光る触手をゆっくりと揺らしながら、彼を見つめていた。不思議と恐怖はなかった。ただ、冷たい水が肌に纏わりつき、孤独な静寂が心を満たした。

一匹のイカが彼に近づき、こう囁いた。「ここは君の記憶の底だ。」
拓也は言葉を失った。気づけば、遠い過去の記憶が浮かび上がる。父親の顔、母親の声、失ってきたものたち。そのすべてが、彼の心に重くのしかかった。

もう一貫を食べる勇気はなかった。彼は寿司を皿に戻し、店主を見つめた。だが、店主はただ静かに笑みを浮かべている。

「二貫目は、現実に戻る寿司です。」
そう言われても、彼は手を伸ばせなかった。今の自分に戻るのが怖かった。自分が失ってきたものをすべて抱えて、生きていけるのだろうか。

やがて、彼はそっと二貫目を掴んだ。口に含むと、塩気の強い海の味がした。光が爆ぜ、再び目を開くと、目の前にカウンターが戻っていた。だが、寿司屋にはもう店主の姿はない。あるのは、空の皿と海風だけだった。

拓也はそっと店を出た。遠くに広がる夜の海が、まるで自分を飲み込みながらも抱きしめるように輝いていた。

次の日、町の人が寿司屋を訪れたとき、そこにはただの廃屋しかなかった。

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