"数字"と"視線"を気にしすぎていたかもしれないという話。
regulusです。
Twitterでつぶやいた内容で、もう少し話そうかなと思ったんですが、長くなりそうだったのでこちらで書きます。
ざっくり言うと、もう少し好きなことを好きにやっていこう、そう決意した話です。
・数字の話
・視線の話
・ファンサービスの話(&言語の話)
今回はこの流れで、お話をさせていただきたいと思います。
・数字の話
インターネットで何かを発信している人は全員、多少なりとも考えたことがあると思いますが、自分に下される非常に正直で冷酷で有無を言わさない評価のひとつというものが"数字"です。
例えば僕の場合だと、Twitterフォロワー数、YouTubeチャンネル登録者数、動画の再生回数、動画の高評価数、ニコ動のマイリスト登録者数、ツイートやnoteなどのLike(いいね)、などなど。
全体としてどの程度の人の目に留まったのかという数字と、その中でどの程度の割合の人に気に入って貰えたのかという数字と、2つあります。
創作活動に限らずとも、例えばゲームでも、対戦ゲームだったら戦績を気にしてしまったりとか、ランクポイントを気にしてしまったりとか、そういうのもあります。
もちろん、数字を気にすることは必要なことです。
YouTubeなどにもアナリティクスという機能がありますが、これは当然、数字を分析することによって改善するための情報源にする必要があるからです。これを怠ることは、コンテンツの成長を放棄していることと同義です。
しかし一方で、必要以上の頻度で、あるいは細かさで、数字をチェックし過ぎることは良いことだとは思えません。
企業などに属していて、数字を管理することが自分の仕事ならば違うかもしれませんが、セルフプロデュースの観点においては、数字だけが目的ではない場面の方が多いはずだからです。
収入源がYouTubeチャンネルのみで、生活のためにどうにかしてでも数字を伸ばさなければならない状況であれば、血眼になって数字と向き合うのも仕方がないかもしれませんが、それはまあ、例外的な話です。
ゲームのランクポイントが良い例だと思うのですが、一戦終わるごとに数字と睨み合いながら一喜一憂しているというのは、ゲームのランクを上げる人にとって日常茶飯事なわけですが、それって楽しいの?っていうことです。
文脈でお分かりだと思いますが、僕はそれを人並み以上にやってしまいがちです。それが良くないなっていう記事なので。
普通に考えれば、ランクマッチは楽しいですよ。数字を気にしはするけど、どうやれば上に行けるかと思考を巡らせ試行錯誤した結果、徐々に実力を向上させていくことの繰り返しですから、そういうのが好きな人にとっては面白いと感じます。
だけど、数字を伸ばすことが目的になると、自分のスタイルと関係なしに効率的な方法を選択していき、失敗に繋がった要因に強い嫌悪感を示し、数字が伸びないのを目の当たりにすると運要素以外認めることができなくなります。
強制労働施設に詰め込まれて、椅子に拘束させられてランクマッチをしてるわけでもないなら、何でそれをやっているの?という話に最終的にはなりますよね。僕はそう思います。
敵の方が良い装備とかキャラとかデッキとかで、自分が不利で負けて発狂する人も、味方がミスをして負けて発狂する人も、運要素で負けて発狂する人も、何で続けるの?と言ったら、やっぱり元々それが好きだからですよね。
じゃなければそんなに精神に負担をかけてまで、やる意味がないですから。上手くいかない時以上に、上手くいったときの楽しさを知ってるから、やるわけじゃないですか。
やりたいようにやって、数字は後から付いてくる。
数字のことを考えて、やりたいようにはやらない。
この二つの考えの板挟みで、バランスを上手く取るしかないんですが、どうしても後者に偏っていってしまいがちだなと、冷静に考えると気が付きます。
数字を過剰に気にする人は、おそらく自分自身のステータスや他人評価に敏感なのだと思います。
自分はこの程度なはずがない、周りから低く見られるのは我慢ならない。
もっと上に行けるはずなのに、という焦りとも言えるのかもしれません。
だから、自分が納得できる正当な評価が下されているのか常に確認し続け、考えているより低かった場合、段々と歪んでいくのだと思います。
僕は音楽については、数字を過剰に気にしなくなりました。
事務所に入り、実名で音楽を作る経験をし始めたことによって、regulusという名前で創作をすることは、本当の意味で自由に好きなものを作る場として切り離されたように感じているからです。
また同時に、採用か不採用かという動画の再生回数とは全く違う世界に身を置くことで、数字が上なら立場も上みたいな歪んだ思考には走りにくいのかなと感じています。
正直に言うと、好きな曲調や好きなボカロで作ったものの、数字が芳しくないのを見ると、それを避けようとする傾向は確かにあったと思います。
しかし、採用という狭き門に挑戦するような場だと、ありがちなものを作ってスルーされるくらいなら、やりたいことで個性をアピールして選んだ貰った方がよっぽど良いと考え、万人受けはしないだろうけど気に入ってくれる人の為にやる、という行動原理が芽生えました。
これこそが、僕が音楽を作ることにおいて、数字から解放される最大の特効薬だったと思います。
プロの世界では僕は、ひよっ子もひよっ子ですが、これを得られただけでもとても良かったと思っています。
"数字"の怖いところは、声がないことです。
淡々と表示される意思のない集団であって、その大小では質を測れません。
数字を確認することは目安として非常に便利ですが、それを絶対的なものにしてはいけないと学びました。
「薄い1000人」と「濃い100人」だったら、濃い方が得られるフィードバックは大きいことでしょう。しかし、1000 or 100としか表示されない数字は、感覚を狂わせる危険を持っています。
しかも、インターネット上での数字など、広告機能を始めとしたあらゆる方法でいくらでも変動させられます。全く同じコンテンツだとしても、広告を打つだけで10倍も100倍も数字が変わるのに、それが創作の原動力や基準になるでしょうか。
僕も溜まったポイントで、たまにニコニ広告をまとめて使う時がありますが、一定の効果があることをよく知っています。YouTubeにもTwitterにも似たような機能があります。
そんな不確かなものでは、自分のステータスにはなりません。数字って、そんなものです。山の天気みたいなものです。
どんな界隈にも一発屋っていますけど、全てが噛み合ってドカンとトップに上がった人でも、トータルで見た時にそれがステータスだとは言えないように思います。
やりたいことに賛同してくれた上で長期的に応援してくれる、文字通りのフォロワー(追いかける人)を増やすことが大切なのであって、やはりその為には、やり続けるモチベーションを持っている「やりたいこと」をやるしかないなと、そう思います。
・視線の話
話は変わりまして、"視線"の話です。数字とは全然別のトピックです。
「パノプティコン」という言葉をご存知でしょうか?
僕は高校の時に授業で教えてもらい、えらく心に残っていて、それ以来よく話題に出したりしているワードです。
簡単に説明すると、真ん中に看守がいる塔が建っていて、その周囲を円形に取り囲むように独房が並んでいるような刑務所です。そしてポイントは、囚人からは看守の様子が見えないようになっていて、囚人にとってはどのタイミングで自分が見られているのか分からないようになっているのです。
つまり、いつ見られているのか分からないから、常に行動を監視されている可能性を感じ続けないといけないという構造で、見られていない隙に悪さするみたいなことが出来ないんですね。
これが、僕の言っている"視線"です。
どういうことかと言うと、自分自身で作り上げた「典型的な自分」という偶像を守るために、逸脱した行動を自制するという意味です。
本当にどう見られているのかは関係なく、自分で想像した「周囲からこう見られているであろう」というレッテルを自らに貼り付け、その模範的な立ち振る舞いから外れた行動は、常に刺さり続ける"視線"によって許されないと感じる考えだということなんですね。
また他には、誰かが直接言ってきたわけでもないのに、そう見られているのではないかという"視線"を勝手に想像し、それによって行動が左右される場合も指します。
例えば、そういう気分ではないのに「新曲はまだ上がらないのか」という視線を想像して、作らなきゃいけないと感じたり、「この人はいつも、この曲調・ボカロで良い曲を作ってくれる」という視線を想像して、他の曲調・ボカロで創作するのを躊躇ったり。
実際にあるかどうか不確かな"視線"でも、「見られているかもしれない」と感じる以上、自由にやりたいことが出来ない状況を、パノプティコン型の構造だと言えます。
SNSなんてものは、それの象徴のようなものです。いつ誰が、スマホの画面で自分の発言を覗いているのかなんて、全く分からないのです。
だから、身内で悪さを武勇伝のように話せたとしても、それを分かっていないような人たちがいるから、SNSはバカ発見器なんて言われるのです。
そして視線に晒されている状況下で、行動可能な「模範的」な広さというのは、監視している人たちの許容範囲の共通部分のみになります。
数学の集合でこういう図を見たことがあると思いますが、ABCそれぞれの監視者の共通部分である3の範囲でしか、立ち振る舞うことができないということを、僕は言っています。
これは監視者の数が増えれば増えるほど、模範的という姿は平均化され範囲を狭めます。つまり、どんどん誰にとっても無害で当たり障りない存在にしかなれなくなるということです。
これが、僕のTwitterのツイートが極端に少ない理由のひとつです。
本当は、APEXの武器調整がどうだとか、グラブルのキャラがどうだとか、そんなこといくらでも言いたいんですけど、ボカロPでシリアスめな曲を作る人という偶像から逸脱することを想像し、そのようなつぶやきを、自ら求められていないとして排除します。
その結果残るのは、音楽にまつわる簡単なツイートか、告知のみです。
作品の世界観的に、regulusというキャラクターのロールプレイを壊してしまいかねない、と言ったほうが伝わりやすいでしょうか。
それがパノプティコン型の視線による、行動の阻害だということです。
そして、今回の記事で言いたいのは、もう壊しちゃえ!ってことです。
視線の重圧に耐え、模範的でいることは、モチベーションが上がらない上に新たな可能性をも制限するような感覚が生まれてきました。
「そんなことやってないで曲作れよ」と本当に思われている可能性も捨てきれませんが、やりたい時はTwitchでゲームしていたいし、YouTubeでピアノも弾いていたいです。
「EDMなんていらんからバラードにしてよ」と思っている人もゼロではないかもしれませんが、その逆もあり得るし、全員の希望を満たすジャンルは作れません。当然ボカロも。
本当に何か言われた時は、またその都度で考えますが、もう視線を想像して自制するのはほどほどにしようかなと思います。
何というか、それが楽です。
・ファンサービスの話(&言語の話)
この話は、"視線"に通ずる部分もあると思いますが、ファンサービスについてです。
これは数字がどうとか関係なく、ただ純粋に僕が、応援してくださる方々のことを大切に思って、喜んでもらいたいという気持ちの話です。
しかし、喜んでもらいたいという気持ちを優先し過ぎると、やっぱりその時々で自分のやりたいことをお座なりにすることになってしまうんですよね。
先ほどの話で、自分で勝手に求められているものを想像して、それに沿うようなことを言いましたが、場合によっては掛け離れたものを作りたくなる時だってあるわけです。
自分で言うのもおかしいですが、たぶん僕はあまりにも真面目に考え過ぎていて、かつ応援してくださる方々を大切にしようとし過ぎていて、自分のことを大切にしていないのかもしれません。
その最たる例が、英語への翻訳です。
もしかしたら、ボカロP界で最も英語への翻訳に努力をしているかもしれません。これは本当に、ファンサービスの最たる例で、当たり前ですが一度作った歌詞や文章を翻訳すること自体に、一切のクリエイティブな要素は存在しません。
じゃあやめれば?って言われても、そういう問題ではありません。非日本語圏のファンの為を思ってやっているのであって、そっちが日本語の勉強してよと言うのは、あまりにもぶっきらぼうです。
なので別に、そういった労力を支払うことはいいと思っているのですが、やりたいことを曲げてまでファンに媚びることは違うな、という話です。
「そんなこと望んじゃいない。好きなことをやってくれ」と全員が口を揃えて言うでしょう。それは分かっています。
逆に言いたいのは、「好きなこともしたいんだけど、皆に喜んでももらいたいんだ。分かってくれ」ということです。
好きにやっていれば評価は後から付いてくると言いますが、いつも感謝しているという表意は必要だと思うんですよね。
そうなってくると、先述の数学の集合の図の共通部分で、同時に全員を喜ばせようとするのは結構難しいことです。なので現実的には、取捨選択が必要になるのですが、そこで選ぶか選ばないかという優先順位を付けることになるのであれば、結局僕がどれをやりたいかになってしまいます。
順番にそれぞれサービスをしていって、一周したらまたもう一周、みたいなやり方に現状なってしまっていますが、それだとよく考えたら、新しく自分のやりたいことに順番が回ってこなかったりするんですよね。
なので結論としては、ファンサービスという要素を「やりたいことリスト」の項目のひとつとして考えて、リストの中でやりたい度が高い項目を、その都度やっていけばいいんじゃないかと思います。
バラードを作りたい、EDMを作りたい、ミクを使いたい、ルカを使いたい、ゲームしたい、アニメが見たい、映画が見たい、ファンサービスがしたい。
そのくらいの感覚で、考えてみようかなと思います。
・まとめ
悩みすぎ。もっと自由でいい。
2020.10.19 regulus