阪急・東宝創業者の電車経営/長坂祐輔
阪急・東宝グループ創業者、小林一三(いちぞう)氏は「事業の夢に生きた人」といわれましたが、どんなアイデアにもちゃんとソロバンと合理主義を貫きました。
小林氏はこう言いました。「会社をよくするにはどうしたら良いか、沿線開発はどうすれば良いかとベストを尽くし計画を立て実行した。その努力から温泉(宝塚新温泉)が生まれ、住宅経営が生まれ、宝塚少女歌劇(宝塚歌劇団)が出来、阪急デパート(阪急百貨店)が出来上がった…世間では僕の事業が当たるのを特別の事業哲学でもあるかのように聞かれるが、突如として現れたものじゃないんだ」(「私の行き方」)。
箕有電車の経営
小林一三氏の初期の偉業の中で最も有名なのが「箕有(きゆう)電車」(箕面有馬電気軌道)の経営です。
箕有電車について、小林氏は事前に計画路線の一部、大阪・梅田から池田(約16キロ)まで「沿道の住宅経営案を考え、こうやればきっとうまくゆくという企業計画」を描きながら2度、歩いて往復したといいます。
その計画を岩下氏にぶつけ支援を取りつけました。
「箕有電車は設立難で…早晩解散されるとみられている…それを幸い沿線で住宅地として、土地を仮に1坪1円で買う。開業後1坪2円50銭利益があるとして、毎半期5万坪売って12万5000円もうかる…電車が開通せば1坪5円くらいの値打ちはある。そういう副業を当初から考えて、電車がもうからなくとも株主を安心させることも1案だと思います」(「逸翁自叙伝」)。
沿線の住宅地販売
箕有電車は1910年(明治43年)3月10日、梅田ー宝塚間、石橋ー箕面間が開通しました。1909年に沿線の住宅地を買収。箕面公園の紅葉を見はからい「住宅地ご案内=如何なる土地を選ぶべきか」というパンフレットを発行しました。
小林氏自ら「美しき水の都は昔の夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民よ…往け、北摂風光絶佳の地、往きて天与の寿と家庭の和楽を全うせん」(「逸翁自叙伝」)と住宅販売史上に有名な宣伝文を書いています。
都市環境も視野に入れ、新しい都市空間を創り出す意気込み十分でした。
初の住宅ローン導入
住宅分譲では初の住宅ローンを導入しました。「1区画100坪、2階建て和洋折衷、200戸を建設。分譲価格は2500円。最初50円払い込み、残金は月24円払いの10カ年賦。たちまち売り切れた」(阪急電鉄「75年のあゆみ」)といいます。小林氏は「新しい鉄道経営のパイオニア的存在」(武知京三「都市近郊鉄道の史的展開」)となりました。
長坂祐輔