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【魅力探究in函館市南茅部】縄文×大宮トシコさん(住民インタビュー)/前編

こんにちは!ミライ研の田中です。
今回は、"ローカルディグ" in 函館市南茅部地域に関する記事です。


■はじめに

ミライ研では、地域の魅力を探究し、多様な形で発信し、さまざまな地域活性化につなげる「ローカルディグ(Local Dig)」という活動を進めています。

フィールドリサーチや住民インタビュー等を通じて、地域の文化や歴史等の魅力を探究し、特に「地域の特性や背景・ストーリー」を深く理解し、地域内外の人々へ多様な形で発信することで、地域ファンの増加や様々な地域活性化を創出するプロジェクトです。

現在、私は函館市南茅部という地域のローカルディグを担当し、地域理解に向けて、さまざまな地域住民の方々に地域での暮らしや仕事、昔の思い出など、お話を聴かせていただいています。今後、住民インタビュー記事として皆様にもお届けしてまいります!(順次公開予定)

―函館市南茅部地域 ~縄文と昆布の町~

この地域は、古くから出汁の食文化を支える真昆布などの海産資源が豊富で「昆布の町」と知られ、昔は「献上昆布」といって朝廷や幕府に献上されるほどの最高級の昆布が取れる地域で有名です。

さらには、2021年には垣ノ島遺跡や大船遺跡などの縄文遺跡群が世界遺産に登録されたこともあり、『縄文と昆布の町』としてより一層の注目を集めている文化と自然豊かな地域です。 

―【住民インタビュー】縄文×大宮トシコさん

本noteでは、『北の縄文CLUB』 会長の大宮トシ子さんへのインタビュー模様をお届けします。地域の魅力のひとつである「縄文」と大宮さんの関わりや昔話などから、南茅部地域の魅力をみていきます。
 
そして、大宮さんの話だからこそ、竪穴式住居や土器など教科書で習った遠い昔の“歴史”とは異なる、現代に暮らす私たちの生活や学びに通じる新たな縄文の魅力を感じることができるはずです。
 
ぜひ地域の魅力や暮らしについて住民の方々にお話しを聴いている気持ちでお読みいただき、地域の特徴や背景・ストーリーに目を向けながら、お楽しみください!

■本編:インタビュー記事(前編)



過去を知り、現在との繋がりを見つける。
「発掘」という縄文時代との対話。


北海道で初の国宝である『中空土偶』が出土した場所として知られる旧・南茅部町(現・函館市)。2021年には「北海道・北東北の縄文遺跡群」として大船遺跡と垣ノ島遺跡が世界遺産に登録され、縄文の町として注目を集めています。
 
このエリアでは古くから土器が出土しており、遺跡の発掘には多くの地元の方々が関わってきました。南茅部で生まれ、『北の縄文CLUB』の会長を務める大宮トシ子さんも、そのひとり。発掘の経験を活かし、現在は大船遺跡でガイドの仕事をされています。
 
「働く前はまったく興味がなかった」という大宮さんを、30年以上にわたって夢中にさせる縄文の魅力とは何なのでしょうか。これまでの歩みを振り返りながら、大宮さんにお話を伺いました。

プロフィール / 大宮トシ子さん
旧・南茅部町生まれ。1994年に南茅部町埋蔵文化財調査団の作業員となり、17年間にわたって発掘作業に従事。2011年から函館市縄文文化交流センターに勤務し、現在は道南歴史文化振興財団の臨時職員に。縄文遺跡の保存活用に取り組むボランティア団体『北の縄文CLUB』の会長も務めている。

パート感覚で始めた縄文遺跡の発掘

――最初に、大宮さんが会長を務めていらっしゃる『北の縄文CLUB』について教えてください。こちらは、どのような団体なのでしょうか?

大宮:縄文の精神と文化を学び、広く普及させていくことを目的とした団体です。資料を調べたり、実際に縄文の暮らしを体験してみたり、自分たちも楽しみながら興味のあることを知っていく活動をしています。
設立は1998年4月1日。当時は全国で80名ほどの会員がいましたが、今はだんだんと人が少なくなって40名くらいですね。私は5代目の会長になります。
 
――「縄文の暮らしを体験」というのは、具体的にどんなことをされているのですか?
 
大宮:作った土器を焼いて、それを使って縄文鍋を作って食べてみたりしていました。縄文時代の人たちが食べていたと思われる鮭や昆布、キノコなどを煮て、塩で味付けをして、土器で調理しているので少し土の味も混ざるんですけど、美味しかったですよ。
土器が作られたことによって、煮炊きができるようになり、定住生活が始まったと考えられています。私たちもそういう体験をして楽しんでみようというのが、北の縄文CLUB設立のきっかけでした。
 
――縄文時代の暮らしの追体験というのは、実際にやってみたら楽しそうですね。
 
大宮:鹿の角で釣り針を作って、アカソという植物の繊維を使って糸を撚り、木の枝に巻きつけて釣りをしたこともありました。それでちゃんと魚が釣れたんですよ。そういう道具作りや体験も行ってきました。

遺跡に近い林から原料のアカソを切り出し乾燥させる(出典:北の縄文CLUB)
茎の表面の堅い成分をひたすら叩き砕き、皮に含まれている長い繊維を取り出し、一本の細い撚り糸を作り、それを二本あわせて二本撚りの糸を作っていく(出典:北の縄文CLUB)

――大宮さんが縄文文化に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?
 
大宮:それはね、遺跡発掘の仕事に入ったことですね。私は南茅部地区出身で、周りに発掘の作業員をやっている友達がいたので、そういう仕事があることは知っていて。でも、私はただの専業主婦だったので、そこで働こうと思ったことはなかったんですよ。主人も、私が外に出るのを嫌がる人だったので。
だけど、娘が函館市内の高校に行きたいというので、私もただ家にいるのはもったいないなと思って。下にも息子が2人いて学費もかかるから、働いてみようかなと思ったんですけど、南茅部で仕事を探しても魚の加工場か発掘現場しかないんですよ。加工場は大変だと聞いていたし、魚を捌くのも上手じゃないから無理だなと。それで発掘の仕事をしていた友達に「私も働いてみたいんだよね」と話したら、「春に募集があるから受けてみれば?」と言ってくれたんです。それで応募してみたのが、発掘の仕事をに携わるきっかけでした。
 
――それが何年前のことですか?
 
大宮:1994年なので、もう30年前ですね。最初はまったく縄文に興味がなかったんですよ。でも、やってみたらすごく楽しくて。

――遺跡の発掘現場に入って、最初はどんな作業を担当するんですか?
 
大宮:最初は現場の壁や斜面が崩れないように、土が入った土嚢袋を一輪車で運んで、それを積んでいく作業でした。

――けっこうハードな肉体労働ですよね。
 
大宮:はい。一輪車を使ったことがなかったので、バランスをとるのが大変で。最初はヨタヨタしながら運んでましたね。そこから掘る作業もやらせてもらうようになって。
5月の連休明けから仕事が始まって、10月くらいでしたかね。調査員の方が「大宮さん、すぐ辞めると思ったのに、よく頑張ったね」って言ってくれたんですよ。体力がなかったし、肉体労働だし、すぐ辞めると思われてたんでしょうね。だけど、土を掘っているだけなのに、けっこう楽しいんですよ。自分で勝手に想像したりするのが。
 
――想像というのは、縄文の人たちの暮らしを?
 
大宮:そうです、そうです。「土器って、どういうふうに作ったんだろう?」とか「どこから、こんな発想が生まれたのかな?」とか、見ているうちにいろいろと興味が湧いてきて。それがすごく楽しかったんですよね。
現場からすごく珍しい遺物が出てくることがあって、それを自分が1番に見ることができるのも嬉しくて。何千年も土のなかに埋まっていたものが出てきたときって、しっとりと濡れた感じで、すごく色鮮やかなんですよ。
 
――へぇー!見てみたい。

大宮:それが空気に触れて、ちょっとずつ乾いていくうちに、くすんだ色味になっていくんです。そういうのを見られるのも、発掘作業員の特権だなと思います。
確かに仕事自体は重労働なんです。スコップで地面を掘って、一輪車に土を乗せて運んだりするので。夏は暑いし、秋の日陰はすっごく寒い。雪のなかで作業することもあります。だけど、そういうのも含めて、大変だけど楽しかったんですよね。「なんでもっと早くから働く気にならなかったんだろう」と思うくらいハマっちゃって、そこから17年間ずっと発掘の仕事をしてきました。

大船遺跡の盛土遺構。多量の土砂とともに土器や石器、食料の残滓が積み重なった「送り場」と考えられる場所。盛土からは土器や石器、副葬品、動物の遺骨など20万点を超える出土品が発掘。(撮影:1996年、出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会所蔵))

土器に残る縄文人の指紋

――17年間、発掘の仕事をされてきて、特に印象に残っている場面があれば教えてください。

大宮:すごく覚えているのは、臼尻小学校遺跡で小型長頸壺を見つけたときのことですね。縄文時代に作られたときのまま、どこも壊れていない、完形土器だったんです。それを私が発見して掘り起こしていたんですけど、壁のところの土が固くて。今思うと、早く形を見たい気持ちがあったんでしょうね。ちょっと力を入れて掘ったら、手が止まらなかったんです。
 
――わぁ……。
 
大宮:見えているのに、力の入った手が止まらなくて。土器にぶつかって、ちょっと欠けちゃったんです……。それは忘れられないくらいショックな出来事でした。
 
――話を聞いているだけでも、その場面が思い浮かんで緊張しました。
 
大宮:発掘は5、6人のグループで作業するんですけど、そこは私がひとりで掘っていて。欠けちゃったときに、慌ててみんなを呼んだんですよ。「ちょっと、みんな来て。土のなかから破片を探して」って。
調査員の人にも、壊してしまったという報告をしたら、その方がみんなを集めて言うんです。「珍しい土器が見つかりました。こういうのを掘るときは慎重に、壊さないようにお願いします」って。ただでさえショックなのに、みんなの前でそういうふうに言われて(笑)。今だから笑って話せますけど、あれは落ち込みましたね。すごく可愛くて、素敵な、壺型の土器だったんですよ。

大船遺跡の大型竪穴建物跡。深さ2.4mにおよぶ大型の竪穴建物跡、写真の人物は大宮さん。(撮影:1996年、出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会所蔵))

大宮:17年間、発掘の仕事をしていても、珍しい発見をすることは稀です。だからこそ、そういうものが見つかると嬉しいし、20年以上経っても強く記憶に残っています。
最初の頃は、先輩たちが「あそこの遺跡では、こんな土器が見つかったよね」と話しているのを見て、なんでそんなに昔のことを覚えてるんだろうと思っていたんですよ。だけど、私も今は発掘の仲間と集まると同じような話をしているので、やっぱり自分で体験したことは忘れないんだなと思いますね。

――学校の同窓会みたいな感じですね。

大宮:そんな感じですね。

――ちなみに、少し欠けてしまった土器は、その後どうなったんですか?

大宮:欠けた部分を修理してもらって、今は縄文文化交流センターの収蔵庫に入っています。

大船遺跡で出土した土器。数百年におよぶ長期間の変遷を示す土器。(出典:JOMON ARCHIVES(函館市教育委員会所蔵))

大宮:発掘現場で出土したものは、すべて記録をとっておくんです。それをまとめて、最終的には1冊の報告書を作るので。
なので、掘る作業が終わったあとには、土器を実測して図面に書き起こす仕事があります。土器に定規を当てて長さや角度を計り、それを方眼紙に点を落としながら書いていくんです。
 
――発掘の肉体労働とは違って、正確性を求められる作業ですね。
 
大宮:そうですね。形だけでなく、土器の模様になっている縄目も記録します。縄文土器の模様に使われている縄のことを“原体”と呼ぶんですけど、実際に使われていたものは100種類以上あるんです。1段で撚っているもの、2段で撚っているもの、右に撚っているもの、左に撚っているものと、それぞれで転がしたときの模様が違うので、原体を見極めて図面に残していきます。
これがまた面白くて、縄目の細かさや転がし方で作った人の性格が見えてくるんですよ。「この人は几帳面だな」とか「あまり上手じゃないな」とか(笑)。あとは、土器に指紋が残っているものもありました。
 
――え、縄文人の指紋が!?

大宮:残っていることがあるんですよ。土器を作っているときに指で押した跡がついてたりして。そういうのを見ていると、「何千年も前の人たちにも、自分たちと同じく指紋があったんだな」と不思議な気持ちになります。

――それは不思議な感覚になりそうですね。

大宮:実測をやらせてもらったお陰で、土器をよく観察するようになったんですよね。そこにどんな模様があるのかを見て、図面を書くので。そしたら、同じ人間が作っていたものなんだなと感じるようになりました。
私は本当に飲み込みが悪くて、図面を書くのも遅かったから、最初は大変だったんですよね。何回も書いては消して、確認してもらってはやり直して。ペンだこができた手が痛くて、もう泣きたくなりました。正直に言うと、土を掘ってるほうが気が楽だったんですけど、小さな発見があるのは楽しかったですね。(後編へ・・・)


後編はこちら!

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監修:田中 健人(地域循環型ミライ研究所)
協力:木野 哲也(ウタウカンパニー株式会社)、阿部藍子(パンチェッタ)
書き手:阿部光平(『IN&OUT-ハコダテとヒト-』編集者・ライター)
カメラマン:小杉 圭司
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